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天地神名(Unique ancient Japanese Gods) 丹金ノ赫座(あかがねのかぐら) 制作雑記

*この雑記は読了まで約1~2時間ほどかかります。


こんにちは!
はじめましての方ははじめまして

カワバタロウです!

昨年秋、2021年10月ごろに開始したこの天地神名シリーズも、ようやく今回で七作目となりました。

当初の予定では、ここまで時間が掛かるとは
露(つゆ)も思わず……。
正直なところ、かなり驚いています。

「描く作業に時間が掛かってしまった……!!」

というよりかは、
調べ物をしたり、ロケハンしたりなど、

描き始める前の段階で、かなりの時間を掛けてしまい、
改めて、向き合ったテーマの大きさに気づかされた次第です。


シリーズ当初はそれほどでもなかったのですが、回を重ねるごとに調査量が増えていき、

まるで何かに引き込まれるようにして
もがき苦しみつつも、そして

楽しみながら、
なんとかここまで辿りつくことができました。


そして、取りも直さず今回は、

「一番大変だった……!」
と言っても過言はなく、

読んだ本は両指では足らず、
ロケハンも3度以上、

スポット的に細かく取材した回数も入れると
正直よく覚えていません。


そして、なぜここまで時間が掛かってしまったのかと言えば、

それは、
今回のテーマが揺るぎない日本一の名山

「信仰の対象と芸術の源泉」

「富士山」

であるからなのは、
間違いないでしょう。

2021年11月撮影



【 陽の神様 】


前回(#006)の神様も富士山をモチーフとしていましたが、

溶岩洞穴や地下水脈など、いわゆる富士山の「陰」の部分であって、

今回はいわゆる「陽」の部分にあたります。


富士山を調べてまず最初に思ったことは
そのとんでもない情報量や歴史の数々で、

とてもとても……

「一回で描き切ることは無理……!!」

と感じた私は、

まずは
富士山をいくつかの成分に分けて考え、

複数回に分けて制作するよう取り組むことにしました。

今回はいわゆる「陽」
つまり日の当たる

目に見える、“ THE富士山 ”が題材となっていて、

おおよそ
その膨大な「歴史」にウェイトをおいて制作しています。

しかし、

複雑で多岐にわたる情報の数々に混乱し
収拾がつかなくなり、

うまくまとめ切れず読みにくいのと、
さらに

いつもにも増して長文なので、
おそらく最後まで読むのに

1~2時間はゆうに掛かってしまうという
謎な雑記が出来上がってしまいました。


そして、おそらくは
箸にも棒にも引っ掛からない駄文の羅列が続くかと思いますが、

それでももし読んでいただけるならば、

とても嬉しく思います。



……―彼女は

今も昔も輝き続ける
「美と畏れ」の女神です。

混じり合い、せめぎ合う
「烈火を鎮める水」

そして

「赫然(かくぜん)たる、なよやかな」両性を持ち合わせる

神仏習合の神様となります。


それでは、
よろしくお願いいたします…!



【 丹金ノ赫座(あかがねのかぐら) 】


(キャラ絵差し替え)


富士の裾野の一角をにぎやかす遊園地

「富士急ハイランド」

そこは
全長900Mにもおよぶ最恐お化け屋敷

「戦慄迷宮 ~慈急総合病院~」や、

世界一くるくる回るジェットコースター

「ええじゃないか」などの

最叫(さいきょう)アトラクションを兼ね備えた、50年以上前から続く有名な遊園地になりますが、

そんな絶叫飛び交う施設とはかけ離れた
閑(しず)かな、そして

ひっそりとした雰囲気に包まれた美術館が
敷地の脇に佇(たたず)んでいます。

2022年6月撮影

そこは
「フジヤマミュージアム」という美術館で、

多くの名だたるアーティストたちが
様々な富士山を描いた絵画が展示される美術館であり、

スロープ状の回廊を巡りながら、ゆったりと見て回れる富士山好きにはたまらない場所になります。


私も6月頃、創作の材料集めのために
ロケハンでこの美術館を訪れましたが、

そこで耳にした言葉が
何故かずっと心に残りました。


それは近代日本画の巨匠

「横山大観」(よこやま たいかん)が言われていた言葉で


「富士を描くということは、富士にうつる自分の心を描くことだ」


というもので、

これは美術館2階奥にある映像ホールで目にすることができるのですが、

確かに

回廊に沿って展示された絵画を眺めていると、

どれもみな富士山の絵ではあるものの
同じものは一つとしてなく

写実的なものや抽象的なもの、
本来の形より鋭く描かれたもの、

力強かったり淡かったり、
楽しい雰囲気や怖い印象のものがあったり、

色使いも様々で

描いた人の
「人となり」

が富士山を通して顕(あらわ)れているような感じが、ひしひしと伝わってきました。


あとで調べてみたところ
富士山を描くということは、つまり

「己を描くことである」

とのことで、

この言葉に感化された私は
吹けば飛ぶような、しがない木っ端絵師の端くれではありますが、

こんなにも多くの人々を惹きつけてやまない富士山を題材に

神様を描いてみたいという当初の思いを新たにし、

自分なりに富士山を調べ、ロケハンし
描き上げたものが今回の神様

「丹金ノ赫座」(あかがねのかぐら)

となるのです。



【  富士山を描く  】


私は比較的富士山の近くに住んでいるのですが、

富士山というものはなんというか
日常の風景として常にそこにあり、

何をするにつけても、例えば
ちょっとした買い物や、ドライブなんかをしている時にも

「今日の富士山はどんなかなー?」

無意識に見てしまう存在感があります。

つまるところ

めちゃくちゃ何度も見ているわけですが
不思議と飽きることはなく、

逆に、

天気が悪くて富士山が見えなかったりすると、なんだか少し残念な気分になったりもします。

2022年7月撮影
( 背後は雲一つない快晴でも富士山の周りだけ雲だらけ。夏場は雲が多い……??)


そして
常日頃なんとなしに見上げている富士山ですが、

ただいつも遠くから見ているだけで、
熱心に調べて

富士山を深く知ろうとしたことは
今までとして一度もなく、

ましてや頂上まで登ることなど、

思いはすれど
実行した試しはありませんでした。


先に紹介した横山大観

生涯一度も富士山に登ったことはなかったそうで、

ただそれでも

2000点近くの富士山に関する画を残されていると知った時は、

富士山が出す何かしらのエネルギーがそうさせているのかは分かりませんが、

その魅力と影響力には
ただただ、ため息をつく他ありませんでした。

出典:横山大観,Yokoyama Taikan『神嶽不二山』(東京富士美術館所蔵)
「東京富士美術館収蔵品データベース」収録 (https://jpsearch.go.jp/item/tfam_art_db-1609)


私はしがない絵師なので
大巨匠の成した偉業をなぞることは出来ませんが、

富士山を題材に神様を描くと決めた以上
まずは富士山について調べ、

自分なりの富士山を
表現してみようと試みたのです。


【 信仰の対象と芸術の源泉 】


富士山について調べていくうちに
次第と見えてくるものがありました。

それは、

積み上げられた歴史の重さというか
関わった人たちの思いや、命であって、

かつて噴火した富士山は

放出したスコリアや溶岩泥流などで
古い山を飲み込みながら崩壊を繰り返し、

山体を形成していきましたが、
同様に

富士山に関わった人々の
目に見えぬ「何かしらの名残」のようなものが

富士の山肌には降り積もっていて、

それが長年の風雨とともに山中へと溶け込み、あるいは蓄積し、

富士山の一部となっているような気がしてなりませんでした。

冷え固まった溶岩(?)
2022年6月撮影


2013年6月22日

富士山は
山頂の遺跡や山体を始めとして、

周囲に残る神社や湖、登山道、
人穴、滝、御師(おし)住宅などを含め、

「信仰の対象と芸術の源泉」

として世界文化遺産に登録されました。


世界遺産…………

つまりこれは

富士山の持つ価値が日本だけではなく
世界に認められたということであり、

長く後世に残し続けるための「保護と保全」の義務を負った、

まさに
「世界の宝」となったわけです。

静岡県富士山世界遺産センター 2022年6月撮影


「信仰の対象と芸術の源泉」という名目に見られる「信仰」とはつまり、

「富士講」(ふじこう)に代表される「山岳信仰」であって、

当時は

「江戸八百八町に八百八講」

「講中八万人」

と呼ばれるほどまでに隆盛し、

流行りすぎて
時の江戸幕府から禁令が出されるほどだったと言われています。

出典:葛飾北斎,Katsushika Hokusai『冨嶽三十六景 諸人登山』(東京富士美術館所蔵)
「東京富士美術館収蔵品データベース」収録 (https://jpsearch.go.jp/item/tfam_art_db-6264)


そして
古く縄文時代では、

人々は巨大で神秘的な富士山に精霊を見いだしたのか、

富士山に向かって幾重にも石を並べ、
何かしらの信仰対象であったろう遺跡が

富士宮の「千居遺跡」(せんごいせき)として残っています。

また、奈良・平安時代に至ると富士山は、

幾度も噴火を繰り返す荒ぶる姿に変容し、
人々はそこに「怒れる神」を見いだしたのか、

畏れ
鎮めるために、

「浅間神社」と呼ばれる神社をいくつも建立し、

富士山の神様
「浅間大神」(あさまおおかみ)を祀り

鎮火の祈りを捧げました。

河口浅間神社(かわぐちあさまじんじゃ) 2022年7月撮影

その後は、

「役小角」(えんのおづぬ)が開いたとされる

「修験道」(しゅげんどう)とよばれる
神道・仏教・密教が結びついた山岳信仰に身を置く

「修験者」(しゅげんじゃ)の方々が
「禅定(ぜんじょう)の地」として富士山に登り、

霊地を巡礼することで
擬死再生を体験したり、天下泰平や現世利益を願ったり、

功徳(くどく)を積んだり、
果ては超常の力を得ようとした登拝文化が生まれ、

その流れはその後、
武士や庶民の間にも広まっていき、

江戸時代には、

長谷川角行(はせがわかくぎょう)を祖とする「富士講」が大流行したことで

大きな民間信仰へと発展しました。


「芸術」については、

古くは万葉集に富士山を描写した歌が11首残っており、

山部赤人(やまべのあかひと)高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)が詠んだ歌には

富士山に神を見いだした様子が見て取れ、
同時に富士山を畏れ、褒めたたえてもいるようにも見えました。

他にも、
燃え上がる富士の姿に自身の恋心を重ねる歌なども見られ、

東海道、薩埵峠(さったとうげ)を越えると
突如として眼前に広がる富士の雄姿に目を奪われ、

無視することができなかったであろう様子も
残っています。

出典:歌川広重,Utagawa Hiroshige『東海道五拾三次之内 由井 薩埵嶺』(東京富士美術館所蔵) 「東京富士美術館収蔵品データベース」収録 (https://jpsearch.go.jp/item/tfam_art_db-4337)


その他にも多くの歌や、謡曲、
物語などの文学作品が富士山を題材として生み出され、

浮世絵、絵画、日本画はもとより
海外における芸術作品にも影響を与えたとされる富士山は

日本を象徴する稀有な山であって、
今なおその魅力が尽きることはありません。


実際に富士山を調べ始めると
気づかされるのがその情報量で、

いかに多種多様でかつ膨大かということが分かり、

正直、調べようと思えば
どこまででも時間を掛けて調べ続けることができてしまえるほど深く、

私的にはある種の大きな問題が発生してしまいました。

それは、

「このまま調べ続けていたら
いつになったら絵を描くことができるのだろうか……」


というもので

確かに、
多くの学者さん達が何十年と研究をし続けても

まだまだ未知の要素が残るほど富士山というものは奥が深く、

とても短期間で調べ尽くせるはずもないのは
何となく分かっていたのですが、

ただ、そんな中でも

多くの情報から自分が富士山に何を感じ、
どうまとめて表現すればいいのかを考えた時、

「天地神名」という作品のテーマとして「神様」を選んだこともあり、

なれば、

私が特に興味を惹かれたポイントでもある
富士山における信仰、とりわけ

「富士山の神様」
にスポットライトを当て、

そこを掘り下げて調べ

デザインして行こうと決めたのでした。

2022年6月撮影


【 富士山の神様 】


日本に住んでいて
富士山を知らないという人はまずいないとは思いますが、

「富士山の神様は誰なのか?」

これを知っている人はそんなには多くないのかもしれません。

私も付焼刃的知識しか持ち合わせていませんので、

これから記すことに間違いや遺漏があるかもしれませんが、

そこは
生温かい目で見守ってくださるとうれしいです。


富士山における神様と言うのは

古代から様々な変遷を遂げ今に至っており、そこには神道仏教修験道神仙思想民間信仰など

複雑なせめぎ合いの果てによって生まれた結果が、現代に残る富士の神であると言えます。


現代における富士山の神様は


「木花開耶姫命」(このはなさくやひめのみこと)

という女神様で、

古代、富士山が噴火した際
荒ぶる火の神を鎮めるために設けられた「遥拝所」などに始まる

全国各地に1300社、および、

合祀(ごうし)され社名が変わったりしたものも含めると1900社近くにも上ると言われる

「浅間神社」(せんげんじんじゃ / あさまじんじゃ)

に祀られる神様です。

コノハナサクヤヒメノミコト
2022年6月撮影


コノハナサクヤヒメ

「天照大神」(あまてらすおおみかみ)の孫にあたる
「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)と結婚した美しい神様で、

日本を象徴する花、
「桜」の語源になった神様との説もあります。

2022年7月撮影


コノハナサクヤヒメは
開花した桜のように咲き、そして栄える様子を現すとされ、

桜のように美しく、そして儚い神様だと言われています。


ニニギノミコトが
葦原中国(あしわらのなかつくに / 地上世界 )を治めるため

高天原(たかまがはら)から
九州の日向(今の宮崎県)にある高千穗(たかちほ)の山に降り立った際、

鹿児島にある「笠沙の岬」(かささのみさき)という場所で
サクヤヒメと出会うことになるのですが、

この出来事を

「天孫降臨」(てんそんこうりん)といい

「天照大神」(あまてらすおおみかみ)の「孫」(ニニギノミコト)が
天から降りてきた、つまり

「天(アマテラス)の孫」だから

「天孫降臨」と言われているそうです。


ここで余談になりますが
一昔前のネットスラングで


「神降臨!」(かみこうりん)

という言葉をたびたび見かけたものですが、
今はめっきりと見かけなくなりました。

この時の「神降臨」の元ネタが
「天孫降臨」だったような記憶がかすかにあるのですが、

果たしてどうだったのでしょうか。

*……かなりどうでもいいことなのですが、なんとなく思い出したので書いてみました。


そして、その「天孫降臨」の際、

かの有名な「三種の神器」

八咫鏡(やたのかがみ)天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)

八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)も一緒に
地上世界にもたらされ、

しかし、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)

平家の滅亡を決定的とした
かの有名な合戦、

「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)のさなかにおいて、

安徳天皇が入水され、
その時抱えた神器と共に

海の底に沈んで無くなってしまった……
とも言われています。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション 大日本歴史錦繪
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9369963/49

…………―と、三種の神器の話をし始めると
さらに長くなってしまいそうなので

ここら辺で話を戻すとして、


笠沙の岬でサクヤヒメに出会ったニニギノミコトは、

ヒメのあまりの美しさに一目ぼれし
すぐさま結婚を申し込むのですが、

次は、その時のやり取りについて
簡単に記していきたいと思います。



【 コノハナサクヤヒメの結婚と〇〇〇〇〇〇の悲劇 】


ニニギ「そなたは誰の娘か」

サクヤ「はい、私は大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘で、
コノハナサクヤヒメと申します」

ニニギ「ほう、それでそなたに兄弟はいるのか」

サクヤ「はい、岩長姫(イワナガヒメ)という姉がございます」

ニニギ「……なるほど、私はニニギノミコトである。そなたはまれにみる美しい娘だ」

ニニギ「そなたを嫁に迎えたいと思うがどうであろう」


それを聞いたサクヤヒメは驚き、

恥ずかしそうにして
ハタと手で顔をおおい、

サクヤ「私には申し上げれらませぬ……」

「父の大山津見神(おおやまつみのかみ)にご相談なさってください」

と聞いたニニギノミコトは

さっそく父神であるオオヤマツミに会い
ことの次第を伝えます。


オオヤマツミはニニギノミコトの話を聞いて大層喜び、

これを承諾し、
すぐさま衣装をととのえさせ、たくさんの祝いの品を持たせ、

ついでに


「姉のイワナガヒメも付き添わせ」


二人をニニギノミコトに嫁入りさせました。


ところが、美しいコノハナサクヤヒメとは対照的に

姉のイワナガヒメの顔はとても醜く
体も大岩のようにがっしりとしていたものですから、

それを見たニニギノミコトは、

美しいサクヤヒメだけを受け入れ、
醜いイワナガヒメは

オオヤマツミの元へと送り返してしまうのでした。


結果、サクヤヒメだけが
ニニギノミコトと一夜を過ごすことになるのですが、


送り返されたイワナガヒメを見たオオヤマツミは、浅はかな行いをしたニニギノミコトを嘆き、

使いの者にこう伝えました。

「二人の娘を一緒に嫁入りさせたのは、

姉のイワナガヒメを妻とすれば、
天孫の御子のお命は永久に、岩のように不変不動となり、

無事でありつづけるだろうということと、

妹のコノハナサクヤヒメを妻とされれば、
木の花が美しく咲き誇るように末永く繁栄するだろうと、

そう誓約(うけい)して差し上げたがゆえ。

しからば、イワナガヒメだけをお返しになり、コノハナサクヤヒメだけを娶(めと)られてしまったことで

残念ながら天津神(あまつかみ)の子のお命は、以後、木の花のように儚いものとなるでしょう。」


―と、

呪いにも取れる言葉を発したのだそうです。


ニニギノミコトは

初代天皇とされる「神武天皇」(じんむてんのう)のひいおじいちゃんにあたる神様で、

神様の子孫である天皇が
なぜ人間と同じ寿命、

つまり「短命」になってしまったのかを
この神話で説明しています。


オオヤマツミは

いわゆる「山神ファミリー」の中で一番偉いとされる山の神様で、

日本列島を形成する島々を生んだ、イザナギイザナミの子で、
浅間神社ではよくサクヤヒメと一緒にお祀りされている姿を見かけます。

また、

高天原(たかまがはら)にいる神様や、
ニニギノミコトのように天から地上に降り立った神様を

天津神(あまつかみ)といい、

オオヤマツミやコノハナサクヤヒメのように

地上世界に出現した神様を国津神(くにつかみ)と呼ぶそうで、
(本当はもっと複雑……?)

ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの結婚は

この「天津神」「国津神」という二つの分類が違う神様同士が結ばれる、

象徴的で特別なエピソードであるともいえます。


さて話は戻り、

送り返されたイワナガヒメがその後どうなったのか?
それはまたのちに語るとして、

引き続き、
コノハナサクヤヒメにまつわるお話について、紹介していきたいと思います。



【 意外と男勝り!?火中出産する女神様 】


ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメが契りを交わした一夜ののち、

サクヤヒメが尊(みこと)の元にやってきてこう言いました。

「私は身重になりました」

「もうすぐお産の時が迫っておりますので、
大切にお産みしたいと思います」

するとニニギノミコトは
あまりにも早いお産の知らせを不審に思い

「たった一度の契りで孕めるというのか?!」
「おかしい!私の子ではないだろう!!」

「国つ神の子供ではないのか!??」


とサクヤヒメに不貞を疑う言葉を投げかけます。

そしてその言葉を聞いたサクヤヒメは、
たぶん赫然(かくぜん)としたのでしょう。

わかりやすく言えば

「キレてしまった」のです。

それもそのはず、
尊(みこと)のあまりにもなさけない言葉に激昂したサクヤヒメは

お返しとばかりに誓約(うけい)の言葉を言い放ちます。

「天津神の子を授かった私の言葉を疑うというのであれば、命をかけて証明して見せましょう」

「もし、私が授かった子があなたの子でなければ」


「必ず焼け死にます」


―と言い、

サクヤヒメは、無戸室(むとむろ)という戸の無い八尋の御殿を作り、
その中に入って隙間をすべて土で塗り塞ぎ、

さらには御殿に火をつけて出産に臨みました。(なんという男前……)


誓約(うけい)というのは占いのようなもので、

古くはアマテラススサノオの神話に端を発します。


スサノオは自分に害心がないことを証明するために、
一触即発状態のアマテラスに誓約(うけい)を持ち掛けます。

「お互いの持ち物を交換して、そこから神を生み出せば持ち主の本心が現れる」

という内容で、
アマテラスはそれを受け入れ

さっそくスサノオの十拳剣(とつかのつるぎ)を受け取り、噛み砕きます。
(つよい)

そしてアマテラスの口から噴き出た息からは
宗像三女神(むなかたさんじょしん)という麗しい女神様が生まれました。

これを見たスサノオは

「私の心が清く正しいから、麗しい女神が生まれたのだ」

と言い、

アマテラスも納得し一言も言い返せず、
スサノオの心を信じる他なかったと言います。

このように、何かしらの条件を設定して

それが満たされれば「A」である。
逆に満たさなければ「B」である。

というような占いであって、

結構こんな感じのイベントが過去の書物に出てきます。


例えば、平家物語に登場する有名な「那須与一」(なすのよいち)

出典:『引札類 那須与一』(京都国立博物館所蔵) 「ColBase」収録
(https://jpsearch.go.jp/item/cobas-5165)


屋島の沖に漂う平家方の軍船に備え付けられた扇の的を

源氏方の那須与一が「かぶら矢」で射貫く有名なエピソードですが、
この時与一は心の中でこう祈念したそうです。


「南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、

宇都宮、那須の湯泉大明神、
願わくは、あの扇の真ん中を射させたまえ。

これを射損ずるのであれば、
弓を折り自害して、
人に再び面を向かうべからず。

いま一度本国へ迎え入れんと
おぼしめされるならば、
この矢を外させたもうな。」


―と、

これもある種、
誓約(うけい)の一つなのではないかと思いました。


そして話は戻り、
ゴウゴウと燃え盛る御殿で出産を続けるサクヤヒメ。

尋常の者であれば当然無事で済むわけがないのですが、
絶対の確信をもって臨む姿は

まさにサクヤヒメの芯の強さを表しています。


結果としてサクヤヒメは

元気な赤ちゃんを三人も出産し、
無事誓約(うけい)を果たし、ニニギノミコトに勝利(?)しました。

一点の曇りなく不貞の疑いを晴らしたサクヤヒメですが、

ニニギノミコトは出産を終えたサクヤヒメに対し、こんな感じの事を言ったそうです。


「もともと私の子だということは分かっていたのだ」(!?)

「そなたと、子供達にも神秘的で優れた霊威があることを証明したいと思い、あんなことを言ったのだ」(??)


と……。

なんという、後だしジャンケン感……!

これは本心なのか
取り繕った釈明なのかは分かりませんが、

この神話で読み取れることは、
天津神の神様が国津神の神様の力を認め、

褒めたたえているという事でしょうか。



そして、その時に生まれた子供は

火照命(ほでりのみこと / 海幸彦)
火須勢理命(ほすせりのみこと)
火遠理命(ほおりのみこと / 山幸彦)

と呼ばれ、

第三子の
火遠理命(ほおりのみこと)はその後、

前回も少しだけ触れた山幸彦(やまさちひこ)として登場し、海の宮殿へと行き

海神の娘「豊玉姫」(とよたまひめ)と結ばれ、

その血は現代の天皇家へと
脈々と受け継がれてゆくとされています。


火中で出産を遂げたコノハナサクヤヒメは
火の神、並びに水の神、

そして安産、子育ての他にも
多くの御神徳を持った女神さまとして現代に至っています。



【 強く美しい火の神 】


サクヤヒメが火の神と称される理由は火中出産以外にも理由があるとされ、

サクヤヒメの本名は「神阿多都比売」(かむあたつひめ)

または、

「神吾田鹿葦津姫」(かむあたかあしつひめ)と言うのですが

吾田(阿多)は鹿児島県西部の古い名称となり、

吾田隼人(あたはやと)と呼ばれるかつて薩摩地方に住んでいた
勇猛と敏捷さで名の知れた人達のことで、

「薩摩隼人」(さつまはやと)と言った方が
通りがいいのかもしれません。


隼人族は時の王権の支配下に組み込まれながらも、たびたび反乱を起こしていたそうですが

その強さゆえか、

朝廷に出仕させられたり畿内に移住させられた際は、宮中の守りなどの仕事に就いていたそうです。


また、鹿葦津姫の「カアシ」は「加志」を表すとの説もあり、

続日本紀、聖武天皇の御代、天平元年(729年)7月に

「大隅隼人、姶良郡小領外従七位下勲七等加志君和多利」

とあり、

こちらは「大隅隼人」(おおすみのはやと)との関係性が伺えるともされています。


そして九州鹿児島と言えば桜島を始めとする火山地帯が有名ですが、

古事記、日本書紀以前の噴火活動については
その記述は残っていないとされており、

記紀以前の具体的な噴火について具体的なことは分かりませんが、
(*記紀=古事記、日本書紀のこと)

8世紀後半には霧島山系噴火があったと思われる記述もあるそうで、

現代においてもなお噴火を繰り返す桜島の様子を見ていると、
記紀以前の時代においても

何らかの噴火活動があったと見てもおかしくはなく、

火山地帯にルーツを持ち、
火中出産を成し遂げた

隼人族に関わる姫神、
コノハナサクヤヒメは、

強さと美しさを兼ね備えた火の神であり、

そして山神のトップ、オオヤマツミの娘であることも相まってか、

やがて富士山の神様として認知され、崇拝されるには

申し分ないほど腑に落ちる存在だったのではないかと思います。

桜島



そして、高天原から地上へと降り立ち、

後の天皇家につながる天孫ニニギノミコトが、国津神であり隼人族の女神と結婚したという出来事は、

記紀編纂(ききへんさん)において
とても大きな意味があったのではないかと思われます。


また、コノハナサクヤヒメが生んだ3人の子供のうち

一番最初の子供「ホデリノミコト / ホノスソリノミコト」(海幸彦)
隼人族の祖とも言われています。

のちの神話に見られる海幸彦(うみさちひこ)は、海神の宮へと渡った山幸彦(やまさちひこ)と戦い、

結果、海幸彦側が敗れることになりますが、

山幸彦は初代天皇とされる神武天皇のおじいちゃんにあたる神様であり、

つまり、
このエピソードの意味するところは

「天孫系の一族」と、「隼人族」との戦いを
神話として残したものではないかとも言われています。

隼人族は当時の朝廷としては、
無視することの出来ない

どうにもこうにも目に付いてしまう大きな存在で、

そういった意味においては
「富士山」と似ているような気もしました。



【 火中出産後のコノハナヤサクヤヒメ 】


火炎渦巻き燃え盛る産屋で
何事もなく三柱の御子を出産したコノハナサクヤヒメは

その後、

「竹刀」をもって子供たちのへその緒を切ったとされています。

竹刀とは、
今で言うところの剣道に使う竹刀(しない)ではなく

「竹刀」(あおひえ)という青竹で作った小刀で、


江戸時代頃までは

竹刀(あおひえ)でへその緒を切る行為は
比較的一般的なものだったそうです。

そして、古くは第81第天皇、

先ほども触れた「安徳天皇」が生まれた際も
へその緒を竹刀で切られたそうで、

安徳天皇は
齢8歳という若さで壇ノ浦(だんのうら)の冷たい急流に身を投じる事となってしまった悲劇の天皇となり、

その様子は

「鎌倉殿の13人」やアニメ「平家物語」でも描写されていましたが

とても見るに忍びなく、
あまりにも衝撃的なシーンであったことを思い出します。


竹刀(あおひえ)については、

竹に秘められた神秘性や繁殖性、成長性
そして竹茹(ちくじょ)などの生薬に見られる

いわゆる竹の持つ「薬効性」などを期待して
使われていたのではないかとのこと。

2022年7月撮影


そしてサクヤヒメがへその緒を切るために使った竹刀は、その後捨てられるのですが、

捨てられた竹刀は竹林となり
「竹屋」という地名になったのだとか。


そして、

「卜定田(うらへた)」という

神にお供えする稲を作るために、
占いで場所を定めた田で穫れた稲を用いて

天甜酒(あめのたむさけ)というお神を醸造し、

ご飯を炊き、
新嘗(にいなめ)をしたとされます。


新嘗とは新嘗祭(にいなめさい)の事で

これは現在でも行われており、
宮中祭祀の中で最も重要な祭りと言われており、

現代においては

「勤労感謝の日」として国民の祝日となっていますが、

コノハナサクヒメが行ったとされるこの新嘗が、天孫降臨後の世界において

初めて地上で行ったお祭りとも言われているようで、

ここでも
コノハナサクヤヒメに与えられた特別な役割、つまり

「稲作」「新嘗」というキーワードが
とても重要な意味を持っているような気がして、

記紀編纂者たちが当時

のっぴきならぬ思惑を以て書き残したであろう、特別な思いのようなものを妄想せずにはいられません。



【 イワナガヒメのその後 】


ニニギノミコトに嫁ぐその日にお断りされてしまった

顔の醜い、
いわゆる「ブス」とされる

岩のような体躯をもつ女神、イワナガヒメ
その後どうなってしまったかと言うと、

記紀神話には具体的な様子が描かれることはありませんが

一説によると、

スサノオの子供である八島士奴美神(やしまじぬみのかみ)木花知流比売(このはなちるひめ)という神様と結婚しますが、

このコノハナチルヒメイワナガヒメなのではないか?

ともされており、

また地域に残る昔話にもイワナガヒメの後日談が見られ、

宮崎に伝わるお話によると、

鏡に映る自分の顔があまりにも醜かったので

鏡を遠くに放り投げてしまい、
その後は米良の山に籠ってしまったとのこと。

しかし、
生きていくためには食べ物が必要なため

イワナガヒメは山の中で田んぼを耕し、
そこでとれたお米はとてもおいしかったのだ。……―というものになります。


他にも、静岡県富士宮
イワナナガヒメにまつわる後日談的な昔話が伝わっているのですが、

これはコノハナサクヤヒメと富士山に関わるお話でもあります。



【 富士宮における後日談 】


コノハナサクヤヒメがお産を終えてからしばらくの後、

サクヤヒメは風の便りでイワナガヒメが東のとある島に、一人寂しく暮らしていることを知りました。


サクヤヒメは気の毒な姉神に会って慰めたいと思い、さっそく東へと旅立ちました。

そこは、富士山箱根山、愛鷹山(あしたかやま)などに囲まれた地でしたが、

結局イワナガヒメを見つけることは出来ず、

そこでサクヤヒメは今なお噴火している一番高い山、

「富士山」に登ることで頂上から姉神を探すことにしました。

富士山からは噴石や砂などが降り落ち、
とても危険でしたが

姉神に会いたいと願うサクヤヒメの気持ちは変わらず、

そんな思いが通じたのか、

どこからともなく一頭の白馬がサクヤヒメの前に舞い降り

尻尾を振って背に乗れとせかす様子に
サクヤヒメは感謝し、

白馬にまたがり
どんどんと山を登っていきました。

しかし、

ヒメと白馬は
やがて大きな岩の間に入りこんでしまい、

動けなくなってしまいました。

どうしたものかと思い悩んでいると、
次はがサクヤヒメの前に飛び出してきて言いました。

猿は、この山は火を吹き上げていて
とても危険なので頂上へは行けないと告げるも、

涙ながら一心に、姉神の話をするサクヤヒメに同情し、
猿は、頂上までの道案内役を買って出てくれました。

猿に感謝し
サクヤヒメは再び山を登りだすと、

何故か不思議なことに
あれほど荒ぶっていた富士山は火を噴くのを止め、おさまり、

猿の案内もあってか、
サクヤヒメはとうとう富士山の頂上に着くことが出来たのです。


やがて夜が明け、

御来光(ごらいこう)と呼ばれる朝日が昇り始めると

周り一面、金色の世界のようにキラキラと輝き出しました。

サクヤヒメが富士の頂上より見渡し
姉のイワナガヒメを探していると、

はるか伊豆の雲見山(くもみやま)の頂上に
イワナガヒメが立っている姿が見えました。


サクヤヒメは必死で呼びかけ手を振り叫び続けていると、

イワナガヒメもこちらへ手を振り返してくれているように見えます。

やっとのことで姉神に再開することのできたサクヤヒメは

うれしさのあまり、
その場で立ち尽くしてしまったそうです。


すると、その直後

突如として凄まじい轟音と共に地が揺れ、
真っ黒な煙と共に富士山が、再び火を噴き上げ始めました。


その時サクヤヒメは不思議と冷静な気持ちで自身の役目を悟ったと言います。


自分は火の中でお産をしても、火を噴き上げる山に登っても無事でいられたことから

水の精であることを自覚し、

この性質は尊き祖神(おやがみ)より授けられたものだ、
と思い至ります。

そして、父オオヤマツミに、
富士山を鎮める大役を果たす旨、心の中で告げると

身を翻(ひるがえ)し富士の火口へと飛び降りたサクヤヒメは
あっというまに、吸い込まれるように煙に包まれ見えなくなるも、

やがて噴火はおさまり、

その後600年もの間
富士山は穏やかになったと言われています。


―と、このようなお話になるのですが、

これら出来事の真偽については
まったく分からないのでさておき、

イワナガヒメの様子はこの昔話においては、
ほんのちょっとだけしか登場せず

ある種サクヤヒメを引き立たせるための演出のようになっています。

一方サクヤヒメについては
水の神、富士山の噴火を鎮めるという描写も見られ、

昔話で広く語り継がれている様子を見ると
現代におけるサクヤヒメのイメージが

「コノハナサクヤヒメ=富士山」

で完全に定着し、

その認知度はかなり高いものであることが分かります。


サクヤヒメは美しくも儚い、火と水の女神であり、

心根は強く、三柱の御子を生んだ富士山の神である母……

いわゆる属性てんこ盛りのこのような状態は
もはや約束された主人公のようなものであって、

庶民に愛されて人気が出ないわけがなく、
そういった意味からも

サクヤヒメへ寄せる特別な「何か」が垣間見えたりするのでした。



【 コノハナサクヤヒメの伝説 】


次はコノハナサクヤヒメについて
印象深かった伝説を、いくつか紹介したいと思います。


< 富士山と八ヶ岳の背比べ >

むかしむかし、
まだ八ヶ岳富士山よりも高かったころ、

富士山の女神さまと、八ヶ岳の男神さまが、高さ比べをし始めました。

お互い譲り合うことがなく、収拾がつかなかったので、
阿弥陀如来(あみだにょらい)さまにお願いして決めてもらうこととなりました。


そこで阿弥陀様は

「水は正直であるから、お互いの頭から頭へ樋(とい)を掛け渡して水を流し込めば、低い方へと水は流れるものだ」

と言われ、さっそくその通りにして、

八ヶ岳の頂上から富士山の頂上へ樋(とい)を掛け水を流してみると、
水は富士山の方へと流れていきました。

つまり、富士山の方が低かったのです。

決着がつき阿弥陀様は二人にもう争わないようおっしゃるも、

負けてくやしい富士山は、
突然、太い棒をもちだして


八ヶ岳の頭を叩きつけ

そのことで八ヶ岳の頭は八つに割れてしまい

富士山よりも低くなってしまったということです。



…………なんというバイオレンス……

これは富士山の神様がまだコノハナサクヤヒメとなる前のお話なのだそうですが、

突如、火中出産を敢行したサクヤヒメを彷彿とさせるものでしたので、

取り上げさせていただきました。

八ヶ岳(やつがたけ)とは長野県諏訪湖の東に広がる山々の総称で、

富士山に対峙するように居並ぶ日本百名山の一つです。

八ヶ岳
(確かに頂上が崩壊している……?)


