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小説│川辺のエロス

 モチヅキがそれを拾ったのは、日曜日の午後、図書館へと向かう川沿いの道でのことだった。日の光がやわらかくなって、アスファルトに落ちるガードレールの影も、街の輪郭も少しずつ淡いものになりつつある時季だった。さわやかな風が町全体に秋の色を運んでいた。

 借りていた本の貸出期限をすっかり忘れていて、そのうえ日曜日の図書館は五時には閉まってしまうから、モチヅキは相当焦っていたはずだが、なぜ彼女がそれを発見するに至ったのかはわからない。それは小さな、決して目立つ大きさではないひとつの植木だった。あるいは盆栽と呼ぶにはあまりに奔放な枝ぶりや生き生きとしたみどりが彼女の目に留まったのかもしれない。

 その植木は川沿いの柵の根本、陽だまりの中をがらくたのように佇んでいて、もはや佇む、というより、放置、放棄されていた。地味な茶色の鉢にこぢんまりと収まり、手のひらに収まるくらいの大きさだったが、緑の葉はこぼれんばかりに輝いていて、だんだんと葉を落としつつある周辺の草木と比べても奇妙な明るさを放っていた。日曜日の午後二時、野良猫があくびをして通り過ぎた一分後のこと。桜の木の立ち並ぶ川沿いの道で、モチヅキは急いで歩いていた足を止め半ば引き返すようにして柵のもとにしゃがみ込み、その植木を手に取った。彼女はまるで植木に惹きつけられたかのようにしげしげとこれを眺めた。もはや彼女の中でこの植木が荷物になるということはさほどの心配ではなかった。モチヅキはあたりに人の目がないことをすばやく確認して、そして、リュックサックから取り出した紙袋にその植木を丁重に収めたのである。

 植木を拾ったモチヅキが自分のアパートに戻ったのは日も暮れた八時ごろのことだった。図書館の後に服屋に寄って、また本屋にも寄って、思いのほか時間を食ってしまったのだった。急いでいた往路の早足に疲れを覚え、若干のため息とともにドアを開け、ただいまー、と誰もいない暗闇に声をかけたところで彼女は違和感を覚えた。なにか小さな動物が鳴いているような、珍妙な声がするのである。おびえたような顔のモチヅキがよく耳を澄ましてみると、その不思議な声は左手に下げた紙袋の中からしていた。モチヅキは一瞬、まさか何かしらの生き物を知らぬ間に持ち帰ってしまったのではないか、と危惧して、紙袋を放り投げようとしたが、そのたしかな重みに植木が入っていたことを思い出し、不思議と落ち着いてゆっくりと植木を出して沓脱の上に置いた。したところ、植木がしゃべっていた。植木は甲高い声で要求していた。

「私をもっと大きな鉢に植え替えよ。この鉢はあまりに小さい」

 モチヅキは奇妙なことにもあまり驚かなかった。それどころか、すっ、とこの植木がしゃべっていることを受け入れ、そして靴を履いたまましゃがみ込み、「明日の帰り、百均かどっかで買ってきますから、もう少し辛抱してください」植木に口元を寄せてこう言った。それから彼女は、「ちょっと風呂入るんで、待っててください。話はあとで聞くんで」そう言って靴を脱いで風呂場に向かった。植木は、さっきより少し低い声で、「うん」とだけ言った。

 植木は、自らのことをオサナマキナギノミコト、と名乗った。モチヅキがスマートフォンで調べてみると、どうやらこの植木はナギ、という木の幼木であるようだった。部屋の光を浴びて、オサナマキナギノミコトはそれでも燦然と輝いて見えた。

「私はオサナマキナギノミコトというれっきとした神木である。本来神社で祀られるべき存在なのだ。故あって、故、というのは信じがたい手違いによって枝の一部が折り取られ盆栽好きの老人のもとで生育されたということだが、そんな不埒な真似を経て、今こうしてここにいるのだ」

