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日記│十一月十七日


 ブラームスの第一番を聴いていたが、こんな夜に音楽を聴いて帰るなんてもったいないと思い、そっと外したイヤホンを胸辺りまで引き上げたジッパーのところでジャケットの内側から外側に垂らして、歩くたびにそれがが揺れるのをそのままにしておいた。そんな中途半端なぶらぶらすら心地よく思えるような快い夜道だった。なにしろ、出がけから昼過ぎにかけて降り続けていた雨が止んで、町並みを霞ませる蒸気が夕日の光線を赤く散乱させたのも束の間のこと。私が帰る今になって、みずみずしい時雨の匂いを濃厚に残した闇が道々をしっとりと覆いつくしていたのだ。

 この文章を読む先々の読者のために先に断っておくと、多かれ少なかれ文章には何らかの意味があるものだが、この文章に関しては数ある文どもの中でも最低の部類に入るくらいには何の意味も持たないと断言してしまえる。これは勉強に明け暮れる受験生の悲しい手慰みでしかない。こんなことを書いているうちにも目の前の目覚まし時計は着々と明日の朝六時半へのカウントダウンを進めているというのに。書くことをやめられないのは、たとえ最低の文だとしても残しておきたいくらいの帰り道だったからだ。

 午後六時四十分の私は夕闇の中、県立図書館を出た。今日は多くの高校三年生にとり屁ほどの興味もない定期試験があって、十時には放課だからそれから日が暮れるまでの時間、この丘の上の図書館にこもって勉強していたのだ。そうして冒頭のような具合で歩き始めた。時雨と書いたけれどそんなに寒くはなくて、鼻歌でも歌いたいような気分だった。受験生にとって最良の精神安定剤は勉強時間かもしれない。だとしたら今日は最高の精神状態だ。しかし歩き始めたはいいものの、ここのところ私は音楽中毒とでもいうべき状況で、なんだか耳がさみしい。別段そのことに不安を抱いているわけではないけれど、この街灯のまばらなさみしい道を歩きながら雨の匂いだけではなにか物足りない気がむくむくと湧いてきて、ぷらぷら揺れているイヤホンどもに居場所を与えてやりたい気持になってきた。したところで何を聴くのか、ということになると、何も思い浮かず、胸元のイヤホンに伸ばしかけた手は宙に止まって、両者はまたそれぞれ元の振り子運動を再開した。
 いつかのこんな夜に聴いたはずの音楽は、坂道の頂上に差し掛かっても思い出せなかった。確かにこんな夜はいつかにあって、音楽はそんな記憶を色濃く留めているはずなのに。車線の多い割に交通量の少ないこの道路は、この辺りで丘の頂上を切りとおすように市街へと続いていて、狭い歩道は、ワッフル状の巨大な法面に圧迫されて、心配性な私は前に見える人影が自分と同じ市街へと下ってゆくものであることを確かめて安心した。塾の日にはターミナル駅の雑踏をさも人ごみにも頓着しないような顔をして歩けるくせに、こういう人間臭い時間に人間臭い道で人とすれ違うのはなんだか気を遣う。人間臭い?自分でもよくわからないけれど、誰もが家路を急ぐ晩秋のこんなさみしい坂道は、むしろ人間臭いに決まっている。

 そんなことを思っているうちに、あの人間臭い図書館と人間臭い場外馬券売り場が暗がりの中に姿を現す。たちこめる雨の匂いやてらてらと光る黒いアスファルトなんかで、一瞬ここがここでないどこかに思える。こんな瞬間が少しでもあるから、私は歩くことが好きなのだろう。
 さて図書館と言ってもさっきまでいた県立の方ではなく、それよりずっとくたびれた、ただし蔵書は豊富な市立の方だ。雑誌を借りられるから前はよくこっちに来ていたけれど、勉強するとなると友人に教えてもらった県立の方がずっと新しく清潔で、居心地が良い。それに勉強をするとなると言うまでもなく休憩をするわけで、その間はおそらく限られた数の人々にしか閲覧されてこなかったであろう角のパリっとした文學界なんかを座り心地の良いソファに腰掛けて読むのである。確か去年の夏ごろに新しく開館したはずだから居心地が良いのも当然だけれど。
 そんなわけで今日は休憩の度、と言っても二回しか取っていないけれど、何を読んだかというと、今年の夏ごろ芥川賞を獲った市川沙央の『ハンチバック』で、これが市立図書館では一冊の本・雑誌すら満足に買えない市民たちによって貸出予約数がえげつないことになっていたから、その市民たちの一人であるところの私も借りるのを諦めていたところ、試しに県立の方の雑誌コーナーの文學界を覗いてみたらまさに新品そのもので置いてあったのである。ただし借りられないので休憩の度にちまちまと読み進めるしかない。