頭を叩き割ったとされる「鈍器」ですが、
ここでは太い棒としていますが、いくつかパターンがあり、

一番多く見られるのは
「蹴り飛ばす」パターンで

「橋渡しした樋」で叩きつけるというパターンもあります。

樋を使うのが一番合理的な気もしますが(?)
いずれにしても暴力はいけないと思います……!

今回描いた神様にもちゃんと持たせていますが、なんでしょう

肩たたき用の棒か何かでしょうか。


また、富士山をコノハナサクヤヒメ
八ヶ岳をイワナガヒメとするお話もあるそうで、

その場合、お姉ちゃんの頭を妹が叩き割るということになってしまい
姉妹の亀裂は決定的なものに……。

というか、さすがにそうなってしまうと
イワナガヒメが不憫すぎて救いがないため、

出来ればこのパターンのお話は
ローカルな域で留まっていて欲しいなあ……とも思いました。


他にも、富士山と対決した山の話がいくつかあるそうで、

筑波山白山など、

各々(おのおの)比較して優劣を見極めようとするさまは、

今も昔もあまり変わらないものだなあ……としみじみ感じたのでした。


< 風の神様の求婚 >

むかしむかし、
見目麗しいと言われるコノハナサクヤヒメの噂を聞きつけた風の神様がいました。

姫の住まう御殿を毎日のように覗き込み
殿中にいたサクヤヒメを一目見たところ、

案の定、聞きしに及ぶその美しさに一目ぼれしてしまった風の神は

サクヤヒメを自分の妻にしたいと思いました。


風神の結婚への願いは、
すぐさま父神であるオオヤマツミの元に届きますが、

慌てふためいたオオヤマツミは

粗暴な風神などに大事な娘をやるわけにはいかないと、親族を集めて話し合い、

その結果として、一つの策が練り上がりました。

それは

富士山の頂上にある「とある池」より、

「とある魚」を持ち帰ってくるよう
従者をつかわした……というもので、

後日、その策は功を奏することとなります。


しばらくして、ふたたび風神
サクヤヒメの御殿にやってきたところ

風神はなにやら辺りの様子がおかしいことに気づきました。

見ると御殿の従者たちが皆
泣き叫んでいて

同時に
不快なにおいが風神の鼻を突きました。

風神はなにやら嫌な予感がし
いそぎ従者を問いただしたところ、

なんとサクヤヒメが死んでしまい
今、その葬儀をしているのだといいます。

驚き蒼白した風の神は
震えながらも立ち上る葬儀の煙を見つけると、

全てを察し、

ものすごい声で泣き始め、
転げまわり

辺り一面を震わしたといいます。


この様子を見た従者たちは

「やった…!!」

と心の中で喜んでいたようで

つまるところ、
サクヤヒメは本当に死んだわけではなく、

死を偽装するために

「コノシロ」という魚を身代わりに焼いて、

もくもくと立ち上った煙や不快な臭いは、
その魚によるものだったのです。

コノシロという魚は出世魚の一つで、
コハダと言えば通りが良く

お寿司でおなじみの魚ではありますが、
焼くと臭いがきついそうで、痛みも早く

古くは、

焼くと「人を焼いた時のような臭いがする」とされていたそうです。


富士山の頂上には
コノシロ池という幻の池があり、

このお話ではこの池から
コノシロを捕まえてくることになるのですが、

実際にコノシロ池には魚は棲んでいないとされています。

またコノシロは

ちゃんと処理すれば焼いても人臭はせず
おいしく食べられるとのことですが、

この強烈なイメージが今でも残っているせいか、

今でも信じられている
まさに生きた伝説と言えるのかもしれません。

コノシロ


また、浅間神社の神職に就く方は
今でもコノシロを食べないのだそうだとか。


そして、コノシロは
「ツナシ」とも言われ

「富士山縁起」(ふじさんえんぎ)
一つでもある、

「浅間御本地御由記」などにも、

葬儀を偽装する手法として登場します。



他にも、九州宮崎県の西都市には

同様にコノハナサクヤヒメに恋をした鬼が
父神オオヤマツミに結婚の申し入れをする話が伝わっていますが、

鬼の求婚を断り切れなかったオオヤマツミは
一夜で岩の御殿を作らせるという無理難題を鬼に課すも、

鬼は一念発起し、寝ずに頑張って岩屋をこさえますが、

しかし、鬼が寝落ちした束の間、
オオヤマツミが岩屋の岩を一つ抜き取り

かなた遠くに放り投げ、

鬼とサクヤヒメとの結婚を阻止したという話も残っているそうです。


健気に頑張った鬼はきっと謀られたことにも気づかず
自分の不甲斐なさを呪ったことでしょう。

なんというか

かわいそうな気もしますが、オオヤマツミの親心も分かるので

なんとも掛ける言葉が見つからない切ないお話になります。



【 コノハナサクヤヒメの神格・御神徳 】


最後にコノハナサクヤヒメの神格御神徳についてまとめたいと思います。

神格 :山の神、火の神、水の神、酒造の神

御神徳:安産、子授け、家庭円満、火難除け、農業、酒造、機織り、海上安全、航海安全

山の神はオオヤマツミの娘であることから、

火の神、水の神、安産、子授け、家庭円満、火難除けは、
火中出産や3柱の御子を一夜で懐妊したこと、

また、火山地帯の女神であることも関係しているかもしれません。

そして富士山噴火時に荒ぶる富士の神を鎮魂した

「富士山本宮浅間大社」においては、

コノハナサクヤヒメは火の神ではなく水徳の神とされており、

富士山北東部にある、霊場忍野八海(おしのはっかい)においては、

八海一の湧水量を誇る湧池(わくいけ)に伝わる伝説として、
コノハナサクヤヒメが湧水をもたらす姿も見られます。


そして、酒造、農業は
卜定田(うらへた)における

稲作天甜酒(あめのたむさけ)醸造、

そして、天孫降臨後初の
新嘗祭(にいなめさい)を行ったことによるものと思われ、

機織りについては、

ニニギノミコトがサクヤヒメを初めて見かけた時、

海上に建てられた八尋殿(やひろどの)
機織りをしていたということと、

後述する常陸国より至ったとされる

養蚕の神、金色姫(こんじきひめ)と関りがあると思われます。


海上安全と航海安全については、

おそらくですがこれは
サクヤヒメが富士山の神様になる前にさかのぼるのですが、

富士山縁起と呼ばれる古書の一つに

「冨士山船霊明神縁起」という書物があり、

船霊(ふなたま)とは、漁民や船大工などが航海の安全を願い
祀る神様のことで、女神とされています。

そしてこの縁起ではその女神を

浅間大菩薩天照大神の幸魂(さきみたま)である、

千眼大天女(あさまおふあまおとめ)及び、福徳弁財天と習合させて信仰を呼び掛けています。

そして、実際に漁民は航海する際には
大きくて目立つ富士山を目印としてたらしく、

駿河湾を航海する船や、遠くは江戸や京坂地方の上方から来る船を扱う船主たちにも影響を与えていたとされ、

ここら辺から来てるのかなーと思いました。


調べ始めればこのように多くの情報を持つコノハナサクヤヒメですが、

言えば、
これは富士山における歴史の一部であり、

富士山に関わる歴史の膨大さがこれだけでも伝わってきます。


そして

今ではこんなにもガッチリと定着した富士山の神様、コノハナサクヤヒメですが、

上述したように、太古の昔よりずっと「富士の神」だったわけではなく、

その歴史は意外にも浅く
江戸時代の頃から突如として

「富士山の神様=コノハナサクヤヒメ」の認知が広まっていったそうです。


では、
コノハナサクヤヒメが富士の神となる前の神様とは一体誰だったのか。

それは、日本人であれば
ほぼ誰もが知っているであろう、かの有名な

日本最古の物語に登場する姫君、


「かぐや姫」


であったと言れています。

2022年6月撮影




【 竹取物語 】


「今は昔、竹取の翁といふものありけり」

という有名な冒頭で始まる、
誰しもが一度は聞いたことがあると思われるこのお話は、

「竹取物語」などと言われ、日本最古の物語(小説)とされています。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション 竹取物語. 上
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287221/3


このお話に登場する「かぐや姫」は、

コノハナサクヤヒメが富士山の神様となる以前の中世日本においては

富士山の神様として同一視され、
富士山麓に点在する寺社などで崇められていたそうです。

まずは、そんな竹取物語について
簡単にその内容を説明していきたいと思います。

2022年6月撮影


< 竹取物語のあらすじ >

・むかし、竹取の翁と言う人がいて
竹を取ってはいろいろな事に使い、

その名を「さぬきのみやつこ」と言いました。

・ある日、根もとが光る竹が一つあり
近づいて見てみると中が光っており、

その中には三寸(約9cm)程の人が
とてもかわいらしい様子で座っていました。

・翁はその子を手のひらに入れて持ち帰り
妻の嫗(おうな)に預け、籠に入れて育てました。

・その後、翁が竹を取りに行くたびに
黄金の入っている竹を見つけるようになり、

翁はどんどん裕福になっていきました。

・3か月も経つと、
小さかった子はどんどん大きくなり人並ほどの背丈になり、

その姿は清らかで美しいことこの上なく、
家じゅうが光で満ち溢れるほど光り輝いていました。

・そして御室戸斎部の秋田(みむろといむべのあきた)という人を呼び
「なよ竹のかぐや姫」と名前を付けました。

・身分の上下に関わらず、数多くの男たちが
どうにかしてかぐや姫を手に入れたいと願うも、

その姿を見る事すら難しく、
ほとんどの男たちがあきらめていく中、

色好みと評判の5人の貴公子が残り、
かぐや姫に求婚することになります。

・しかし、まったく結婚する気がなかったかぐや姫は、

この世には存在しない宝を取って来て欲しいと無理難題を課し、
5人の貴公子はそれぞれ挑戦するも、ことごとく失敗に終わります。

・ついには、帝(みかど)の元までかぐや姫の噂が届き、

狩に行くふりをして帝は、
かぐや姫と対面し求婚するも、かぐや姫はなおも断り

影だけを陽炎のように残し消え去ってしまいました。

・この世の者でないと悟った帝は結婚を諦め、かぐや姫と手紙のやり取りをすることになります。

・帝とかぐや姫との間で手紙のやり取りが3年程続いた春のころ、
かぐや姫は月を見て悲しむ様子が見られるようになりました。


・聞けば、かぐや姫は月の住人で、

8月15日に月の使者が訪れ、
自分を迎えに来るので

帰らなくては行けないとのこと。


・翁と嫗は気を落としてますます老衰し、
帝はかぐや姫を倉に隠し、

2000人もの兵に守らせるよう準備をしました。

・しかし、やがて訪れた月の都の人たちに
兵や翁たちは立ち向かうこともなく、

ただ見つめるだけで、
憑りつかれたように戦意喪失し、

奮い立ち、
弓矢を構え射た猛者もいましたが、

腑抜けになり
矢はあらぬ方へと飛んでいく始末。

・そしてなすすべもなく
倉の戸はひとりでに開き、

かぐや姫は
月の使者の元へと出向いてしまいます。

・その際かぐや姫は、
天人の一人が差し出した不死の薬をなめ

頭中将を呼び寄せ歌を詠み、不死の薬を帝宛に献上したあと、
天の羽衣を着て、月へと昇天してしまいました。


・翁と嫗は血の涙を流して思い悩むもどうしようもなく、

薬も飲まず、起き上がることもできず病になり、伏せるようになってしまいました。

・中将が宮中に戻り帝に事の詳細を話し、不死の薬と手紙を献上すると、

帝はとても悲しみ、食事をとることもできず

大臣たちを呼び
「天に近い山はどこか」と尋ねると、

一人の大臣がこう答えました。


「駿河の国(静岡県)にあるという山が、
この都からも近く、天にも近くございます」

・帝はそれを聞き、かぐや姫に会うこともできないのに、
不死の薬など何の役にたとうか、との返歌を詠み

「つきのいわかさ」という名の人を呼んで、

不死の薬と共に歌を持たせ、駿河の国にあるという山の頂上へもって行き、火を付けて燃やしてくるよう命じたのです。

・そして、兵士たちを数多く引き連れて山に登ってから以降
その山を「ふじの山」と名付け、

その煙はいまだに雲の中へと立ち上り続けていると言い伝わっています。


―とおおよそこのような内容になります。

「竹取物語」が日本最古の物語と呼ばれている理由は、
かの有名な「紫式部」(むらさきしきぶ)が記した

「源氏物語」(1008年)の中で


「物語の出で来はじめの祖なる竹取の翁」

と語られているからだそうで、

その成立年代は9世紀ごろから10世紀の半ばあたりと推定されるのだとか。


ただ、現在残っている竹取物語は

最も古いものでも室町時代ごろの伝写本とされ、完本は江戸時代になる少し前の安土桃山時代

さらに現代で読み親しまれている竹取物語に至っては
江戸時代の流布本にさらに手が加えられているものらしく、

つまりは、

本当に一番最初に書かれたであろう竹取物語は、もしかしたら
だいぶ違う内容になっていたのかもしれません。

江戸時代に商業出版された竹取物語
2022年6月撮影


―とまあ、
ルーツについて考えたところで私には到底分かりませんので、

きっとそのうち研究者の方々や、学者の方々が緻密な研究を重ねて
その謎を解き明かしてくれるのではないかと思っています。

ここでは、中世において富士の神様となったかぐや姫とその由来、
舞台などについて見ていきたいと思います。


2022年7月撮影



【 かぐや姫と富士山 】


竹取物語の中で、
かぐや姫と富士山を結びつけるポイントを上げるのならば、

ラストに登場する歌と「不死の薬」を燃やす場所として、

「駿河の国」にある「天に近い山」を指し示したシーンでしょうか。

ズバリ「ふじの山」
最後に言及されていることから

富士山の命名起源を、

「つきのいわかさ」率いる兵士一団が
不死の薬を燃やしたことに結びつけているわけですが、

この繋がりは、かぐや姫から見れば
非常に間接的なもので、

「かぐや姫=富士山」を直接的に繋げているものではありません。


また、語られる舞台においても
竹取の翁の名が

「さぬきのみやつこ」とされることから、

奈良県広陵町「讃岐神社」
讃岐と言えばズバリうどん県の香川であって、

これらの地域も
竹取物語の舞台として手を挙げており、

その他にも、数多くの説があるそうです。

しかし、
先ほども紹介したように

竹取物語の成立時期は推定されつつも、
最古の現物本は室町時代頃のものであるため、

最初期の内容がどうなっていたか、
今となっては分からないことや、

おそらく、数百年の空白期間があることから
色々と手が加えられている可能性が高いことを考えると、

今の段階では舞台を「どこそこである」
特定するのは難しいと思われます。

というか個人的には

今の段階においては様々な地域が、
地域振興として竹取物語に寄っている現状を鑑みると、

学術的にはNGなのでしょうが
それこそ物語のように幅広い解釈と夢があって、

それでいいのでは……とさえ思ったりします。

そして竹取物語に出てくる「かぐや姫」については

なにより、よく似たお話というものが、
とにかくたくさん残っているのだそうで、

その数は50を下らないのだとか。


この類話の数を見るだけでも、

多方面に影響を与え続けた、
とてつもなく大きな作品であるということが分かります。

例えば、かぐや姫の呼び方一つとっても、

赫夜姫、女、少女、女子、天女、仙女、赫姫、竹姫、鶯姫、

かゝやくひめ、赫奕姫、翁姫、処女、輝姫、さき竹のかくや姫

赫野姫、赫屋姫、賀久夜姫、烙夜姫、小仙女、赫夜仙妃

など、書物によってさまざまで

最後の方はなんかもう
一昔前のゲームのサブタイトルに出てきそうな雰囲気すらあります。


そして、出生場所である「竹」についても
類話については竹ではなく、

「鶯(うぐいす)の卵」「鶯の巣」

「鶯の金色のかいこ」「鶯の金色の卵」
など、

ウグイスのパターンが多いのも見ていて面白いです。

そして何より、かぐや姫が最後に帰る場所ですが、

これは、既知の通り「月」に帰るパターンや
他にも

「空」「天」「月宮」などがあり、

その中でも特に異彩を放っていたのが、

かぐや姫が
「富士山の頂上に帰っていく」

というもので、

「富士山頂上の岩窟」や、「仙洞」
「釈迦岳東南の窟」
など

めちゃくちゃ具体的な描写もあり、

これらは主に
「富士山縁起」(ふじさんえんぎ)と言う書物に見られる表記となります。

2022年6月撮影


【 富士山縁起 】


富士山縁起はいわゆる特定の一つの書物を指すのではなく、

古くから聖地や、霊場として崇められてきた富士山や、
そんな富士山に対する信仰について、

それらに関わりのある寺社の由来や
伝説などを記した「縁起書の総称」になります。


なので、

必ずしも富士山縁起という名前が付いているわけでもなく、
記された時代も場所も様々です。

つまり、とにかくたくさん種類があり
かつ、原本がどうのこうのという類の話でもないそうで、

制作年代を推定するのは困難だったり、
あいまいだったりと、

一顧だにされることもなく、
史料として扱われていない物もあるそうなのですが、

そのすべてを妖妄な作り話として掃き捨てるのは早計で

様々な視点を持って見ることで
初めてその価値が見いだせる史料なのではないかとされています。


富士山縁起はとにかくたくさんあり、
富士山出現の起源や古代の登山者など、

しっかりと突き詰めて読んでいくと
たぶん何年もかかりそうな気がしましたので、ここでは

かぐや姫に関わるお話だけ紹介させていただきます。



【 富士山記(ふじさんのき) 】


平安時代に都良香(みやこのよしか)という学者さんがいて、

今では学問の神様と言われる菅原道真(すがわらのみちざね)が官吏登用の試験を受ける際の試験官だったとされる、

とにかくなんだか超絶頭が良さそうな人で、

のちの江戸時代の儒学者で、
徳川四代にわたり将軍に仕えた

「林羅山」(はやしらざん)