 オサナマキナギノミコトはキーキーと甲高い声でそう言った。確かに甲高いには甲高いのだが、どうにも小さな声なので、モチヅキは耳を寄せなければ会話をすることができなかった。

「でも」とモチヅキはビール缶を片手に口を開いた。モチヅキはこの出来事を不思議には思っていたが、それは偶然自分に宝くじが当たったような不思議さであって、半ば夢を見ているようなぼんやりとした高揚感の中で、オサナマキナギノミコトのことを別段恐れてはいないようだった。「あなた、しゃべれるのならそのおじいさんにそう言って元の神社に戻してもらえればよかったじゃないですか」

「私も来る日も来る日もそういって、戻すよう命令、というか、もはや懇願、したのだ。しかし」

「しかし?」

 オサナマキナギノミコトが口をつぐんでしまったのでモチヅキはそう問いかけた。

「私の声があまりに小さくて老人の耳に届かなかった」

「ふふふ」

 モチヅキは不覚にもかすかな笑みを漏らしてしまった。

「それどころか」とオサナマキナギノミコトはモチヅキの笑いすら耳に入らなかったように憤慨していた。「あの家の老婆ときたら、俺、私の声が確かに聞こえてるはずなのに、それなのに気味悪がって俺のことをあの川辺の道に捨てやがったんだ」

「でもあなた神様なんだから、なにかバチみたいなことできないの?」

「いや…」と、にわかにオサナマキナギノミコトは声を落として「私はまだ幼い、というか、小さいから、そんなことはできない」意気消沈したように沈んだ声でそう言った。

「なるほど…」

 モチヅキも自然と小さな声になって、それからオサナマキナギノミコトに尋ねた。

「それで、鉢を植え替えるのは明日するつもりなんですけど、この先私は何をしたら?」

「あ、あと水も欲しい。最近晴れてばかりだから。で、将来的にはもともと祀られていた神社を探し出して、どうにかしてそこに戻りたいのだ」

「なるほどわかりました。とりあえず今日は眠いんで、また明日でいいですか?」

「うん。あ、あとごめん、葉も切りそろえてほしい。多すぎると疲れるから」

「はい、じゃあそれも明日で」

 そう言ってモチヅキは洗面所から持ってきた霧吹きでしゅっしゅっしゅっとオサナマキナギノミコト全体を湿らせた。

「あ、あとごめん、あの、植物用の栄養ドリンクみたいな、緑のやつ欲しいかも。なぜかじいさん、俺だけにはくれなかったんだよ」

「了解です」

 また沈黙の中、霧吹きで水を吹きかける静かな音だけが部屋に響いた。そうしてオサナマキナギノミコトに水を与え終えたモチヅキは、洗面所で歯を磨いていた。

「あ、そういえば」

と霧を浴びて雫だらけのオサナマキナギノミコトが部屋の電灯を消してベッドに横になったモチヅキに言った。

「そなたの名は何というのだ」

「モチヅキ」

 モチヅキはスマートフォンを眺めながらそうとだけ短く答えた。

 翌日、近所のダイソーに寄って帰ってきたモチヅキは丼ほどの大きさの鉢と園芸用の土を抱えていた。鉢は無機質な白色だったが、確かにオサナマキナギノミコトが収まるにはちょうどよさそうな大きさであった。既に日も暮れて勤務を終えたモチヅキの顔には疲労が見られたが、それでもスマートフォンで植木の植え替え方について調べ、フローリングに新聞紙を敷いて真剣な顔で植え替えを行っていた。

