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12年たっても。

 先週、東北へとでかける用事があった。週末をひっかければぽっかり1日余裕がつくれる。ずっと気がかりだった被災地に足を運んでみようと思った。よく晴れた土曜の朝、仙台からレンタカーで気仙沼を目指した。

 いまから12年前の3月11日、ぼくは東京の自宅にいた。家が壊れてしまうかと思うほど揺れた。それから数時間後、原付でNHKへ向かった。当時、僕はクローズアップ現代のプロデューサーだった。いてもたってもいられなかった。道路は大渋滞していて、電車も止まっていた。家に帰るために大勢の人が歩いていた。そんな様子を見ながら、何ができるのかを考えた。
 しばらくして釜石に取材に入った。瓦礫だらけの道を自衛隊が片付けていた。巨大な船が陸に乗り上げ、線路には逆さまの家がのっかっていた。何もかもがめちゃくちゃだった。

 あれから12年。今もあの頃のことを思い出すと胸がぎゅっとする。

 東北自動車道は車も少なくとても走りやすい。真っ青な空がずっと広がっている。当時はこの高速道路も地震の影響で通行止めで物資が思うように運べないというニュースをよく覚えている。その後、復興支援で高速代が無料になったこともあった。道路とはまさにライフラインなんだ、と当たり前のことをぼーっと考える。

 まず向かったのは、大川小学校。震災で津波に見舞われ、全校児童108人の7割に当たる74人が死亡、行方不明となった。今は震災遺構として、その悲劇を後世に伝えている。校舎に近づくと、天井が剥離していて、ここが完全に津波に飲み込まれたことがわかる。胸が苦しくなった。

河北インターで降りて、大川小学校をめざす
震災遺構大川小学校
献花
当時はすっぽりと津波に飲み込まれた
津波到達地点

 隣には、大川震災伝承館。津波被害の詳細が展示されている。津波が到達した時刻で止まっている時計。そして今も行方不明のままの児童のランドセル。いろんな人の想いがいっぱいつまった場所だった。

隣接する大川震災伝承館
時間が止まった時計
行方不明のままの児童のランドセル

 続いて訪ねたのは、南三陸の震災遺構・復興記念公園。このあたりは海抜10メートルまでかさ上げが行われた。すり鉢状になった底の部分がもともとの地面の高さだ。旧防災対策庁舎が震災遺構として残されている。かさ上げ地の上には、南三陸志津川さんさん商店街が再建され、訪れた日も多くの観光客で賑わっていた。

旧防災対策庁舎
さんさん商店街の裏手にオクトパス君がいた

 海沿いの道を走っていると、まっしろな漁船がずらっと並んでいるのが目に飛び込んできた。気仙沼に到着したのは、お昼を少し回ったぐらいだ。大船渡に住んでいる元NHKの先輩、中尾益巳さんとここで再会、一緒に中華そばのまるきへ。煮干し中華そばをご馳走になる。

気仙沼の港に並ぶ漁船
まるきの煮干し中華そば
まるきの熊谷さん
元NHKの中尾先輩

 お腹が満たされたら、お土産を買いに斉吉商店へ。震災の翌年、六本木ヒルズで開かれたトークイベントでこちらの方が登壇され、その不屈の言葉が心に残り、斉吉商店の名前を覚えた。その後、ほぼ日でこの金のさんまを扱うようになり、見かけると買うようになった。一度、気仙沼のお店を訪ねたいとずっと思っていた。店内には海の神様が祀られていた。

斉吉商店の金のさんま
海の神様が祀られていた

 最後に訪ねたのはサユミさん。現在は、イラストレーターとしてnoteやTwitter、インスタグラムで活躍している。かつては、ほぼ日の気仙沼支社(今はもうない)で働いていて、その頃にぼくが取材で訪れた。事務所でお話を伺い、そのままおつれあいと合流し、復興屋台村でご馳走していただいた。以来、お会いすることはなかったけれど、SNSでゆるやかにつながっている。
 12年たっても、サユミさんもおつれあいも、そのまんまだった。違ったのはお子さんが産まれていたこと。震災で大きな影響を受けたというお茶屋さんも、すっかり再建していた。別れ際に、お店のなかで、おふたりの写真を撮らせてもらった。

マルト齋藤茶舗
サユミさんご夫婦

 12年たっても、とも思うし、12年たったから、とも思う。

 本当のところは、当事者にしかわからない。

 この土地の人たちの心にはあの日のことが刻印されている。それほどのことだった。東京にいた僕らだって少なからず傷ついた。

 なにか大きなことができるわけではないけれど、ゆるやかでもいいから、これからもつながり続けていたい。

 12年たっても、その気持ちは変わらない。

あなたからのサポート、すごくありがたいです。