褒めたたえていたとされる人でもあります。

この人が書いた書に、
「富士山記」(ふじさんのき)という富士山縁起があるのですが、

富士山を語る上でよく引き合いに出される著書ともされています。


その理由としては、

(839~879年)の間に書かれたであろうこの書には、

実際に富士山に登らないと分からないような具体的な山頂部の描写が見られ、

富士山が噴火した800年~864年の間を縫って本人が登頂したか、

もしくは
別の何者かによって富士山頂上の様子を聞かされた内容を書き記したものだとされています。

その内容はおおよそこんな感じになります。

『富士山記』 出典:「国立公文書館デジタルアーカイブ」
(https://www.digital.archives.go.jp/item/705654.html)


・富士山以上に高い山はない。

・富士山の山頂に白衣の美女が二人いて、
山のいただきの上で並んで舞っていた。

・富士山と名付けたのは、郡(富士郡)の名から取ったものだ。

・山には神がいて、その名を「浅間大神」(あさまおおかみ)という。

・頂上に平地があり、広さは一里ほどである。

・頂の中央には窪みがあり下っていて、
その形は煮炊き用の甑(こしき)のようである。

・甑(こしき)の底には不思議な池がある。

石は虎がうずくまる様な奇怪な形をしている。

・また、その甑(こしき)の中は常に蒸気が出ている。
その色は真っ青である。

・甑(こしき)の底をうかがってみると、
湯が沸きあがるようであった。

・遠くから見てみると常に煙火を出しているように見える。

・またその頂上には池をめぐるように竹が生えている。

・その竹は紺青色で柔らかい。


―とあり、
この時はまだ、のちに富士の神となる赫夜姫(かぐやひめ)は出てきませんが、

富士山には美女(仙女?)がいて、
それを女神浅間大神と繋げる考え方が既にあったということになります。


これら二人の美女が宙を舞い踊る姿とは一体何なのか、と考えてみると、

私見としては
「富士山が噴火していた様子」が誇張されそう表記されたか、

もしくは

「ブロッケンの妖怪」と呼ばれる気象現象だったのではないか、と思われます。


「ブロッケンの妖怪」とは「ブロッケン現象」とも呼ばれるもので、

霧の中にうんにょりと伸びた影と、
その先端には虹のような色彩をした光の輪が見られる現象で、

修験道や、富士講では
「御来迎」(ごらいごう)と呼び、

富士山登拝時にこの現象に出会えば、
伏して拝んだと言われています。(*御来光とは違う現象です。)

ブロッケン現象

これは山岳における比較的よく見られる気象現象の一つなのだそうですが、

当時そんな知識もなかった人たちがブロッケンの妖怪に出くわしたら

それはもう妖怪と言うか、なんと言うか

「人知を超えた何か」であって、

そこに神性を感じてもおかしくはなく、

登山中その現象に出くわした人は
きっと下山したあとも、あちこちで話しまわり

いわゆる
「語り草」となった事は間違いないでしょう。


そこから派生した表現が、富士山記に見える

「白衣の美女二人が富士山頂で舞う」

という表記に繋がったのではないか……
と勝手ながらに考えてはいるのですが、

残念ながら何の根拠もありません。


また、話は戻り富士山記には
頂上の池の周りには(?)が生えているとの描写があり、

これについても同様に真偽は分かりませんが、

「竹=赫夜姫(かぐやひめ)」

を連想することは容易いでしょう。


そして、時代は400年近く下り、
1223年の鎌倉時代に成立したとされる

「海道記」(かいどうき)
と呼ばれる道中記には、この都良香の富士山記に触れて

ちょっと変わった赫夜姫の話が記されています。

それは
上記でも少し触れましたが、

かぐや姫が竹からではなく、

翁の家の竹林に住む
鶯(うぐいす)の巣の卵から生まれる
というもので、

前世で翁に養われた恩に報いるため
また翁の元に化生として生まれ変わってきたというものになります。


この話では、富士山に舞う白衣の美女二人が、

鶯姫(かぐやひめ)と帝になっていると思わせるところがあり、
赫夜姫(かぐやひめ)と富士山の女神が結びついた初見かと思われます。


その他にも、
富士山縁起はたくさんありますが、もう一つ紹介すると、

「富士山大縁起(六所家旧蔵資料)」

という縁起があり、

これは物語の場所を「乗馬里(のりうまのさと)」として設定し、展開されたものであり、

「乗馬里」が具体的にどこを指すかは分かりませんが、
駿河の国の富士山麓であるのは確からしいとのことです。


時代設定は延暦(782~806年)頃としていて、竹取物語と同じようにおじいさんとおばあさんがいて、

おじいさんはいつも愛情を注いで可愛がっており(愛鷹)

おばあさんは飼っている犬をいつも可愛がっていた(犬飼)

との描写が見られます。


そして
竹から小さな女の子の赤ちゃんを見つけ、

育てるとすくすくと美しく穏やかな女性になり、
国中に居並ぶものはいないほどの美女となり

身体から神々しい光を放っていたとのこと。


そのせいで夜も昼間のように明るかくなったため、

「赫夜姫」(かぐやひめ)と名付けられたのだそうです。


その後の展開は、帝ではなく
桓武天皇(かんむてんのう)が后にするための美女を探すため

東海道方面に坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)
使いとして下向させていたところ、

偶然宿をとった老夫婦の家が夜になってもまばゆく光り輝いていたので、

怪しんだ田村麻呂が
おじいさんを問い詰めたところ

光を放っていたのが赫夜姫だと知ります。

田村麻呂は天皇に赫夜姫の事を伝えると
赫夜姫は有力な后の候補となりますが、

姫はそれを断り、世の中と隔絶するため
富士山へと登り岩屋の中に姿を消してしまうのでした。


2022年6月撮影


実はかぐや姫は
神仏がこの世に現れた化身であって、

富士山のご神体であり、
人々を救うために女性の姿をした

浅間大菩薩(せんげんだいぼさつ)
という神様だったとのこと。


その後、
天皇が富士山に登り、赫夜姫と対面し

天皇も富士山の岩屋に入る事を望んだと言います。


そして、さらに実は、

おじいさんも愛鷹権現(あしたかごんげん)という神様であり、

おばあさんも犬飼明神(いぬかいみょうじん)という神様が示現されたものだったといわれています。


―とまあ、
登場人物がほぼみんな神様と言う内容で、

これが一体何を表すのかわかりませんが、
ありがたい感じのするお話ではあります。


「六所家旧蔵資料」「六所家」というのは、現在も残る

富士市に見られる

「下方五社」(しもかたごしゃ)

と呼ばれる5つの浅間神社を管理、運営することを時の権力者たちに認められていた歴史ある密教寺院で、

かつて富士山信仰の拠点であった
村山興法寺と関りがあったとされています。


そして「下方五社」の一つの滝川浅間神社

「愛鷹 赫夜姫誕生之処」として祀られ、

そのすぐ東側には「竹取公園」という綺麗に整備された公園があり、

こちらも「竹取物語」発祥の地の一つとして手を上げ、その由来を発信しています。

滝(瀧)川浅間神社 2022年6月撮影
竹採公園 2022年6月撮影


竹採公園のある地名は「比奈」(ひな)と言うのですが、

ここはかつて
「富士郡姫名郷(ふじのこおりひなのさと)」と呼ばれ、

平安時代に編纂された和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)という辞書にその名が記されていたそうです。


平安時代……まさに竹取物語が編纂されたと言われる時期……!

この地は、
かつてかぐや姫の「姫」の名が付いた地名でもあり、

そのすぐ近くにも籠畑(かごはた)と言う地名があって、
竹籠を作っていた翁(おきな)を想起させます。

2022年6月撮影


また、竹採公園には

臨済宗中興の祖と言われる「白隠禅師」(はくいんぜんじ)のお墓もあり、

白隠禅師は、
当時衰退していたとされる臨済宗を復興させ、

その手法の一つとして
万を超える大量の書画を残したとても凄い方なのですが、

500人に一人の名僧と言われた白隠禅師は

「駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠」と謳われ

禅師が著した書の

「荊叢毒蘂(けいそうどくずい)」の中で
ここ比奈の地を、

「かぐや姫誕生の地であり竹取翁が住んでいた所」とし、

この地こそが富士浅間大士(浅間大菩薩)のおわす霊場であり日本一の聖地である。

と説いています。


竹採公園にひっそりと佇む白隠禅師のお墓はとても質素なもので、

仏法を広めるため奔走した稀代の名僧の人柄が伝わってくるようです。


白隠禅師の描いた数々の絵は
なんというか、

見たら記憶に残るインパクトがあり、
かつ、ゆるかわ的な魅力があって

好きな人も多いのではないでしょうか。



そしてここで余談ですが、

朝一番に竹採公園にロケハンに行ったとき、
水琴窟(すいきんくつ)の真横の藪

なにやらカサカサと音がしたので、何だろうと覗いてみると、

そこには

「指幅3本分くらい、長さ20cmくらいの茶色っぽい謎の生物」がいて、

頭の部分は藪に埋まって見えなかったのですが、

一瞬

「ツチノコ!?」

と思いましたが
カメラを構える数秒の内に

その謎の生物は、ものすごい速さで藪の中に潜り込んでしまい一瞬でいなくなってしまいました……。

おそらくはモグラか何かの背中部分だけが見えていただけなのかな…?
と思いましたが、

竹採公園にはトカゲが多く見られ、
爬虫類?的な繋がりの意味で、

もしかしたら…………

もしかするかもしれない……と、

竹取伝説の真相にも似た、
とにかく夢のある場所だなあ……とも思いました。

水琴窟 2022年6月撮影
謎の生物(?)が掘って逃げた穴(水琴窟横) 2022年6月撮影


そして、朝、竹採公園を開門してくださった管理人の方からお話を聞いたところ、

かぐや姫の物語自体は創作の話だろうけれども、それの元になったであろう何かしらのエピソードがこの地にはあって、

それが都に伝わって、
竹取物語というお話ができたのではないか?

とも話されていたのが、印象的でした。


何にせよ、
夢のある話です。



【 神仙思想 】


赫夜姫(かぐやひめ)と富士山の話はまだまだ続きます。

竹取物語やそれに類似するお話には多く「不死の薬」が登場し、

最後のシーンでは富士のいづこかで不死の薬が燃やされ、
ゆえにこの山は「不死山(ふじさん)だ!」と言われるパターンがあります。


他にも、月の都の住人は年を取ることもなく「不老不死」であることを匂わせており、

こういった命の永遠性を
仙人などの超越的な存在に求めた考え方を

「神仙思想」と言うそうで、

「天に近い山」という発想や、

「東の海に蓬萊(ほうらい)といふ山あるなり」

という竹取物語の記述からも見て取れ、

おそらくこの時点で富士山を
仙人が住む仙境、「蓬莱山」(ほうらいさん)

として設定していたのではないかとも思えますが、とにかく

竹取物語にはそういった「神仙思想」
あちこちに見られるお話であるとも言えます。

出典:冨田溪仙,Tomita Keisen『蓬莱山図』(東京富士美術館所蔵) 「東京富士美術館収蔵品データベース」収録 (https://jpsearch.go.jp/item/tfam_art_db-6661)


さて、ここで一端かぐや姫から離れて、
富士山にまつわる「不老不死伝説」について見ていくと、

紀元前220年ごろ、日本がまだ弥生時代の時

海を隔てた中国では
並み居る諸国を滅ぼした秦王が天下統一を果たし、

秦の始皇帝となっていました。


始皇帝は、万里の長城
兵馬俑(へいばよう)などで知られる

秦始皇帝陵(しんしこうていりょう)などの建設を行い精力的に行動していた人で、

その傍(かたわ)ら、国内各地に
「不老不死の薬」を探すよう命じていたそうです。


始皇帝は中国初の天下人に上りつめたものの
自身の寿命を悟ったのか、

次第に「不死」を謳う神仙思想に傾注し始めていたそうで、

そんな始皇帝の様子を見て近づいてきた者がおり、その名を

「徐福(じょふく)/ 徐市(じょふつ)」

という方士なのですが、

徐福はこんな申し出を始皇帝にしたそうです。

「はるか東の海にあるという、三神山には仙人が住んでおり

そこには不老不死の仙薬があり、それを探しに行きたい」


―「不老不死」―

という「パワーワード」を聞き
ホイホイと飛びついてしまったのか、

これを聞いた始皇帝は喜び、

徐福に、3000人の若い男女と五穀の種、
財宝、そして多くの工人(職人、技術者)
を与えて、

東方に向けて出発させたのだそうです。


しかし、
結局徐福は三神山にたどり着くことはできなかったと言われており、

さらには
故郷にも二度と戻ってくることはなく、

到着した地で、

「広い平原と沼地をゲットして王になった」

と一説には言われています。

……あれ?

これ……なんか……

皇帝騙されてない……?


―と、時の始皇帝が思ったかどうかは分かりませんが、

その他の説として、
徐福は皇帝から色々貰ったけれども

結局出発する前に、
始皇帝が亡くなってしまったりとかで、

始皇帝を騙した「詐欺師」として描かれていたりもするそうです。


ただ、
仮に出発していたとしても、

故郷を捨てて逃げたように見える姿の裏には、始皇帝の圧政から一族を守るために、

海外脱出を果たそうとして、見事に成功した
サクセスストーリーに見えなくもないところがあり、

そして、

そんな徐福一族が逃げた先はどこだったのか?

という様々な憶測の答えの一つとして


「ここ日本に来たのでは?」


という

いわゆる「徐福伝説」が日本各地には残っています。




【 徐福伝説 】


徐福が本当に日本にたどり着いたのかはさておき、

日本各地には徐福がやってきたという伝説がたくさん残っており、
それが、ここ富士山の北部

山梨県河口湖富士吉田、南都留郡などにも伝わっています。

おそらく徐福が無事着いたとするならば、

静岡県南部の海岸線か、
沼津、三島、伊豆西部あたりに上陸したのではないかと思われ

天を仰ぎ見て一目で分かる独立峰、富士山の姿に、かの蓬莱山(ほうらいさん)を投影したであろうことは容易に想像でき、

きっと徐福一行は

胸躍らせながら富士山のふもとを目指して
意気揚々と歩き始めたに違いありません。

沼津市大瀬崎から見える富士山 2022年2月撮影


山中湖
や、明日見湖、河口湖などに徐福にまつわる史跡が残っていたり、

徐福の子孫ではないか?
とされる人がいた伝説があることから、

おそらく富士山の西側ではなく、須山、須走、御殿場あたりの
富士山東側を通ってきたのではないかと思われます。

明日見湖近くの徐福像 2022年7月撮影


そして、富士の麓にたどり着き、
何年不老不死の仙薬を探し続けていたかは分かりませんが、

結局徐福一行は、
富士の周りでそういった不死の薬を見つけることはできず、

また、故郷に帰ることも出来ないので、

この地に永住することとし、
連れてきた多くの一族と共に

富士山北部で大陸の優れた技術を伝えながら

農業を営みつつ生活したのでは…?
とされています。


そして伝説では、富士の麓で亡くなった徐福が、になって舞い上がり

1000年生きたのち、
山梨県富士吉田にある「福源寺」というお寺の境内に落ちてきて、

その鶴もまた息を引き取り、それが史跡として残っています。

福源寺 2022年7月撮影
鶴塚 2022年7月撮影


そしてもう一つ、

富士山麓に伝わる徐福伝説の中で
知る人ぞ知る伝説。

「宮下文書」(みやしたもんじょ)

という古文書があるのですが、

これは、「徐福」が記した書物だとされ、

その内容はなんと

有史よりはるか以前、
記紀神話が成立するよりも、神武天皇が現れるよりも、

それよりもさらにはるか遡ること数千年前

富士山北麓には謎の「超古代文明」があり

その名も

「富士高天原王朝」

なる帝都が存在していたとのこと……!

…………

これが仮に本当であれば、
竹取物語の舞台の一つとして

富士山北麓のこの帝都こそが、
帝のいた「都」なのでは?!

……とも一瞬思いましたが

裏付ける証拠を見つけられなかったので、
現在はただの不確かな情報の一つとしてしか見ることができません。


また、地質学など
地道なフィールドワークによって

事実をコツコツと積み上げてこられた研究者の方々からすれば、
これはもはや壮大なファンタジーであって、

まともに論ずることはできないと
断じてしまうことも無理はなく、

現在ネットフリックスで配信中の
「スプリガン」第一話「炎蛇の章」のように、

いつの日か海底から

「破壊不可能な謎のプレート」が発見されたその時こそ、

この壮大なロマンに満ちあふれた謎は、

もしかしたら解明への道を一歩を踏み出し、

新たな歴史が動き出すことになるのかもしれません…!?