「あの、なんかいろいろお願いしてて申し訳ないんだけど」

 と、いつしかフランクな話し方になったオサナマキナギノミコトが根を半分以上露出させたまま言った。

「出来たら明日からは、日中、外に出してほしい」

「はあ」

「いやまあ、忙しいならいいんだけど、この部屋ベランダあるじゃん。そこでいいよ」

「でもこの部屋北向きですよ」

「あ、たしかに。道理で寒いと思った。まだ十月なのに」

「でもそこの台所の窓は南向きなんで、今度からそこに置きますね」

「いやほんとありがとう」

 そう言うオサナマキナギノミコトの根はすでに完全に露出していて、オサナマキナギノミコトは、恥ずかしいな、この状況、と密かに思った。それから、神、というか、木って性別とかあるのだろうか、とふと疑問に思った。というのも、オサナマキナギノミコトはモチヅキのこの部屋に来て以来、なんとなく干されている下着やモチヅキの太ももなどを直視できないでいて、無論モチヅキのいない日中などは気にせずじっくりと眺めているのだが、やっぱりそういうのって、男っぽいよな、というか、一人称俺だし。そういうことを考えていたのである。そしてそんなオサナマキナギノミコトを北向きの窓から頭に黒い点々の入った病気の雀が凝視していた。

「ところで」

 モチヅキの声に驚いてオサナマキナギノミコトは、なに?と声が裏返ってしまった。

「その、前いた神社の記憶とか、手がかりみたいなものはないんですか?」

「ああ、なんか、意識芽生えるのって親木、あ、この場合は神じゃなくて親の方の親木ね、いや、そんな言葉ないか、まあともかく本体から分離して数日してからなんだよ。だからごめん、神社の記憶はない」

「じゃあなんで枝が折られたってわかるんですか」

「ああ、それは俺の想像。なんかほら、根っこの方不自然でしょう」

 そう言われてモチヅキがオサナマキナギノミコトの根をよくよく見分してみると、確かに太い幹からひょろひょろと細い根がみっしり生えていて、モチヅキはグロテスクな印象すら受けた。

「自分が神木ってわかってるのは?」

「それは意識が生まれた瞬間からしってたの、なぜかわからんけど。あとオサナマキナギノミコトって名前も」

「なるほど」

 そんな会話をしているうちにモチヅキはオサナマキナギノミコトを新しい鉢に植え替え終えていて、モチヅキは手をぽんぽん、と払って立ち上がった。

「この前の鉢はどうしますか?」

「あー」オサナマキナギノミコトは少しの間逡巡したのち、「まあ捨てといていいよ、盆栽爺さんのだし」

「りょ」

 片づけを終えたころには十時を回っていて、モチヅキも疲れをあえて隠そうとはしなかった。

「剪定は明日でいいですか」

「ああ、いいよ」

 オサナマキナギノミコトも植え替えに疲労が溜まったようで、緑の葉も心なしかくすんで見え、いつにもまして小さな声でそう答えた。

 また朝が来て、オサナマキナギノミコトは台所のシンクの上に置かれ、そうして夜になった。モチヅキは食卓の椅子に座ってスーパーの値引き弁当を食しながらオサナマキナギノミコトに職場の愚痴を垂れ流していた。オサナマキナギノミコトは時折相槌を打ちながら少し退屈そうにその話を聞いていた。

 モチヅキが夕食を食べ終わっても話をなかなか辞めないので、あの、と、オサナマキナギノミコトは恐る恐るモチヅキに声をかけた。

「そろそろ葉っぱの剪定か神社調べるかしてもらえるとありがたい」

「あー」

 モチヅキは心底面倒臭そうな顔をして立ち上がった。オサナマキナギノミコトは気まずそうに黙っていた。実のところモチヅキは酒を飲みながら帰ってきたので感情が如実に表れているだけで、そこまで大儀にしているわけでもなかった。