 話が逸れてきたけれど、音楽を聴かない代わりに、ここでは書かないけれど読んだ内容やら思うことやらをつらつら頭の中で垂れ流しながらもう坂を下りきって、最寄りの一個手前の私鉄駅だった。もうここは駅前にスクランブル交差点なんかもあって、特に休日は競馬のおっさんやら飲み屋街の人々やらで込み合う。今日は雨だったからそうでもないけれど、ちらりと見えたケンタッキーフライドチキンの暖かな光に満ちた店内では若い男の店員が忙しそうに立ち働いていた。
 そうしてスクランブル交差点を渡って、一駅分だから電車には乗らない。乗ったところでこの路線に最近導入された自動車内アナウンスによると、この駅から最寄り駅まではアナウンス作成責任者の想定よりずっと距離が短くて、毎度次の駅の案内が終わらないうちにその駅に到着して扉が開くという有様なのだ。私もこの愉快な夜の気分が終わらないうちに家の扉を開けるのは癪だから、もう少し川沿いの道を鉄道の高架に沿って歩こう。

 川沿いの道を歩き始めてふと思い浮かんだのはエレファントカシマシのことで、確かにこんな夜に似合うのは彼らの曲だったかもしれない。思い返してみればちょうど三年前の今頃、学習塾の帰りをぽつんと歩いていた中学三年生の私もエレファントカシマシを聴いていた気がする。
 そう考えだすと例えばサザンとかも意外といいかもしれない、中島みゆきなんかも、とか考え出して、これはこの文章を書く今思ったことだけれど、安全地帯なんか聴いたらよかったかもしれない。と、そんなことを考え出したその時に、もしかしたら乗っていた各駅停車の列車が高架の上を過ぎて行って、私はその営みの光に目を奪われた。乗っているときには何も思わないのに、外から見た煌々と輝く車窓の光はなぜこんなにも感傷的な気分を掻き立てるのだろう。ため息でもつきたいような気持になって、息、朝、空目でなければ今年初めての白い息を目の隅で捉えたのを思い出した。記録しておこうという気概はあるのにいつの間にか始まって、終わっているもの。蝉。白い息。

 向かいにぼんやりと光る首輪をつけたチワワがやってきて、飼い主と共に私の横を過ぎていった。思えばこの淡い光だって、川面に映るラブホテルの青いネオンだって、私が勝手にヤクザの事務所だと決めつけているあの建物の防犯カメラの点滅する赤色だって、人々の営みの光なのだなあ、と感慨深くなった。誰かがそれを作り、つけてやり、設置し、そしてそれが今も残っている以上、そこにはそれ以上の意味が内包されているのだ。決して他のものでは表しきれない何か。それでも何かで表せると信じるならそれは血のにじむような言葉だけに違いない。
 言葉。やっぱりこの世界が言葉で構成されている以上、人間は言葉の意味を知り続けなくてはならないのかもしれない。知った言葉の数だけ世界は広くなるのかもしれない。私は「蒼氓」という言葉の意味を知らない。確か第一回芥川賞受賞作の表題。山下達郎の曲名にもあった気がする。そんなことを思いながらもう最寄りの駅の灯だ。

そう‐ぼう〔サウバウ〕【×蒼×氓】 の解説
民 (たみ) 。人民。蒼生 (そうせい) 。

デジタル大辞泉

 デジタル大辞泉によると、そういうことらしい。てっきり蒼穹とかそういう、青空系の語だと思っていた。かっこいい言葉だ。願わくは共通テストに出題されんことを。

 もういつもの橋だった。時間と心に余裕があれば少し先のめったに人の通らない人道橋を渡るのだが、もういい加減夜道にも飽きたのでぱらぱらと駅から放出された足早の人々と共に川を渡った。そうしていつもの公園、いつものポスト、最後の最後、いつもの道はやけにくろぐろと広がっていて、ほんの一瞬だけ、真夜中に黒い絹の海を渡る、そんな錯覚をした。



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