―と以上、
脱線しつつではありますが、

かぐや姫が富士山の神様として関わっていた様子などを記させていただきました。


確かにかぐや姫は中世においては、
富士山の神様として同一視されていた時期があり、

それはおよそ13世紀~17世紀初めの頃までとも見られ、

村山浅間神社、富士山興法寺においては
さらにその後も祭神として祀られていたそうなので、

このことから

「赫夜姫=富士山の神様」発祥の地ではないか、との説もあります。


そして、17世紀、

江戸時代を境に富士山の神様であった「かぐや姫」は、「コノハナサクヤヒメ」とバトンタッチするような形で入れ替わり、

歴史と御神徳を引き継ぎつつ、

現代においては、
各地の浅間神社でその姿を見られるようになったとされています。



【 富士山の神様 まとめ 】


富士山の神様として、
「コノハナサクヤヒメ」「赫夜姫」(かぐやひめ)を紹介させていただきましたが、

次は順を追って富士山の神様として崇められた、主要な神様を記してみたいと思います。

しかし、これがなかなか複雑で……
色々と間違いはあるかもしれませんが、

ご容赦いただけるとありがたいです。


<富士山の神様:1>

「精霊的な何か」

富士山五合目から見上げる富士山
2022年6月撮影



縄文時代などに見られるアニミズム

動植物や自然、自然現象など、
ありとあらゆるものに霊魂が宿ると信じられていた時代。

先程少しだけ名を挙げた「千居遺跡」(せんごいせき)にみられる列石は

富士山を何らかの信仰対象として見ていた可能性があり、
当時は何と呼称されていたのかは分かりませんが、

もしかしたら「フチ」「フジ」、「アソ」だったのかもしれません。



<富士山の神様:2>

「福慈岳(ふじのやま)におわす冷たい神様」(女神?)

2022年1月撮影

福慈(ふじ)という言葉は、
この天地神名シリーズでも「福慈周辺」と使っているように、

富士山を表す最も古い言葉の一つです。

「常陸国風土記(ひたちのくにふどき)」という

奈良時代、713年に編纂されたといわれる「地誌」があるのですが

それぞれの国に対して中央が地方に要求した、「国状報告書」的な書であると言われています。


当時、一文字や三文字などで表記されていた地名などの名前を、
好き字(よきじ)をもって「二字表記」に変えさせて報告さていたようで、

例えば、

泉 → 和泉

木 → 紀伊 など

他にも、

その土地で採れる鉱物や
山の草木、禽獣、魚介類などを報告させていたり、

また、土地が肥えているか、やせているか、
古老の言い伝える旧聞や異事など

また、地名についての起源などもあり、

そこに、たまたま自分の知っている地名の由来などが書かれてあったら

なんだか少し楽しい気分になる本だったりします。


そもそも風土記は「解」という形で
地方から中央に送達されたそうなのですが

その回収率は分かっておらず、
すべての国が解答したかどうかは分かりません。


つまり、ちゃんと解答した国というのは

当時の王権への忠誠を示したことでもあり、
そういった点も中央から見られていたのかも……。

また、風土記自体残っている物が少なく、

ほぼ完本で残るのは唯一「出雲国風土記」があるだけで、

播磨、肥前、常陸、豊後は一部欠損して残っており、
それ以外は長い時の流れによって無くなってしまったか、

また、

逸文(いつぶん)という、

今で言うところの「引用リツイート的?」な感じで、残るだけになります。

富士山がある駿河国にも、
「駿河国風土記」なる風土記があったそうなのですが、

残念ながら残っておらず、

先に挙げた「常陸国風土記」(ひたちのくにふどき)に記された引用リツイート的(?)な情報だけが

当時における富士山の様子を知る手掛かりとなります。

常陸国風土記に記された富士の神の様子は
おおよそこんな感じになります。



その昔、祖神(おやがみ)様がたくさんの神々の所を巡っており、

駿河の国の福慈岳(富士山)に到着したところで、とうとう日没になったため、

一晩の宿をと、富士の神様に願いました。

しかし富士の神様は

「今夜は新嘗(にいなめ)の祭りをしており、また物忌(ものいみ)で家に籠っているので、お泊めすることは出来ません」

と祖神(おやがみ)を泊めることはせず、断りました。

すると祖神は恨み、
泣いてののしり、

「親も泊めようとしないお前の山は、これから命尽きるまで、冬も夏も雪が降り、誰も登ることはなく、飲食物を供えて祭られることもないだろう!」

と言いいました。



―とまあ、このような感じで

これを見ると当時の富士山、


かなりディスられてた……?!



と、一瞬思ったのですが、
その後の記述を見ると何となく事情を察しました。


その後に続く記述としては、

富士山の次は「筑波山」の神様の元へ
祖神(おやがみ)様は向かうのですが、

そこで見られる「筑波山の神」の対応は
新嘗の祭りの最中でも祖神を迎え入れるなど、

富士山とは真逆の対応で、温かみのある記述となっており、

つまりこれは、
筑波山を褒めたたえるために、あえてその比較として

冷徹な神として富士山を祭り上げ、
描写しているのだ
と、

そう理解しました。


よくよく考えれば確かにそうです……
だってこれは……

「常陸国風土記」なのですから……!


―と自分勝手に合点してしまいましたが、
ここから読み取れる情報としては、

8世紀当時
富士山を登る人は、

まあ、ほとんどいなかったのではないか、
という事でしょうか。


そして、同時に
逸失してしまったとされる「駿河国風土記」には、

どの様に富士山が描写されれていたのか……
それがとても気になってしまうのでした。



また、常陸国と富士山の奇妙な繋がりは
その後もいくつか見かけることがあり、

この関係についても何だか少し気になるところではありました。



<富士山の神様:3>

「浅間神・浅間大神」(あさまおおかみ)
「不動明王?」(ふどうみょうおう)

村山浅間神社 不動明王 2022年7月撮影


富士山が噴火し、それを鎮めるために
浅間神社を各地に建立するようになり、

山宮にあった浅間神社は水の御神徳を頼りに
大宮の地に遷座するようになるなど、

噴火する荒ぶる富士の神を何とか鎮めようとした流れの中で、富士の神様はその頃より

浅間(あさま)という名の神様となったそうです。


正史における富士山の噴火は「続日本紀」に見られ、781年7月6日には、ほんの少しだけ噴火の記述があり、

続いて800年3月14日に再び富士山が噴火した際の内容は、
「日本紀略」に記されています。

そしてその後、853年に浅間神は突如
従三位という位を授けられ、

その後864年6月に起こった大噴火の際は、

「浅間大神」(あさまおおかみ)として呼ばれるようになります。


また、先に紹介した都良香(みやこのよしか)が記した「富士山記」には、「浅間大神」(あさまおおかみ)の記述とともに

富士山頂には「美女二人」がいて
山の上で並んで舞っている様子が記されており、

以降、富士山=女神のイメージを強く結びつけることとなります。


そして、富士山記には
実際に富士山を登った人でしか分からない山頂の様子がこと細かに記されており、

おそらく噴火の合間を縫って富士山に登った人がいて、

都良香に伝えたか、
または本人が登ったかどうかは分かりませんが、

同書には伝説の登山者「役行者」(えんのぎょうじゃ)についても記されていて、

それに触発された誰か、
もしかしたら修験者的な人が登って伝えたのかもしれません。


そして、浅間大神(あさまおおかみ)の語源について、

アサマの語源説は色々あるそうなのですが、
南方系の言語における「アソ」は煙や湯気などを表すようで

「アサプ」とも言い、
アイヌ語では「燃える岩」を表すとされています。

九州の阿蘇山や、長野の浅間山、静岡の熱海など、火山や温泉地域などが連想されますが、

逆に「フジ」と言う名前に関連する火山は見当たらないのだとか。


また、「東泉院影写本」などの古文書には
「不動明王」地主神とする記述もあるそうで、

さらには富士山登山道、村山口吉田口などには不動明王関連の事跡が多く見られ、

こと修験道においては、

富士山が浅間大神と呼称されるよりも以前に
不動明王としていた可能性もあるらしいとのことです。

東泉院跡地 2022年7月撮影

ただ、修験道の優位性を示すための創作である可能性もあり、
さらなる研究が待たれるともされています。



<富士山の神様:4>

「大日如来」(だいにちにょらい)
「浅間大菩薩」(あさまだいぼさつ / せんげんだいぼさつ)

2022年6月撮影


静岡の伊豆山や日金山、そして箱根山などで修業し、
熱海の「熱湯地獄」に苦しむ人々を救ったとされる修行僧がいて、

その名を「末代上人」(まつだいしょうにん)と言います。


伝説上の末代上人は
数百度にわたる富士登山を成し遂げたと「本朝世紀」という書物に記されているそうで、

1149年の平安末期、
富士山頂に「大日寺」という仏閣を建てた人だと言われています。


大日寺は「大日如来」と言う仏さまを祀るお寺であり、

大日寺が富士山頂に建立されたこの時から
富士山の山体を「神」と崇めていた流れが変わり、

これが「富士山仏化」の幕開けとなる象徴的な出来事となりました。


以降、時代の流れと共に富士山には様々な仏像などが奉納寄進され、

富士山頂における八つの峯は仏教における「八葉蓮華」(はちようれんげ)という仏様が座る蓮華座から由来した名が付けられ(諸説あり)

さらなる仏化が進んで行きます。


八葉の峯にはそれぞれ対応した仏様の像が祀られていたそうで、
他にも大日如来の像がたくさんあったのだとか。

また
明治時代、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が起こる前の江戸期においては、

これら仏像にはそれぞれ人が付いていたそうで、登山者から拝観料を取っていたのだそうです。


そして、話は戻り、
神仏習合、本地垂迹(ほんちすいじゃく)という考え方があるのですが、

奈良時代から平安時代には
盛んにこのような現象がおこったそうで、

まず、神仏習合とは

日本にもともとあったとされる
神道の「神様」と、

6世紀、
欽明天皇の御代に日本にもたらさられた

仏教における「仏様」融合し、
「それらはみな同一である」という考え方で

神仏混淆(しんぶつこんこう) / 神仏習合(しんぶつしゅうごう)

ともいいます。


本地垂迹とはそんな神仏習合の考え方の一つであって、

仏様が本来の姿、
つまり本地(ほんち)であり、

神様は垂迹(すいじゃく)
つまり「仏様の仮の姿」とされ、

仏様が衆生を救うために、
一時的に仮の姿として

神様という形をとってこの世に現れている。

という考え方を指します。


この時代、様々な神様に対して、
本地である仏様を関連付ける動きがあり、

富士山も例外ではなく、

「浅間大神」という富士山の神様は

「大日如来」になり、

そして大日如来に対応した垂迹神は

「浅間大菩薩」であるとされました。


瞬く間にこういった動きが広がっていったのを見ると、

当時の仏教がいかに勢いがあり、
そして強かったのか、

何となく分かる気がします。


富士山に大日寺を建てた末代上人はその後、
富士山の南側の麓、

「村山浅間神社」の地に伽藍(がらん)を建て、そこに自身の肉身を納め(即身仏?)

最後は「大棟梁」と号して、富士山の守護神となったのだそうです。

村山浅間神社 高嶺総鎮守 2022年7月撮影

そして、
このことをもって、富士山の「村山修験道」の始まりとされています。


修験道とは先に少しだけ挙げた

「役行者(役小角)」と呼ばれる

不思議な呪法を使い、鬼神を駆使し、空を飛んだとされる
伝説的人物が創始したとされる山岳信仰で、

日本古来からの霊山や、磐座(いわくら)などを対象とした信仰に、
仏教や、密教が融合した、神仏習合の信仰となります。


そんな修験道に身を置く修行者の人たちを

「山伏」または「修験者」と呼び、

和歌山県の熊野、奈良県の吉野、石川県の白山など

その他多くの霊山で修行した修験者は
霊妙な力を会得し

困っている人々をその呪力をもって治療したり、災いを防いだりなどして助けていたそうです。


末代上人もそんな修験者の一人で、

富士山へと登拝する修験道の拠点を築いたわけでもありますが、

それはまだ
江戸時代に「富士講」が隆盛するよりもはるか昔のことで、

のちに続く「頼尊」(らいそん)という名の修験者は、

広く一般信者にも富士山の登山をすすめるという「富士行」を始めたとされ、「富士山興法寺」「村山三坊」などの宿坊を開き、

その後の村山修験は一時期の隆盛を迎えるようになります。



末代上人の伝説的なエピソードとしてもう一つ紹介すると、

垂迹神である「浅間大菩薩」
本地仏が「大日如来」であるわけだから、

当然それは

「男の神様」であるはずなのに、
なぜか女体で顕(あらわ)れることに末代上人は混乱していたそうで、

悩みぬいたすえ、

疑念を解決するため
富士山の中腹に籠り100日間の断食修行を行ったと言われています。

その結果、ある日の夜

「宝珠を持ち白雲に乗った青衣の天女」が末代上人の夢に現れ、
「浅間大菩薩」と名乗るその天女の神託に従って

お告げのあった場所を掘ってみたところ、

「富士山形の一尺八寸の水晶」を見つけたと言われています。



このことから末代上人は、

富士山の神仏とは
「男女の区別のない絶対的な仏」

であるという解釈に至ったのだそうです。



<富士山の神様:5>

「赫夜姫」(かぐやひめ)

2022年6月撮影

先ほど紹介させていただいた、
「富士山縁起」(ふじさんえんぎ)という

富士山や、富士山信仰に関わる寺社などの由来、伝説を記した多くの書に

赫夜姫と富士山の神様が関連付けられ
描写される様子がたくさん残っており、

それはつまり、

「浅間大神」「浅間大菩薩」などの神様が

衆生を救済する為に、その身を変えて現れたものが「赫夜姫」であって

赫夜姫は月ではなく、富士山に登り、
岩窟などに帰っていく結末が各縁起書には見られます。


当時、
それら種々の縁起が

なんとなしに人々に受け入れられたであろう理由を考えてみると、
それは、

都良香(みやこのよしか)の富士山記における
「富士山頂で美女二人が並んで舞う」姿や、

竹取物語のラストにて描写された、
「富士山頂にて不死の薬を燃やす描写」

当時、富士山が火を噴き
噴煙を巻き上げていたであろう姿とリンクし、

人々がその山に並々ならぬ畏怖を感じ、
おそらくを見ていたであろうことと、

また、
「不死」という強烈な神仙思想の価値観が

「ふじ」という言葉と偶然繋がっていたことも、もしかしたら影響していたのかもしれません。

そして、
恐怖、神、未知という

本能に訴えかけるこれら価値観が後押ししていたかどうかは分かりませんが、

次第に赫夜姫と富士山の神様を
結びつけていく要因の一つになっていたのではないかと思います。



日本各地に広まった「竹取の翁」という日本最古の物語は、

ここ富士南麓においては、

富士山信仰とともに繋がり、発展して、
「富士山縁起」として自由な変容を見せ、

赫夜姫を中世における富士の神として決定づけさせる、いわば原典のようになったわけですが、

こと現代においては、
富士山の神様として

赫夜姫をお祀りする寺社はほぼ皆無と言ってもよく、

これら興亡の歴史は
竹取物語が編纂された当時における、

栄華の粋(すい)を極めたのちに凋落した
平家の盛衰を思わせる

諸行無常感さえあるような気がしてなりませんでした。




<富士山の神様:6>

「天照大神」
「千眼大菩薩」(せんげんだいぼさつ)
「千眼大天女」(あさまおふあまおとめ)
「福徳大弁財天女」
「千手観音」

出典:『千手観音像』(東京国立博物館所蔵)「ColBase」収録
(https://jpsearch.go.jp/item/cobas-47493)

中世における富士山の神様は、

同じ富士山縁起に括られた縁起書においても
様々な捉え方があったそうで、

「富士山の神様=浅間大菩薩=赫夜姫」
という祭神論がとても多いそうなのですが、

他にも

「富士山の神様=天照大神の幸魂(さきたま)=千眼大菩薩」
など、

一部ですが、寺社縁起によっては異なる考え方があったそうです。


「浅間」「千眼」は同じ音通とされ、

「浅間大神」(あさまおおかみ)はその後、
「浅間大菩薩」(せんげんだいぼさつ)という神様へと変わっていくのですが、

その際に「浅間」の読みが

「あさま」から「せんげん」に変わったルーツが、この「千眼大菩薩」にあるのではないかとされています。


「千眼大菩薩」とは「千手千眼」

つまり

「千手観音」(せんじゅかんのん)のことであり、

かつて「走湯山」(そうとうざん)と呼ばれた、現在の静岡県熱海市 伊豆山の「伊豆山神社」において、

「伊豆国神階帳」によれば

「正一位 千眼大菩薩」とされ

本地仏とされていたそうです。

そこでは、

富士山の神様である「浅間大神」(あさまおおかみ)「浅間大菩薩」(せんげんだいぼさつ)であり、

すなわちそれは、

「天照大神」(あまてらすおおかみ)の「幸魂」(さきたま)であって、
その名を「千眼大天女」(あさまおふあまおとめ)と言い、

天の頂(いただき)に住む「福徳大弁財天女」

なのだそうです。


…………

……―とまあ

とても複雑で、ちゃんと理解できていない私ですが、

これが富士山に関わる歴史の一端なのだと思うと、

その全体像は果てしないものだと改めて思い知らされます。(思考停止)