「でも神社のこととかなんにもわかんないなら」

 ハサミを動かしながらモチヅキが言った。

「ほんとにどうやって探せばいいんですか」

「ああ、でも盆栽爺さんの家は多分わかるから、その近くの神社を探してゆけば多分見つかる」

「なるほど…また時間がかかりそうですね」

 またオサナマキナギノミコトは気まずそうにして黙ってしまった。

 次の週末になって、モチヅキとオサナマキナギノミコトとは神社を探しに町へとでかけた。オサナマキナギノミコトはモチヅキに抱えられてあたりの景色を物珍しそうに眺めていた。と言っても彼に眼球がついているわけではなく、顔と呼べるようなものはどこにもないのだが、たまにそよそよと風に揺れる緑の葉が彼の高揚した気持ちを表しているようにもモチヅキには思えた。

「あ、そこ左だ、思い出したぞ」

 突然オサナマキナギノミコトが甲高い声を出した。モチヅキも彼の小さな声にすっかり慣れたようで、訊き返しもせず、黙って川沿いの道を左に折れた。年季の入った鉄道の高架橋が頭上を走っていて、ちょうどそこへ列車が来たために二人は轟音に包まれた。そのときだった。八十代くらいのよぼよぼの老婆が行く手の角からゆっくりと姿を現したのだ。老婆はちぢんだ腰にだらりと布をまとってしぼんだ乳房を露出させていた。そして、緩慢な動作で二人を認めたかと思うと、突如二人を指さして何事かを叫んだ。何を言ったのか。それは分からなかったが、モチヅキの耳には、オサナマキナギノミコトの「逃げろ!」という鋭い声が確かに届いて、モチヅキは老婆に背を向け、後ろを振り返りもせずに走り出した。はあはあ荒い呼吸だけが続いて、けれどモチヅキは決してオサナマキナギノミコトを離しはしなかった。気づくともうずいぶん高架下からも離れて、川の向こう岸の商店街だった。

「もしかしてさっきのおばさんが、あの盆栽の…」

 モチヅキが息を整えながらオサナマキナギノミコトに問いかけると、オサナマキナギノミコトは、うん、と言った。向かいの古本屋の店主が不審そうな目でモチヅキを見ていた。モチヅキは、通話してるふりしますね、とポケットからスマートフォンを取り出し、耳に当てた。オサナマキナギノミコトは葉も揺らさずにじっと何かを考えているようだった。

「もしかしたら」

 とオサナマキナギノミコトが言った。

「あのばあさん、ただ単に日光に当てるためにあそこに置いてくれてたのかも」

「え」

「なんか俺、心読めるみたいでさ、ばあさん、うちの盆栽を返せ、って強く念じてた」

「まじすか。てか盆栽だったんだ」

「まじっす。さっき気づいたんだけど。てかこの会話、ってか、俺の声だけだけど、テレパシーになってるしね」

「あ、そっか。だからこんなにちゃんと聴こえるのか」

 もはやモチヅキはこのような超常現象にも動じず、改めて、まじすか、を繰り返していた。

「でも結局盆栽おばさんは悪い人じゃなかったわけですね」

「そうかも、あとばあさんは盆栽はやらなかったけどな」

「なんか悪いことしちゃいましたね」

「いやまあいいよ、俺モチヅキの方が好きだし」

「まあオサナマキさんがそう言うなら」

 モチヅキはいつからかオサナマキナギノミコトのことを、オサナマキさん、と呼称していた。オサナマキナギノミコトもそれをすんなりと受け入れていたし、実際モチヅキとの会話に楽しみ、すら覚えていた。だからこそ。だからこそいまオサナマキナギノミコトは、つい、するっと、モチヅキの方が好き、と言ったことについて激しい混乱を起こしていた。俺はモチヅキのことが好き、なのか。しかしそれは自分の生活を保障してくれているという意味での好きであって恋愛的に、あるいは、性的に好きとかいうわけではない。はず。ってか俺木だし。いくら神とは言えどもね。

