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随筆│夏の影

 朝、八時ごろに目が醒めて、たいして寝不足の感はなかったにもかかわらず、十時ごろにまただらしなく寝床に潜り込んでしまった。

 初夏の風が本のページを繰って、はじめはいちいちそれを直して、また片手で本を持ち上げて斜めに読んでいたのだが、段々とそれも億劫になって、ぱらぱらぱら、しろいページが脳裏によぎって、それきりわたしは浅い眠りの中に入ってしまった。

 夢の中でわたしは、しろい畦道をひとりで歩いていた。逃げ水がゆらゆら、けれど遠い山並みからみどりの滲んだ風が吹きつけて、どこか爽やかな心地だった。やがて向かいに赤いものがちらりと見えたかと思うと、それは真っ赤な帯を締めた和装の女だった。狭い道幅を、わたしと美しい女とは互いに会釈をして通り過ぎた。女が頭を下げてそのしろいうなじが見えたちょうどそのとき、ふわりとクチナシの香りが立ちのぼって、わたしははっとして、水を浴びたような気持ちになった。女のしろい首筋はもう視界の隅に消えて、わたしはそのままゆるゆると歩いた。そうしているうちに、クチナシの香りにはっとした理由がわかった。わたしはちょうどさっきまで読んでいた小説の、その世界を歩いているのだった。そのことに気づいたときには、夢は醒めて、しろいカーテンが揺れていた。

 それから夜になって、また本の続きをゆるりと読んでいると、赤い帯の女は夜明けの海岸で恋人と心中してしまっていた。女が死ぬそのシーンで、わたしはひどく惜しいことをしたような気がして、また、耐えがたいような喪失感を覚えた。また女に会えるかもしれないと淡い期待を抱いてその日は早く寝たのだけれど、何の夢も見ないまま、夜明け、さえ切った眼を抱えたまま布団の上に寝転んで、わたしはいつまでもまぶたの裏に女の影を探していた。

(2022年夏執筆)

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