また、別の縁起書におていは

「千眼」「あさま」とし、

「浅間」「せんげん」と読む

パターンもあるそうです。

つまり、この時点で読みが逆転しており

「浅間大神」「千眼大菩薩」
なみなみならぬ関係が感じられます。


これらは走湯山(そうとうざん)に関わる縁起書とされていますが、

走湯山は先に紹介した村山や、修験道の開祖「役小角」と大きな関りがあり、

富士山頂上に初めて大日堂を建立した「末代上人」が修行した場所でもあるそうです。

調べていると色々な繋がりが見えて、とても興味深く思いました。



<富士山の神様:7>

「仙元大菩薩」(せんげんだいぼさつ)

2022年2月撮影

「富士講」(ふじこう)と呼ばれる江戸時代に成立し隆盛した、富士山とその神様を崇める民間信仰があり、

主に富士山を登ることで健康や幸福、繁栄などの現世利益を得ることができるとされ、

それらは富士山を語る上で無視することのできない重要な要素の一つなのですが、

「富士講」は戦国末期から、江戸時代に掛けて活躍した

「長谷川角行」(はせがわかくぎょう)

という修験者が開いたとされる教義で、

それまでの「浅間大神」や「浅間大菩薩」に代わって

「仙元大神」「仙元大菩薩」という神様が
富士山には住まわれている、とし

これらの神様を崇めることで、

天下泰平国家安泰、家内安全
期待することができるとしていたそうです。


角行は富士山西麓にある「人穴」(ひとあな)という洞穴で数々の苦行を成し遂げた修験者ですが、

その他にも

何度も富士山を登ったり、御中道や、断食、諸国をめぐって旅をしたり、
外八海や内八海で水行などの修行も行っています。


人穴は鎌倉時代、源頼家(みなもとのよりいえ)が、仁田四郎忠常(にたんのしろうただつね)に命じて探検をさせた、いわくつきの穴で、

不思議な怪奇現象が起き、家来が悉(ことごと)く死んでしまった伝説が残るおそろしい洞穴ですが、

角行はそんな人穴で最期を迎え、入定しています。


そして、かの徳川家康(とくがわいえやす)は、
かつて人穴で角行に出会ったことがあると言われており、

角行はその際に
「仙元大菩薩のお告げ」を家康に伝えたともされています。




<富士山の神様:8>

「コノハナサクヤヒメノミコト」(木花開耶姫命)

出典:富岳百景 3編. 一 「国立国会図書館デジタルコレクション」 を加工
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8942997/4


コノハナサクヤヒメは先に紹介したとおり、
日本神話における神様で山神総元締めである

オオヤマツミの娘であり、

天孫ニニギノミコトと結婚し
火中出産を成し遂げた火山と隼人の女神になります。


現在認識されている富士山の神様のほとんどがコノハナサクヤヒメであり、

赫夜姫を祀る寺社は皆無と言ってよいでしょう。

ではなぜ、
中世~江戸初期においては富士山の祭神とされた赫夜姫が

突如としてコノハナサクヤヒメに変わってしまったのか、

その理由は諸説あると思われますが、
おそらく一番の原因と思われるのは、

江戸時代、徳川家康から4代徳川家綱まで仕えた儒学者、

「林羅山」(はやしらざん)

によるところが大きいのではないかとされています。

出典:肖像及伝記 「国立国会図書館デジタルコレクション」 を加工
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898642/27


林羅山は儒学、朱子学(しゅしがく)を熱心に学んだ人で、
江戸幕府に仕え、主君に学問を教えたり、

将軍の側にいて
儀式や法度(はっと)、外交や典礼などに関与したとされています。

歴史の編纂古書を研究するのも好きだったようで、

日本全国の主要な神社における神様や、
その由来などにも幅広く言及しており、

その思想は「神儒一致」と言う日本古来の神道と、海外からもたらされた「儒教思想」を融合させたもので、

仏教や神仙思想を排斥(はいせき)する考え方が見て取れます。


仏教排斥とは、

つまりは神宮寺などに見られる
神社の中にお寺があったりするような、

いわゆる神仏習合の有様を嘆いていたそうで、

本地垂迹などの考え方も、
独自の思想をベースに様々な言及をしています。


例えば、

「仏は天竺の神であって、日本の神とは同じではない」

「ならば、本地も神であり垂迹も神であるとする」

など。

…………まあ、たしかにそうなのですけれども…

他にも、神仙絡みの説話については

「だだっ広くて果てしなく、ぼんやりとしており」

「信じてはいけない」 として、

いわゆる

「小説である」

と斬り捨てています。

…………まあ、こちらも確かにそうなのかもしれませんが……

つまり、
林羅山は儒教的な考え方をもって、過去から伝わる思想や、

説話などを論評して、整理排斥していったのです。

その流れにおいて、富士山の神様についても言及があり、

「丙辰紀行」という書の中に、このような記述があります。

出典:日本儒林叢書. 第3冊 「国立国会図書館デジタルコレクション」 (https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1913049/362)


「伊豆にある三嶋大社はオオヤマツミを祀っており」

「以前、三嶋と富士の神様は父子の関係にあるとの言い伝えを聞いたことがあるから」

「ならば、富士の神様をコノハナサクヤヒメであると定めれば」

「日本紀の心にもかなうだろう」

―と、

本人も「定申さば」と言っちゃってる事から

「サクヤヒメ=富士山の神様」の流れは

おそらく、
林羅山が決めたものであろうということがよくわかります。


そして、赫夜姫については、

「それはコノハナサクヤヒメの後の話だから」

と、
またもやバッサリと斬り捨てていたとされています。

最終的な原因と言うか、
真実がどうであったかについては

正直分かりませんが、

各地の浅間神社においては、
17世紀ごろまでは

コノハナサクヤヒメの存在が知られていなかったとも言われ、

それにも関わらず
その後は、あっという間に富士の祭神として定着していく様は、

なにか大きな力と流れがあったのだろうと推測します。


例えば、
江戸時代、富士講の隆盛により、

江戸からはるばる富士山に登るため
講社に属する人たちが富士吉田まで歩いてくるわけですが、

その際、案内や宿泊などの世話をする
「御師」(おし)と呼ばれる人たちがいて、

その御師集落においては

「コノハナサクヤヒメ」をガンガンに推していたそうで、

その時に描かれ、配布されていたであろう
御影(みえい)と呼ばれるサクヤヒメの絵がいくつか残っており、

猛烈な営業活動の跡が見え隠れしています。

木花開耶姫命御影 2022年6月撮影
富士講の開祖「角行藤仏(長谷川角行)」と中興の祖「食行身禄」がともに描かれています。


そして「忍草浅間神社」(しぼくさせんげんじんじゃ)と呼ばれる浅間神社には

興味深い神像が3体伝わっていて、

それは1315年、丹後国の静存(しょうそん)と言う仏師の作と伝えられていますが、

ヒノキ材でつくられた座像で、山梨県最古の神像とも言われているそうです。

その像が興味深いのは、組み合わせで

3体中1体は、「伝・木花開耶姫命」(コノハナサクヤヒメ)とされているのですが

残りの2体は、「伝・鷹飼」、「伝・犬飼」とされていて、

1815年頃に成立した「甲斐国志」という地誌にも、そのような記述があるとのことです。

コノハナサクヤヒメは忍草浅間神社の主祭神としても記載があるので

神像=コノハナサクヤヒメであることは十分合点がいくのですが、

問題は残り2体の座像で、
鷹飼犬飼とはつまり、

赫夜姫(かぐやひめ)を育てた
おじいさんとおばあさん、

「愛鷹」

「犬飼」のことで、

竹取の翁を両脇にたずさえ
そして、その中央には

「火中出産を成し遂げた隼人の女神コノハナサクヤヒメが祀られている」

という

「異世界かるてっと」ならぬ、

「異世界とりお」的な異色のコラボレーションで、

なんともちぐはぐな組み合わせとなっています。


というか、
結論から言うと

伝・木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)とされる神像は

実は、その前は赫夜姫(かぐやひめ)であった可能性が非常に高く、

江戸期、赫夜姫からコノハナサクヤヒメに富士山の祭神が切り替わった際に

メインの神像のみ名前が変わってしまったのではないかと思われ、

その変遷を示す重要な証拠ではないかと思われます。

富士山の神様がコノハナサクヤヒメとなっていく過程で、

赫夜姫は一気にその地位を引きずり降ろされていくわけですが、

赫夜姫が富士山ではなく、
忍草(しぼくさ)近くの山の神様になってしまう縁起書があったり、

赫夜姫が月でも富士山でもなく、最終的には「忍草の地」に身を隠して終わる説話もあり、

この説を裏付ける一つの要素ではないかと思われます。

忍草浅間神社 2022年7月撮影
神社向かいには「忍野八海」があります。神像は現在非公開で見ることは出来ませんでした。
2022年7月撮影


かつて一時期の隆盛を見た富士の祭神「赫夜姫」はその衰退とともに、ほぼすべての神社からその名が消え、

そして同時に、
赫夜姫を富士の祭神としてお祀りし、

富士修験の中心地として栄えた
「村山修験」

廃仏毀釈や、修験禁止の時流を受け
赫夜姫とともに衰退していくこととなります。

また、

富士山の神様がコノハナサクヤヒメに切り替わったのは

単純に「林羅山」の指摘や、御師集落における宣伝、布教があっただけではなく、

火中出産を成し遂げた、
火山地域の山神の娘というイメージや

隼人の女神でかつ、
美しく、そして儚い、

また、怒ると誰も止めることできないその力強さが、富士山のイメージと怖いくらいにマッチしていて、

赫夜姫以上に、受け入れられやすい特徴を兼ね備えた神様だったからではないか……

とも思ったりしています。



【 金色姫 】


富士山の神様に関わるものとして
「金色姫」というお話をもう一つだけ紹介したいと思います。

金色姫のお話は主に養蚕の起源を説いたお話で、常陸国蚕影山神社(こかげやまじんじゃ)などに伝わっています。

このお話も様々なパターンがあるそうなのですが、一般的だと思われるものを紹介しますと……


欽明天皇の御代、天竺に旧中国という国があり、

リンイ大王后様、そして金色姫がいました。

しかし、金色姫の母親が亡くなってしまったため、大王は新しい后を迎えるのですが、

その継母は性根が悪く
美しい金色姫を妬み、つらく当たります。

ある日、継母は大王の目を盗み、
金色姫を獅子が住むという山に置き去りにしますが、

獅子王が助け、
金色姫は無事、宮中に帰ってくることができました。

二度目は鷹や鷲や野獣が住む山に捨て去りますが、

鷹狩に来た大王の兵に助けられました。

三度目は海の孤島に舟に乗せて流し去りますが、

釣り船に助けられ、またもや金色姫は生きて戻ります。

そしてとうとう四度目には

庭に金色姫を生き埋めにするという
無慈悲でおそろしい所業に手を染めるのですが、

姫を埋めた場所が光り輝き、
城がその光で照らされため

大王が気づき掘り起こすと、
穴の中にはやつれた金色姫がいたというものになります。

大王は姫の行く末を嘆き、
桑の木で造った「うつぼ舟」に乗せ、

継母の手が届かないよう
海に流し姫を逃がしました。

やがてうつぼ舟は常陸国の豊浦に漂着し、
権太夫という漁師に姫は助けられるのですが、

しかし、
長旅の疲れからか金色姫は病に伏し、

権太夫夫婦は姫を看護するもむなしく
亡くなってしまうのでした。

不憫に思った権太夫夫婦は、姫を忍んで柩(ひつぎ)を造り、

姫の亡骸を納めたところ、夢枕に姫が現れ、
食べ物を欲したと言います。

驚いた夫婦は柩を開けると亡骸はなくなっており、代わりに中には小さな虫がいました。

金色姫が乗っていたうつぼ船が桑の木であったことから、

その小虫に桑の葉を与えると
喜んで食べたのだそうです。

実は虫はで、

桑の葉を食べた蚕は4度の休みのあと
細い糸で繭を作り、

そして繭が出来上がると
筑波の仙人が現れ、

繭から糸を取る方法を教えてくれたといいます。

そして、これが日本の養蚕の始まり―……というお話になります。


なお、その後養蚕で栄えた権太夫は、
御殿を立て金色姫の御霊を中心に

左右に富士の神、
つまりはコノハナサクヤヒメと筑波の神を祀ったのだと言われ、

実際に蚕影神社には
コノハナサクヤヒメが祀られていたりします。


金色姫に限った事ではないのですが、
こういったお話は非常に多くの類話があって、

その中にはかなり毛色の違うお話もあったりします。

それは「金色姫の後日譚」としても見られ、

本来これは筑波が舞台のお話ではありますが、中には富士山を舞台とするお話もあり、

例えば、欽明天皇の御息女に

「各夜姫」(かくやひめ)という人がいたらしく、

常陸国の筑波山に飛んできて神と崇められます。


そしてその後「各夜姫」

先ほど紹介した
天竺のリンイ大王の娘であり、養蚕の神であることを告げます。

さらにその後は
都に近い富士山に登ると言い、

かつて赫夜姫(かぐやひめ)に関わった登場人物、つまりは竹取の翁にも言及があり、

富士山はその「竹取の翁が拝む場所」である

というもので、

「金色姫」「赫夜姫」をなんとか結びつけようとする姿が見て取れました。

とても自由奔放で読み物としては楽しいのかもしれませんが、

欽明天皇の娘に「各夜姫」(かくやひめ)なる人が本当にいたかどうかも分かりませんし、

庭に埋められた金色姫が光り輝いた描写から、「赫夜姫」と関連付けようとしたのでしょうか、

詳しくは分かりませんが、他の後日譚においてもその内容は様々で、

例えば

「筑波山の神様と、富士権現は一体である」

とか、

赫夜姫(かぐやひめ)の舞台である富士山南麓の方へとお話が飛んで行ってしまったり、

「金色姫は大日如来の化身であるから=浅間大明神であり」

「つまりは富士山の神である」

とか、

思考を追い付かせるのが大変な程、複雑な様相を呈しています。


ただ、コノハナサクヤヒメの中には既に
農業や織物などの御神徳が見出されており、

さらには

榊(さかき)を持つのが標準的なサクヤヒメの姿とされているのですが、

時折、桑の木(くわのき)を持つパターンもあるそうで、

そういった点からか、
サクヤヒメは養蚕の守護神としても祀られていたであろうと推測すると、

美しい金色姫と、美しいコノハナサクヤヒメが互いに影響を受け合い、

それが反映・発展していったであろうことは、十分に考えられることだと思いました。


また、今回も「筑波―富士」の地域的繋がりが見えるお話でしたが、

先の風土記から始まり、
太古より比較され繋がりが見出されてきたことはとても興味深かったです。



【 四つの登山道 】


富士山の神様について
できるだけ順序だてて紹介させていただきましたが、

次は、
富士山と共に世界遺産に登録された、禅定道とその起点

「4つの登山道と入口」について紹介したいと思います。


これら登山道はすべて浅間神社を出発地点としており、

富士山信仰における重要な役割を担った場所であるとも言えます。

かつて富士山は
女人禁制の山と言われており、

1872年の明治時代に至るまでは

一部の例外を除き、女性は
富士山に登ることができませんでした。

その理由は、
女性が富士山に登ると神様が怒るから、とか、

修行の妨げになる、とか
様々あったそうですが、

今でも「女人天上」として史跡に残ったりしています。


修験道において富士山に登るという行為は、それ自体が信仰であって、

それは「登拝」(とはい)とも呼ばれ、
悟りに至る修行「禅定」(ぜんじょう)であると言われたそうです。


富士山の有名な登山道は主に下記4つになります。

・大宮・村山口登山道(表口)
・吉田口登山道(北口)
・須走口登山道(東口)
・須山口登山道(南口)

*その他にも、船津口、精進口など様々な登山道があったそうです。


<大宮・村山口登山道>

江戸時代、富士講が一大ブームを巻き起こすよりもはるか昔に賑わっていた登山道で

上述した末代上人(まつだいしょうにん)が平安末期に開いたとされる登山道です。

2022年7月撮影


ここの道は主に修験道に身を置く村山修験の道者達によって使用され、

吉田、須走、須山の「御師」(おし)による発展を見せた登山道とは異なり、

村山三坊という道者坊(宿坊)を建て
富士参詣者を迎え入れていたそうで、

中世になると村山修験は
京都の「聖護院門跡」(しょうごいんもんぜき)に属することとなったため、

西からも多くの道者達が富士山を目指して集まるようになったとされています。

「大宮・村山口」と称されるのは、通るルートから来ており、

まず最初に
富士宮市の「富士山本宮浅間大社」を参拝し、水垢離(みずごり)などをしたのちに、

村山浅間神社(富士山興法寺)に向かい参拝及び水垢離し、
そこで晴れてようやく富士山を登拝できるからであって、

「絹本著色富士曼荼羅図」(けんぽんちゃくしょくふじまんだらず)

という富士山へ至る際の参詣、登拝までの様子を描いた絵に、
当時の様子が見られます。

富士山本宮浅間神社 2022年7月撮影
水垢離場(大宮) 2022年7月撮影


村山浅間神社 2022年7月撮影
水垢離場(村山) 2022年7月撮影

(かつては神社の森裏手の沢に湧く池より水を引いていたのだとか。)