 モチヅキはオサナマキナギノミコトが急に黙ってしまったのを不審に思ったが、盆栽家での日々を思い出してでもいるのだろう、とあえて詮索はしなかった。

 いつの間にか日も暮れかけて、数羽のカラスが西の空を過ぎていった。

「秋の日は釣瓶落とし、ですね」

 モチヅキがぽつりと言った。オサナマキナギノミコトはいまだ考え込んでいたので、如実にびっくりした声で、え、なに、と訊き返したが、モチヅキはなんでもないです、と首を振った。

「この後どうします、私まだ元気ある、っていうか、なんか今日テンション高いんで、神社探してもいいですけど」

「え、まじ」

「まじっす」

「じゃお願いします」

 オサナマキナギノミコトの葉は期待で輝きを増したように見えた。

 神社は五分で見つかった。というのも、グーグルマップで付近の神社を検索したところ、リストの二件目に「治安神社」というのが出てきて、その神社の画像を見たところ、神木とされている木がオサナマキナギノミコトの風体と完全に一致していたのである。

「なんか治安悪そうな神社ですね」

「ははは」

「いやでも逆に治安いいのか、神社だし」

「はは、かもね」

 そんな会話を交わしながらもオサナマキナギノミコトの笑い声が少し空虚だったのは、やはり唐突に目前まで迫ったモチヅキとの別れに悲しみ、だとか、焦り、を覚えていたからだろうか。一方のモチヅキもこの先のことについて一抹の不安を感じていて、というのも、グーグルマップにおける治安神社のレビューに気になる一文を見つけたのだった。

「じゃまあ、行きますか」

 そんなことをモチヅキが言って、不安定な気持ちを抱えたオサナマキナギノミコトを抱えながら不安な気持ちを抱えたモチヅキはゆっくりと歩き始めた。

 たどり着いたのは住宅街の中にある小さな神社だった。神社の由緒を記した看板には、祭神・仇流賭槙梛命と書かれていて、おそらくアダルトマキナギノミコトとでも読むのであろう。オサナマキナギノミコトの生まれた神社であることは間違いなかった。しかし奇妙なのは神木と言えるような巨きな木がどこにも見当たらぬことで、モチヅキは先ほど抱いた懸念がまたドクンと脈動するのを感じた。

 こぢんまりとした鳥居をくぐって参道に入ると、さやかな青い風が渡るのを感じた。その青、というのは今でいう緑色のことで、まさにそれはナギの木の葉のような色だった。

 神木を返しに来た場合、どうするのが正解なのだろう。というか、神木に導かれてきたなんて言っても神社のひとは果たして信じてくれるのだろうか。

 モチヅキはそう思って、そして心を読み取れるようになったオサナマキナギノミコトが

「まあとにかく親木を探そう」

 そう言った。うん、と言ってモチヅキはオサナマキナギノミコトを抱えたまま祭殿のぐるりを一周した。しかし、神木と言えるような木はどこにもなかった。ないですね。そんなことを言おうとしたその瞬間、モチヅキは最も恐れていたものを発見してしまった。

 二人が参道の脇で目にしたものは、まだ切られて日も浅いと思われる大きな切り株だった。切り株には注連縄がぐるりとまかれていた。さらにその脇には立て看板が添えられていて、曰く、この木はこの神社の御神木であるが、某年冬に幹の中心まで病に侵されていることがわかり、数年にわたる必死の処置もむなしく、倒れる危険があったために某年夏、伐採された、そんなことが書かれていたのである。もはや疑いようがなかった。この切り株こそが、オサナマキナギノミコトの御神木、もとい、御親木であった。モチヅキはグーグルマップのレビューを思い返していた。「どうやら御神木は切られてしまったようでした」涙の顔文字と共にその一文が脳裏をよぎり、泣きだしたいような気持だった。だってこれはもう、なんというか、親が亡くなってしまったのと同じことではないか。そう思って、オサナマキナギノミコトの様子を恐る恐るうかがうと、ただその葉は青い風に揺れて、その感情は読み取れなかった。モチヅキは何か声を掛けようかと思って、逡巡した。