しかし、大宮村山の関係についてはお互いに協力しつつも、

宿泊者の取り合いなどでトラブルか、
もしくは

お互いに色々と思うところがあったのではないか、と推測され、

というのも、

村山三坊は大宮を経由せずに直接、登山者が村山に来てくれないか

あれこれと手を打っていた様子も見られ、
おそらくこれを知った大宮側は面白くなかったことでしょう。


かつて、村山口は
富士山8合目以上の所有権を持っていて、

そして今川家の庇護も厚かったと言われていますが、
駿河に侵攻した武田家には冷遇され、

やがて村山は富士山に関わる権利のすべてを本宮浅間神社に譲渡されてしまったそうです。


そしてその後の歴史はまさに諸行無常、栄枯盛衰と言うべきか、

宝永の大噴火により登山道の一部が通行止めになったり、
富士講の隆盛によって、人の流れが村山から北口や東口へと移ってしまったり、

「修験道の禁止」さらには、

村山口を通さない富士山本宮浅間大社から山宮浅間神社を通る、

「富士宮口登山道」の開設など、

とにかく様々な要因が重なり
村山口登山道と村山修験は衰退の一途を辿ります。


ロケハンで村山浅間神社を訪れてみると、
今でも人の手が入り掃除などが行き届いていて、とても綺麗な場所でしたが、

修験と縁深い地であることからか、
他の浅間神社とは少し違う雰囲気が漂っているような感じがしました。

2022年7月撮影


富士山には綺麗な歴史だけではなく、
こういった人間臭いドラマが見て取れるのも魅力の一つだと思います。


また、外国人の初登山として、

英国公使のラザフォード・オールコック
1860年に、ここ村山口より富士登山を行っています。


当時の日本の情勢は
日英修好通商条約(1858年)などの不平等条約の締結や、

桜田門外の変(1860年)
攘夷派(じょういは)
の台頭など、

外国人に対する排外思想が強くなっていた時代で、

そんな中で日本の象徴たる富士山を
突如として、

英国人であるオールコックが
「登りたい」と言い出したものだから、

幕府内ではちょっとした一悶着があったそうです。


何度も幕府に申請を蹴られつつも、あきらめなかったオールコックは

結果として富士山に登ることとなったわけですが、

国情不安による身の危険は相当だったのか、
幕府は彼ら一行に護衛を100人くらいつけるなどして出発し、

しかし、

道中立ち寄った場所場所や、村山口の大鏡坊などでは手厚く迎え入れられたそうで、

一方では、日本におけるおもてなし精神が垣間見える出来事だったのではないかとも思いました。


村山浅間神社の駐車場には、そんなオールコックの碑が建てられ

その歴史を現代に伝えています。

2022年7月撮影


<吉田口登山道>

北口本宮冨士浅間神社から始まる登山道で

唯一、
麓から富士山頂上まで徒歩で登ることができるまでに整備された登山道と言われています。

北口本宮浅間神社 2022年7月撮影
(木造の鳥居では日本最大なのだとか)


かつてヤマトタケルノミコトが東征の折、

「美しい富士山は、この地から拝すべし」
と言われたことに起因し、

創建されたとされる北口本宮冨士浅間神社は

なにか霊威のようなものを感じる神社で
吉田口はここの神社を出発地点としています。

本殿の右を抜けた先にある鳥居。
ここが吉田口登山道の起点となります。


吉田口は江戸時代の富士講の隆盛により大いに栄えた登山道で、

「江戸八百八町に八百八講」

とまで言われるようになるまで広まった富士講は、江戸幕府よりたびたび禁止令が出されるほどでした。

当時、吉田口登山道を訪れたのは言わずもがな、富士講の講社に属する人たちが多く、

主に、江戸などの関東一円、
北陸、東北、関西にまでも拡大し、富士山文化を大きく育み、

この隆盛こそが
のちに多くの芸術作品を生み出すきっかけの一つになったとも言えます。

登山道の近傍には「御師」(おし)と呼ばれる、富士登山者を案内したり、

宿泊場所を提供するなどを目的とした施設が
かつてはずらっと並んでいたそうで、

御師の町の入り口にある金鳥居から見る、御師町なめの富士山は圧巻です。

2022年2月撮影

というか、むしろ、

吉田口登山道の入り口は浅間神社というよりも「ここから」と言ってもいいのかもしれません。

なお、今でも多くの人で賑わい、
かつての隆盛を現代にまで残す登山道となっています。



<須走口登山道>

東口とも言われる登山道で、文字通り富士山東麓に位置し

東口本宮富士浅間神社(須走浅間神社)を入り口として主に江戸など

関東からの登山者で賑わった登山道です。

東口本宮冨士浅間神社(須走浅間神社)
2022年7月撮影
(神額の「不二山」がかっこいい)
2022年7月撮影


起源については明らかではないとのことですが、富士山への最古の奉納物として、

鏡板に神仏の像を刻んだり取り付けたとされる

「懸仏」(かけぼとけ)という物が、

1384年に出土していたりしています。

須走口は
1707年の宝永の大噴火の影響をモロに受け、

約1丈(3M)の火山れきが降り積もり、

登山道入り口である東口本宮富士浅間神社を始め、須走村一帯は壊滅してしまいました。

「岩……」「いいえ、火山弾です……」
(こんなのが空から大量に降ってきたのかと思うと、恐怖でしかありません……。)
(2022年7月撮影)


翌年には、江戸幕府の支援を受けて復興し

現在では、登山道の再整備などによって再び賑わいを見せていると言われています。


コ口ナアッカンベー
2022年7月撮影


<須山口登山道>

須山口登山道は「大宮・村山口登山道」
「吉田口登山道」に次いで古い登山道である、と伝えられているそうですが、

その起源は明らかではなく、

上記三登山道の総代が、富士登山の遭難処置について立ち会った際に作られた、

1200年付けの立会書に、その存在を確認することができます。

須山浅間神社 2022年7月撮影
2022年7月撮影


江戸時代に刷られた絵図を見ると

吉原宿および三島宿から、須山浅間神社へ至る詳細な道が記されており、

須山浅間神社を起点として
「宝永四年焼出の御穴」と記される、

宝永大噴火の際にできた大穴と宝永山を
左手に眺めながら登る登山道となっています。

この登山道も宝永大噴火の際に甚大な影響を受け壊滅しますが、

須山村の人々の長い努力の末、噴火から約70年後の1780年に須山口登山道は復旧されたそうです。

しかし、1912年には登山道の通る大野原が、
旧陸軍の演習場となったことから接収され、

再び須山口登山道は衰退しますが、

それから約80年後の平成9年、1997年
須山口登山道は再び完全な復興を遂げることとなったそうです。


そして、ここで余談ですが、

須山浅間神社は過去に何度かテレビの取材が来ていたこともあったそうで、

ロケハンに行った際はつゆも知りませんでしたが、鳥居をくぐり正面に見える石段を登った左手の「灯篭」

何人かの人たちがパシャパシャと写真を撮っている姿が見られました。

2022年7月撮影


何だろうと思い見ていると、
案内人のおじいさんがいらっしゃって説明をしてくださいましたが、

見るとこの灯篭の「穴」の部分は「ハート型」になっており、

その穴から覗くとちょうど本殿が真正面に来る配置となっていて、

灯篭のハートマーク越しに写真を撮る方がたくさん来るのだそうです。

かわいらしいハート型の穴がある灯篭
2022年7月撮影
ハート!! 2022年7月撮影


ちなみにこの穴はハートではなく

「猪目」(いのめ)というそうで、

イノシシの目を逆さにした形なのだそうですが、

猪目は魔除けや福を招くとされ、
日本建築や鎧、刀の鍔、鈴などの装飾によく取り入れられており、

その歴史は古く、奈良時代ごろにはもう使われていたのだとか。


須山浅間神社は他の神社とはちょっと違う雰囲気がありとても好きな場所でした。

気になった方は是非、かわいらしいハート型を探しに行かれてみてはいかがでしょうか。



【 富士山を調べて気になった、あれやこれ 】


以上のように富士山について、主に信仰の側面から色々と調べ、

長々と書き連ねさせていただきましたが、

富士山にまつわる歴史や文化というものは、
まだまだこんなものじゃなく、

それこそ複雑多岐にわたっていて、

私ごときの力では簡単にまとめ切ることは出来ないものだと改めて思い知らされます。

私が調べた富士山の姿というものは、

「富士山というものを構成するほんの一握りの側面」になるのですが、

そんな一側面であっても

調べて行くうちに
ふと気になるちょっとした疑問や妄想が生まれ、

これらについても「まとめてみようかな?」とは思ったものの、

結局力及ばず、

文章中に組み込むことができなかった「あれやこれ」を寄せ集めて

以下に簡単にまとめ、紹介させていただきましたので、

もし宜しければ
こちらもあわせて読んでくださるとうれしいです。



<竹取物語のあれやこれ>


竹取物語ラスト、帝の求婚を断ったかぐや姫が月に帰る際、

不死の薬をひと舐め
同不死薬と歌を帝に残していったわけですが、

帝はかぐや姫がいなくなってしまったことに絶望し、貰った不死の薬を飲むことはなく

「つきのいわかさ」と言う人に命令して
富士山頂で焼かせました。


「ヨモツヘグイ」という言葉があるのですが、

これは、日本神話のイザナギ
死んだイザナミを取り戻すため黄泉国におもむいた際、

イザナミは既に黄泉の国の食べ物を食べてしまったため、
生き返ることができなかったと言うお話で、

「あの世のものを食べると生き返ることができない」


つまり、その世界の食べ物を口にすると
その世界の住人になってしまう、という考えだと思うのですが、

イザナギと生前のイザナミ


このシリーズでは何度かお世話になっている

「日本霊異記」(にほんりょういき)の説話においても

「決して地獄の物を食べてはいけない」

と記された話があり、

「地獄の火で調理したものを食べると生き返れない」

とされる考え方が
奈良、平安時代頃においても既に定着していたことが見受けられます。


他にも「ギリシャ神話」や、
スタジオジブリの「千と千尋の神隠し」にも似たような描写があり、

かぐや姫が帝に不死の薬を渡したということは、

「長生きしてほしい」という意味よりかは、

「ともに同じ世界の食べ物を食べて、月の都へ来て欲しい」

という、

かぐや姫の一縷(いちる)の望み的なものだったのではないか……?

とも思いました。

しかし帝は、かぐや姫のそんな思いに気づくことはなく、

不死の薬を食べずに速攻で燃やしてしまいますが、

真実は一体どこにあるのか……。

妄想が尽きることはありません。


<竹取物語:つきのいわかさのあれやこれ>


帝が不死の薬を使うことなく「つきのいわかさ」と言う人に命じて焼却処分させたエピソードですが、

これについては何となくですが

「イワナガヒメ」

を想起させました。

イワナガヒメは上述の通り、
コノハナサクヤヒメの姉で岩のようにどっしりとしており

ブサイクだったため、
ニニギノミコトと結婚できず突き返されてしまう悲劇の神様です。

イワナガヒメはその反面、
岩のような長命をつかさどるとされ、

そこで、
かなり強引ではありますが

「イワナガヒメ」「竹取物語」を無理やり重ね合わせて見てると、

イワナガヒメ → 結婚することなく突っ返される

不死の薬   → 使われることなく燃やされる

イワナガヒメ=長命

不死の薬=不死(長命)

となり、

この点において
「不死の薬=イワナガヒメ」

と捉えることができなくもない気がして、

不死の薬を一度も使うことなく燃やした帝は
イワナガヒメを速攻で実家に送り返した

ニニギノミコトと似ているような気がしてなりませんでした。


ちなみにニニギノミコトは後の天皇家つまり、帝の祖と捉えることができ

ここらへんの繋がりもなんだか気になります。


また「つきのいわかさ」という人も、

「月のいわかさ」だったり「調岩笠」だったりと、何パターンかの漢字があてがわれているのですが、

イワナガヒメの「岩」という字が名前に入っていたり、

なんとなくですが、こちらもイワナガヒメを連想させます。

また、これも完全な妄想ですが

仮に「つきのいわかさ」が

「つきのいわ(か)さ」ではなく

「つきのいわ(さ)か」という

言葉遊びか、意図した間違いだった場合、
それに適当な漢字をあてがって見ると、

「月の磐境」(つきのいわさか)


となり、

磐座(いわくら)信仰における「磐境」(いわさか)を連想させ、

「月という磐を祀る祭祀場」という意味になり、

これは富士山を崇め遥拝した最初の浅間神社とされる、「山宮浅間神社」の磐境を想起させ、

何だかよく分かりませんが、

色々と繋がっているのでは……?と
思ったりなんかしました。

山宮浅間神社の磐境(遥拝所)
(白飛びして見えませんが向こう側には富士山があります。)
2022年2月撮影


「磐境」(いわさか)
が平安当時からあった言葉、概念、発音なのか全く不明なのと、

そもそもこれが完全に私の妄想であることが非常に大きな問題で、

悲しいかな今は、ただのファンタジーでしかありません。



< 竹について >


「竹取物語」とあるように、竹はかぐや姫と大きな繋がりがあります。

竹取物語以外にも上述したコノハナサクヤヒメは、火中出産後、

御子のへその緒を竹の小刀で切っていたり
その竹を捨てると竹林になったり、

また、

サクヤヒメは隼人の女神であることが名前から連想されますが、

隼人族は朝廷に仕えた際、「竹細工」なども手掛けていたそうで、

サクヤヒメが竹に関連する神様であることがうかがい知れます。


また、都良香(みやこのよしか)が記した富士山記の描写には、

「頂上には池があってその周りには柔らかい竹が生えている」

と記されていたり

竹が富士山と赫夜姫を結びつける要素の一つであったようにも見えます。


中世に富士山の神様となった赫夜姫(かぐやひめ)ですが、

江戸時代にバトンタッチすることとなるコノハナサクヤヒメにも同様に竹の要素が見られ、

偶然なのでしょうか、
なんだか面白い繋がりだなと思いました。

2022年7月撮影



<物語の出で来はじめの祖なる竹取の翁>


竹取物語が日本最古の物語と言われるのは、

源氏物語において

「物語の出で来はじめの祖なる竹取の翁」

記されてあったからだそうなのですが、

それを見た時、単純になぜ

「かぐや姫」ではなく
「竹取の翁」と記したのだろう……?


そんな風に思いました。

平安当時において、
竹取の翁は「かぐや姫の物語」とも言われていたそうですが、

完全な主観ですが

愛憎渦巻く「源氏物語」に載せるべき文言として適切な

より源氏物語のイメージに近いのは「竹取の翁」「かぐや姫」か、

どっちなのだろうかと考えた時、

それは、「お爺さん」ではなく、
おそらく、美しくも不思議な魅力に満ち溢れた「かぐや姫」の方であり、

なんで

「物語の出で来はじめの祖なるかぐや姫」

ではなかったのかなあ……と。


単純に、正式名称とされる「竹取の翁」
そのまま記した可能性は大ですが、

竹取物語の主人公かぐや姫であって

準主役として、
おじいさん、おばあさん、帝 であって、

なぜ、そこに「かぐや姫」は記されなかったのか、

何となくですが気になったので、
ここに妄想を書き記してみました。


< かぐや姫の罪 >


竹取物語においてかぐや姫が、
貧しいおじいさん、おばあさんの元に現れたのは

かぐや姫が犯した何かしらの罪のせいであることが、迎えに来た月の都の住人から打ち明けられますが、

具体的に「その罪は何だったか?」については言及はありません。

かぐや姫を富士山の神であると説明している多くの「富士山縁起」の中には

浅間大菩薩(せんげんだいぼさつ)や赫夜姫(かぐやひめ)などの

「神様の前世譚」を記したとされるものもあり、

そこにかぐや姫が犯した前世における罪が記されている……

とする説もあります。


ただ、竹ではなく鶯(うぐいす)の卵などから生まれるパターンの赫夜姫については、

「前世に受けた恩を返すため」
おじいさん、おばあさんの元に生まれ変わってきたとされる富士山縁起もあり、興味は尽きません。

竹取物語には不老不死などの神仙思想も見られますが、

現世を「穢土」(えど)とみなす仏教的な思想も見られ、

そこら辺における当時の「罪」を紐解いていけば、

何かしらの答えが見つかるのかもしれないと思いました。

寒竹浅間神社 2022年7月撮影
かつてかぐや姫を育てた翁と嫗の屋敷があった場所とも、また
竹取の翁(寒竹翁)がここで竹を取っていたとの伝承が残る地です。



<コノハナサクヤヒメは火の神?水の神?>


コノハナサクヤヒメは火の神であるとともに、富士山本宮浅間大社においては

水の神とされています。

異なる属性である「ほのお」「みず」を持ち合わせているのは

でんせつのポケモンにおいても
今のところ1体しか見つかっていませんが、

さすが神様と言ったところでしょうか。

かつて下方五社の惣社(筆頭)といわれた
「富知六所浅間神社」で発見したポケモンのような何か。
2022年7月撮影


同神社で発見したピ〇チュウのような何か
2022年7月撮影


火山の神様だから、火の神様、

火山の火を鎮める神様だから、水の神様

どちらも理にかなってはいるとは思うのですが、どっちが先だったのだろうかと思い調べてみると、

富士山の神様がかつて「浅間大神」(あさまおおかみ)と称されたように

アサマ=火

であって

フジ(フチ)=水

の意味であるとのこと。

どっちが先に根付いていたのかと考えてみると、

単純に火と水、どちらが人が生きて行くうえで必要不可欠なのかを考えたとき、

それは圧倒的に「水」の方であって、

より切実な悩みとして「水への祈り」
太古の人々の間にはあったのではないか……と、

個人的にはそう思いました。

風鈴がとてもきれいでした 2022年7月撮影


< 富士山の異名 >


富士山の名前については

古くは「常陸国風土記」(ひたちのくにふどき)に見える

「福慈岳」(ふじのやま)
万葉集の「不尽山」など、

他にも様々な呼び方があります。

全てではありませんが、ここでその一部を紹介したいと思います。

・福慈岳 ・不尽山 ・不二山 ・不死山 ・穀聚山 ・般若山

・行向山 ・仙人山 ・妙光山 ・理智山 ・七宝山 ・来集山

・養老山 ・かぐら山 ・をとめご山 ・とりのこ山 ・東山

・三重山 ・常盤山 ・二十山 ・花角山 ・新山  ・藤岳

・飛来峯 ・四八山 ・浅沼嶽 ・蓬莱山 ・見出山 ・三上山

など、
めちゃくちゃたくさんあったそうです。

その他にも
明治時代になり女人禁制が解かれ、

富士山が誰でも登れる山になると
婦人が多く登る山

「婦人の山」(ふじのやま)

とも言われたそうです。

とにもかくにも数多くの異名があり、
いかに昔の人たちが富士山に親しみを持って接していたかがよく分かります。



< 富士山位階急上昇?問題 >


9世紀ごろ、富士山が何度も大噴火して朝廷並びに人々を畏怖させた折、

これに神の怒りを見たのか、
朝廷は大急ぎで浅間神社を建立し、

位階と言う人臣に対して与えられた序列を
神さまにも適用し

「神階」として、富士山にも授けたわけですが、

この神階を授けるスピードが凄かった(?)そうで、

単純に富士山が噴火を繰り返して、
その姿にめちゃくちゃ畏れを感じた、という理由はもちろんあったと思うのですが、

同時期頃に噴火していたであろう富士山以外の火山というのが、

上述の通り、おそらくですが他にもあった可能性があり、

その他の火山についても同じように物凄いスピードで神階を授けていたのか、

それについては調べていないのでわかりませんが、

ただ完全な推測ではありますが
富士山に対しての振る舞いというのは、度重なる噴火への畏れ以外にも、

「なんか裏にあるのではなかろうか……?」

と、

そんな気がしてなりませんでした。


当時、富士山が噴火した理由を「祭祀が不十分だったせい」と朝廷は占ったそうで、

富士山にごめんなさい(?)(鎮謝)して
神を鎮めるよう命令したとのことなのですが、

あちこちに浅間神社を建てたり、必死になんとかしようとする様を見ていると、

なにか富士山に対して「うしろぐらい」
ごめんなさいしなきゃいけない「何か」

当時の朝廷の人たちがやっていたのではないか……?