と、白装束を身にまとった壮年の男が声を掛けてきたのはその時だった。

「御神木をご覧にいらっしゃったのですか?」

 半ば呆然として切り株を眺めていたモチヅキは、驚いて振り向き、はいともいいえとも言わないままに少し強張ったような顔をした。オサナマキナギノミコトを抱えていることをどうやら神社の関係者らしいこの男に咎められてはよくない、と思ったからである。何より枝を折り取った張本人だと思われてはかなわない。しかしモチヅキの抱えるオサナマキナギノミコトを目にした男は、意外なことにむしろ柔和な顔をして、もしかして、と声を発した。

「もしかして、その植木もナギの木ですか?」

「あ、そうですっ」

 なんとかしてこの場を切り抜けようと発したモチヅキの声はすこし裏返っていた。

「おっきなナギの木があるって聞いて、この子に見せてあげたいと思って」

 独特な感性の持ち主だと思われてなんとかなるかもしれない。モチヅキはそう思ってなんとはなしにオサナマキナギノミコトの葉を優しくなでた。

「違う」

 オサナマキナギノミコトが突然声を上げたのは、その時だった。それはもはや叫びで、小さいながらも鋭く、矢のようにモチヅキと男の耳に刺さった。モチヅキは驚いて葉をなでていた手を引っ込めた。

「え」

 モチヅキが困惑してオサナマキナギノミコトを見ると、その葉はプルプルと細かく震えているようにも見えた。

「我こそはオサナマキナギノミコト。この神社の祭神の、その子である」

 男の顔から柔らかなものがすーっと波のように引いて、そうして男は恭しく応えた。

「申し遅れました。わたくし、ここ治安神社の神主、松本肥土士(ひどし)と申します」

 白装束の男改め松本肥土士はゆっくりと頭を垂れて礼をした。

「そんなことはどうでもいい。この神社の御神木は一体なぜこんなことになったのだ」

「仕方のないことでございます」

 モチヅキにはその瞬間、松本がにやりと笑ったように見えた。

「御神木は幹の中心から白骨化してゆく病でございまして、樹木医も手に負えない奇病だと申しておりました。わたくしどもとしても伐採差し上げるのは苦渋の決断だったのでございます」

「ふん」

 モチヅキは、オサナマキナギノミコトの発した声に怒りというより諦めを感じた。

「わかった。それは仕方のないことだ」

 オサナマキナギノミコトの葉はもう震えてはいなかった。それどころか、その葉は一層凛として、夕闇の中に青さは透明味を増したように思えた。

「代わりに私を祀れ」

 毅然とした調子でオサナマキナギノミコトは言った。

「それは」

 その瞬間、松本がまたにやりと笑ったのにモチヅキははっきりと気づいた。

「それはできませんね」

「何故だ」

「だってあなた」

 そこで松本はわざとらしく言葉を切った。

「だってあなた、もうナギの木の神でも何でもないですよ。あなたもう、どう見てもエロスの神じゃないですか。オサナマキナギノミコトなんて名乗るのもおやめなさい。あなたはエロス。祀られるべき場所は、エロス神宮かなにかですよ。とにかくもうこの神社とあなたとは何の関係もない。その証拠にほら」

 そう言って松本は祭殿を指し示した。

「あの祭殿の中に伐採された御神木をお祀り申し上げております。そしてわたくしもまれに御神木のお声を拝聴いたします。しかし」

 また松本は言葉を切った。

「しかし御神木は、あなたに何一つ言葉をおかけになっていないではないですか。これこそがあなたがもはやこの神社に祀られるべき存在でない何よりの証拠。あなたは、そう、いわば縁を切られたのです」

 誰も、何もしゃべらなかった。三人の沈黙の間を、ただ夕闇が流れていった。

「しかし」

 最初に口を開いたのはモチヅキだった。

「エロスの神って何ですか。そんなの聞いたことがないし、何よりオサナマキさんはこの通りちゃんとしたナギの木じゃないですか。それなのに」

「いや」

 否定したのは松本でなく、驚くべきことにオサナマキナギノミコト、いや、エロスだった。

「この男の言うとおりだ。俺は、この神社よりも、盆栽じじいよりも、盆栽ばばあよりも、何よりも、モチヅキが好きだ。これはまごうことなき事実だ。俺は幼い神だった故、この醜い欲望が具現化して自らを変化させてしまったことに気づかなかった。俺はエロスの神だ。エロスの化身だ。俺のことはエロスとでも呼べ。そしてどうか俺を許してくれ。俺のこんなわがままに付き合わせてしまって悪かった。本当に申し訳ない」

 モチヅキは黙って腕に抱えたエロスの葉を見下ろした。エロスの葉は、燃えるように青かった。

 神が変化する、ということは、まれではあるが起こりうることであるらしい。しかしそれにしても、あまりの事実にエロスは呆然としたようで、数日間深く考え込んで何もしゃべらなかった。その間にエロスの葉はいよいよ病的なまでに青さを増し、光に透かしたら色を失って完全な透明になってしまうのではないか、と思えるほどだった。

 神社でのことから三日経ったある日の夕刻、仕事から帰ってきたモチヅキにエロスは言った。

「俺は近いうちに死ぬ」

 え、とコートを脱いでいたモチヅキは動きを止めた。

「どうやら俺の体の芯は病に侵されているらしい。ちょうどあの神社の御神木と一緒だ。体の中がじんじんと熱くなって、それからすーっとそれが冷えて、感覚を失って麻痺するのがわかるんだ」

「幹が白骨化していると」

 モチヅキは不思議と冷静だった。このような未来をなんとなく予知していたのかもしれない。なんにせよエロスとの関係性に微妙な齟齬が生じてしまっている以上、もはやただの植木とその主、という図式が崩れつつあることはわかっていた。

「そう」

 エロスは静かに肯定した。

「でも治安神社の御神木は伐採されてなお意識を持っているようでしたけど」

「それは神社という場でちゃんと祀られているからだ。その分俺は祀られてもないし、ふふ、エロス神社なんてものがあるわけがない。それに何より俺は、こんな自分になってしまった俺が何よりも苦しくて、情けないんだ。もうこの世で神をやるつもりはない。高天原に還るとするよ」

 モチヅキは何も言わなかった。自分にできることはなにもないし、これ以上この世にいることが苦しいのならば、余計な同情の言葉はむしろ薄っぺらく響くと思ったからだった。

「もちろんモチヅキは樹木医でも神職でも何でもないから多くのことは望まないし、ただ俺が朽ちていくのを見ているだけでいい。もちろん見なくたって構わない。ただ、最後に一つだけお願いがあるんだ」

 エロスが言葉を溜めたので、なんですか、とモチヅキも口を開かざるを得なかった。

「抱擁してほしい。できれば全裸で」

「ぐ」

 モチヅキは思わずうめいてしまったが、それはやはり、エロスが近いうちに朽ちてしまうことに対する悲しみよりも、死期を前にしてなおこのような性的な願望を強く持ち続けていることに対する生理的不快感を強く覚えたためであった。それは至極当然のことだった。モチヅキの性的指向は少なくとも植物ではない。人類であることは疑いようのないことだった。それはモチヅキがエロスに対し性的な行為を行っても何も思わないし問題はないということの逆説的根拠にもなりえたが、エロスがこうして男性としての明確な意識を宿している以上、モチヅキにとってエロスをただの樹木としてみなすことは難しかった。

「そうすると」

 と、ややためらいのようなものを含んだ口調でモチヅキが言った。

「私たちの関係が円満のまま、円満、ってのもおかしな言い方ですけど、少なくとも平穏ではあったこの関係をまったく異なるものに変えて、そうしてあなたは勝手に死んでいくっていう、そういうあなたにとって一番残酷な終わりになってしまうと思うんですが」

 もはや静かな怒りを隠すこともなくモチヅキは淡々とそう言った。

「わかってるよ」

 エロスはあくまで泰然とした様子でそう言った。

「それでもいいから、抱きしめてほしい」

 モチヅキは黙って脱ぎかけていたコートを脱いだ。

「わかりました。ただ、明日の朝になったらあなたをあの川沿いの道に捨てます。それでもいいのなら、いいですよ」

「うん」

 モチヅキはもう何も言わなかった。ただ衣擦れの音だけが虚ろに響いて、そして一糸まとわぬ姿になったモチヅキは、優しくエロスを持ち上げてその鉢を胸に包み込むように抱え込んだ。エロスの葉がモチヅキの決して豊満とは言えない乳房に触れた。エロスはモチヅキの心臓の鼓動が鉢を通じて直接に伝わるのを感じた。キッチンの窓から夕暮れの赤い光が差し込んでいた。

「ねえ」

 モチヅキのその声は空耳ではないかと疑うほどに小さく、乾いていた。しかしその声は鉢を通じて、どこか張りつめた部屋の空気を通じて確かにエロスに届いた。

「どうしてあの川辺の道で私のことを選んだの?」

 モチヅキにはもうあの出会いが偶然でも何でもないことを悟っていた。それは、いささか陳腐な言葉でいうならば、運命。何らかの作為的なものがそこに介在したとしても、それすらも含めて運命というべきだろう。

「それは」

 エロスの葉がかすかに揺れてモチヅキの乳房を刺激した。

「モチヅキが、一番かわいかったから」

「最低」

 それ以上、二人は何もしゃべらなかった。やがてモチヅキの白い肢体とエロスの青い葉はだんだんと濃さを増してゆく闇に燃えるように鮮やかに光り、そうして静かにくらがりの中に溶けていった。

 秋は過ぎ去った。町は冷たさを増して、日の光もすっかり鋭さを失って力なく物事を照らしていた。しかしモチヅキの日常はいつもと変わることなく、ただ淡々と続いていた。それはモチヅキの性質においても同様で、すなわち少し曇ったその冬の日、モチヅキは再び返却期限を失念していた図書館の本を返すために川沿いの道を急ぐ羽目になったのだった。

 だんだんとその場所が近づくにつれて、モチヅキは努めてその存在を忘れようと試みたが、それは結局のところ無理な相談だった。モチヅキは若干の後ろめたさを感じながらも、半ば怖いもの見たさを含んだ目線をその、古びた柵の根本に注いだ。

 そこにあるのは白くくすんだ丼ほどの大きさの鉢と、そしてこちらもまた白くくすんだ一本の、ただの棒だった。今や植物と呼ぶにはあまりに簡素なその姿に何らかの意思が宿っているとはとても思えなかった。モチヅキはどこか虚ろな気持ちでその傍らに屈みこみ、これを強張った顔のまま眺めていた。青々と茂っていた常緑の葉は残滓すらなく鉢の土に溶けていて、また、奔放に伸びていたはずの枝もすっかり消え失せていた。そこにあるのは、本当に、ただ土に突き刺さった白い棒だったのだ。

 モチヅキの唇は、何か言いたげにかすかに動いたが、その唇が言葉を発することはなかった。彼女の手は少し震えたままに鉢を撫でたが、その震えが何かしらの感情に起因するものか、あるいは十度を切ったその日の気温に起因するものかはわからない。なぜならその直後、彼女はなにか自分の起こした重罪から目を背けるような素早さでその場を後にしてしまったからだ。

 にわかに雲間から太陽が顔をのぞかせ、モチヅキが去った川辺の道に柔らかな日を落とした。その光は否応なく朽ち果てたエロスを照らす。白骨化したエロスの幹は、すこし陰茎に似ていた。

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