―と、まったく根拠はありませんが
そんな邪推と妄想にとらわれてしまいました。


正確なことは分かりませんが、思い当たる節としては

日本書紀や古事記には富士山についての記述がないそうで、

西方の地、九州高千穂に降臨した神々は徐々に東へ向けて
各地を制定しつつやがて近畿の地に都を築くわけですが、

そこからさらに東の地は

記紀編纂当時においては特に重要でもなく、
つまり富士山については

「記紀に記す必要もない些細な山」

であったと言えば、
確かにそうなのかもしれませんが、

しかし、既に記紀と同時期くらいの書である

「万葉集」には富士山を讃える歌が何首か残っており、

そこに謳われる神の山、富士山の存在感について、当時の偉い人たちが知らなかった、

というのもさすがに考えにくいです。


特に日本書記は、
国外に向けて日本という国をアピールする意味合いが強くあり、

漢文で書かれ、国家としての正式な歴史などを記す側面が強いものだったとされ、

ヤマトタケル東征の折にも富士山は間違いなく見ているでしょうし、

「日本書記」(720年)の成立よりも早くにできた

「常陸国風土記」(713年)にも福慈岳の神は出てきます。

なれば、

富士山を書かなかった理由とはなんだろう……!!?

……と、考えた時、

①「そもそも書き記す必要がなかった」 か

②「正史に書いたらなんかマズイことがあった」 か

となり、

真相はわかりませんが、
おそらくはこの二つのうち、どちらかではないだろうか?

と思います。

そして、仮に②であった場合
あえて富士山を無視したことになりますので、

当時の朝廷の人たちは表には出さないけれども

裏では富士山という霊妙な存在に対する「無礼」を認識しつつも、
ひた隠しにしていたとすると、

その後大噴火した富士山の姿というのは

つまり、
うしろ暗い思いがあった朝廷から見れば

「やばい……!神の怒りに触れてしまった……!!」

「たぶんあれのせいかも……!!」

と察するには十分であって、

高速で神階を授け、ごめんなさいをする理由としては、一理あるのではないかと思いました。

…………とまあ、これもすべて妄想なので、

話半分に聞いていただいて
楽しんでいただけたら嬉しいなあ、と思う次第です。

河口浅間神社 2022年7月撮影


< うつぼ船のあれやこれ >


養蚕起源の一つであるとされる
「金色姫譚」において、

継母に命を狙われた金色姫は、
父であるリンイ大王の手により桑の木でできた「うつぼ舟」に乗せられ

流しさられ、

やがて常陸国の豊浦に漂着することとなりますが、

この「うつぼ舟」とは一体何なのかと調べてみると、カナリ有名なようで、

一説には


「UFO」なんじゃないか?


とも言われているそうです。


うつぼ舟で有名とされるのが1803年江戸時代に起こったとされる謎の事件で

常陸国鹿島郡に
うつぼ舟(うつろ舟)なる舟が流れ着き、

その形は、
香を入れる蓋つきの容器のようであり、

長さは約5.5M

上はガラス障子のようになっており、

下半分は鉄のようなものでできていたそうで、

謎の記号のようなものが舟には記されていたとのこと。

そして、中からは

言葉の通じない美しい異国の女
箱のようなものを持って降りてきたとされ、

発見した人たちは話し合った結果、
それが蛮国の王の娘だと推測し、

領主に報告すると長崎への輸送費がめちゃくちゃ掛かるため

再びその女を謎の舟に戻して沖まで押し流したというものです。


(その後、この人はどうなってしまったのだろうか……)


この事件が再び脚光を浴びたのはそれから約20年後、

「曲亭馬琴」(きょくていばきん)と言う人が

1825年に発表した「うつろ舟の蛮女」という作品に取り上げたからだそうで、

この話は、当時の文人達が毎月集まり、
見聞きした奇談や怪談を話し合う会で披露されたものだそうです。

出典:著者:滝沢興継著者:滝沢興継『うつろ舟の蛮女』(独立行政法人国立公文書館所蔵) 「国立公文書館デジタルアーカイブ」収録 (https://jpsearch.go.jp/item/najda-Z9nZtWK1UxOdtQrNSGjJHrEWU9AqUMN6UgEN_0721)

一緒に記されていた図を見ると確かにUFOのような形をして、
一瞬ザワつきましたが、

これには何種類かのパターンがあるらしく
上記はその伝承のうちの一つになると思われます。

また

「曲亭馬琴」と言う人は、
戯作(げさく)(*小説(?)など)で有名な著述家らしく、

代表作はかの有名な「南総里見八犬伝」

そして、
ほとんど原稿料だけで生計を立てていた日本初の人でもあるそうなので、

つまりは、
この「うつろ舟の蛮女」も戯作であって、

曲亭馬琴がお金稼ぎの為に、
面白おかしく創作した可能性が非常に高いと思われるのですが、

しかし、

そもそも、うつろ舟に関する事件は、
これ以外にも日本各地にあったそうで、

2012年にも日立市の旧家で
うつろ舟に関する新たな史料が発見されたり、

その後も新聞やテレビなどで度々取り上げられ、

「伝説から歴史へ一歩」

などと銘打たれ、
その後も興味深い研究が続けられているのだとか。


この「うつろ舟事件」は先にも紹介した金色姫譚と似かよっている点があり、

金色姫のお話から創作されたものではないか?

との説もありますが、
真相は未だ分からず、今後の研究が待たれます。


そして、UFOから離れて
そもそもうつぼ舟(うつろ舟)とは一体何なのかと考えてみると、

うつぼとは「ウツロ」
すなわち「虚ろ / 空ろ」であって、

木や岩などの自然物における「窪み」の部分だったり、

または

「中が空洞になっている状態」

を指しているものなのだそうです。

河口浅間神社にある御神木の根元 2022年7月撮影
富知六所浅間神社にある大樟の裏 2022年7月撮影


「中が空洞になっている舟」
とは、

ある種の入れ物のような状態で
潜水艇のようなものだったのではないか、とも言われています。

そして、
古来よりこういったウツロ空間には神霊が宿るとされていたそうで、

木の窪みから仏像が出てきたという話や、
海外においても似たような話があり、

異界と繋がる場所ともされています。


…………確かに、

私がたまに通る場所にも
根もとに大きな空洞を持つ木がありますが、

「絶対これ……トトロ住んでるやろ……」

と信じて疑わず、

通るたび、その空洞をチラ見したりしています。

そうやって考えてみると、かぐや姫が生まれた「竹」

竹の節間におけるある種のウツロ空間であって、うつぼ舟的なものであるとも解釈することができ、

金色姫とかぐや姫との繋がりを
こういったところからも感じることができます。


また、日本神話における「山幸彦」「海幸彦」の話においては、

兄の海幸彦の釣り針を無くした山幸彦は、

シオツチノカミの勧めで、
海の中にある「宮殿」へと舟を使って探しに行くことになるのですが、

その際に使った舟は

「無間勝間」(まなしかつま)と言われ、

つまりそれは

「隙間の無い、目の細かい竹籠」となり、

海の中に潜っていったことを考えると、

これもある種の潜水艇的な
ウツロ舟だったのではないかと思われます。

ここでも竹とウツロの関係性が見えて、

私の力ではこれが何を意味するか、
上手くまとめることはできませんでしたが、

色々と繋がっているものだなあと、
楽しい気分になったりもしました。


また、竹取物語の影響を受け、そののちに成立したとされる作品に

「宇津保物語」(うつほものがたり)という長編物語があるのですが、

これは日本最古の長編物語と言われています。

「宇津保」(うつほ)とは
「うつぼ / うつろ」のことであるらしく、

登場人物が貧しさの為、森にある木のうつほ(空洞)で育てられるという設定が見られるお話なのだそうです。

また、「宇津保物語」は

竹取物語のような「不思議な話」と、
「写実的な描写」が入り混じってできているそうで、

後に成立する「源氏物語」に影響を与えているとされています。


日本最古の物語と言われる「竹取物語」と、


竹取物語の最古性を担保した「源氏物語」

その「節間」の期間に、

「ウツホ」と冠する日本最古の長編物語があって、

しかもそれが、
互いに影響を授受している様は、

ただの偶然なのでしょうが、

非常に妄想を掻き立てられるものがあり、

何だかよく分かりませんが、

何だかとても気になるなあ……とも思ったのでした。


そして最後にもう一つ、

死者を入れる棺(ひつぎ)も、
ある種の「ウツロ空間」と考えた時、

もしかしたら金色姫は、

父王に流された時にはすでに

「亡くなっていたのでは……??」

と、
偶然にも気づいてしまい、

その後なんかちょっと怖くなり、

ドアの隙間やカーテンを
ウツロな目をしながら急ぎ、閉めにいく自分がいるのでした。


かつて船を転用して「棺」としたもの
(準構造船転用木棺)
2022年6月撮影



【 丹金ノ赫座(あかがねのかぐら)名前などの由来 】


今回の雑記はほぼ富士山の説明に費やしてしまい、

制作した神様に関しての説明が少なかったので、ここで触れていきたいと思います。


富士山というものを表す端的なものは何だろうと考えてみた時、

まず最初に色のイメージが出てきました。

それは、赤(朱)、金、黄色で、

赤は神道における鳥居や、拝殿の色、
金は仏教における仏像や、浄土の色、

黄色はお日様の色や、「陽」であり、
五行思想における中央などを表しています。

富士山の信仰について調べるとそれは、

神道や仏教がせめぎ合い、また同時に
手を取り合い山頂を治めた

神仏習合を象徴する姿であって、

「丹」「金」

この二字に、両者のイメージを託しています。

出典:『当麻曼荼羅図』(東京国立博物館所蔵)「ColBase」収録
(https://jpsearch.go.jp/item/cobas-48111)
2022年6月撮影
富士山本宮浅間大社 2022年2月撮影
(珍しい二階建て)
北口本宮浅間神社 2022年7月撮影


「丹」
「たん」「あか」「に」と読み、

一方では
硫化水銀(りゅうかすいぎん)から成る鉱物、

「辰砂」(しんしゃ)を表しています。

辰砂はかつて「賢者の石」などとも言われ
「不老不死の薬」として使用されたこともあったそうですが、

当然そんな効果はなく、

不老不死にあこがれた秦の始皇帝もこれを基にした薬を飲み、

齢(よわい)50にして亡くなっています。

また一方において「丹」(に)
日本画などで使われる顔料を表しており、

「鉛丹」(えんたん)という顔料を使用した「丹塗」(にぬり)は、

鮮やかな朱の鳥居に代表される伝統的な塗装方法の一つを表していて、

その色は
「黄色がかった赤色」となり、

建物の腐食など防ぐとともに、 魔除けや神性を表すという

太古の昔より神道との繋がりが強く見られる文字となっています。



そして「金」(gold)は色だけでなく、

日本のみならず世界各国においても、古来より通貨などで使用され、

変わることのない価値を見いだされた希少な金属であり、

その価値は現代においても続いています。

また「金」を「おかね」とした場合、
富士山にはお金にまつわる話も多くあり、

各登山道で登山客の誘致を争った歴史や、

富士山8合目以上の権利問題、

拝観料、

富士山における散銭(さんせん)の配分など。


特に、富士山の噴火口については
かつては「内院」と呼ばれ、

道者などの登山者が頂上に着いた際
お金を火口にばらまき投げ入れたそうで、

いわゆる

「めちゃくちゃ大きな賽銭箱」

でもありました。


そして、火口に降り積もったお金について、
どこの登山口が管理するか。

その権利に関して色々と問題が起きていたそうです。

初期の頃は村山がその権利を持っていたのですが、やがて冷遇された村山はその名を消し、

大宮と須走で配分し合うことになったのだとか……。

他にもたくさん「金」(きん)のイメージに直結する描写があちこちで見られましたが、

永遠性や、美しさ、神々しさ、人間臭い営みの歴史なども全部ひっくるめて

「金」と言う字を使用しています。


また、他にも
様々な意味が名前には込められており、

「丹金」の文字を入れ替えて
「金丹」(きんたん)とすると、

それは、道教における不老不死の薬を意味し、

金石を用いて練り上げるそれは、
仙人になるために必要とされる薬だとも言われています。

また、「丹金(あかがね)」
「銅(あかがね)」としたとすると、

銅(どう)は金と同じく世界最古に使用された金属で、

日本に一番最初に伝えられた金属(青銅)ともされています。

は日本最古の貨幣、
「富本銭」「和同開珎」などにも使用され、

富士山頂でばらまかれた散銭(さんせん)の中にも、銅製の通貨は多くあったと思われます。

また銅は、
東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)などに見られる銅造の仏像に使用され、

富士山頂や、
富士山麓の寺社に奉納された仏像にも銅製のものが多く見られます。

銅製の仏像は水銀で溶かした金メッキを施されることがあり、

金と銅の関連性や、
金の中に潜む「あかがね」という内面を表しており、

彼女の二面性を暗に示す名前でもあります。


「赫」(かく)と言う字は、「赫夜姫」(かぐやひめ)の名前に使用された漢字から来ていますが、

「赫」とはそもそも「輝く」の意であり、
光り輝く美しい神様を表しています。

また「赫」には「かっとする」「いかる」「あかい」などの意味もあり、

突如として怒り、噴火する富士山の様や、

八ヶ岳の背比べで、
富士山が負けて激昂した際に、

八ヶ岳の頭を叩き割ってしまったお話からも連想しています。

また「赫」は上述の通り
「丹」と並び「赤」の意味もあり、

葛飾北斎が描いた赤富士などを意識した字でもあります。

出典:葛飾北斎,Katsushika Hokusai『冨嶽三十六景 凱風快晴』(東京富士美術館所蔵) 「東京富士美術館収蔵品データベース」収録 (https://jpsearch.go.jp/item/tfam_art_db-3769)


名前の「赫座」(かぐら)

「磐座信仰」(いわくらしんこう)から連想した言葉で、

「赫座」とはすなわち「火座」(かぐら)

火の御子がおわします信仰の地、
眠り続ける活火山であり、

それがいつ噴火するのか、
誰にも分かるものではありません。

竹採塚 2022年7月


そして、読みは「かぐら」(神楽)であり、

神に奉納する舞を表すこの言葉は
かつて富士山頂を克明に記した、都良香の富士山記に登場する

美女二人が舞い踊る姿であって、
男神と女神の両性を司る浅間大菩薩の姿でもあります。


富士山の神様でもあるコノハナサクヤヒメは

かつて不貞を疑われた折、
怒り、火中出産を敢行し成し遂げるなど、

激しい気性を持ち合わせており、
「赫」とはそういった意味に取れる言葉でもあります。


そして富士山はかつて
「かぐら山」と呼ばれたこともあり、

様々な意味を掛け合わせて持つ「赫座」(かぐら)という言葉を、
今回の神様の名前とさせていただきました。

黄色のイメージは、
名前ではなく配色として使用し、

「丹」が示すように
「赤」の中に混じる「黄色」であり、

神仏混淆など、
様々な要素が混じわる様子を表しています。


また金の色、
金色(こんじき)

「きんじき」(禁色)

と読み替えたとすると、
それは、

黄櫨染(こうろぜん)や、
黄丹(おうに)と呼ばれる

「絶対禁色」というものであり、

「黄」の字を冠する厳(おごそ)かなその色は、

現代においても
天皇以外の着用が許されていない特別な色とされています。

#007の神様にも
黄櫨染(こうろぜん)や、黄丹(おうに)に近い配色を使用していますが、

そのままの色を使うのはさすがにどうかと思ったので、
ちょっと色相をずらして、完全に同じにならないよう気を付けています。


#007 丹金ノ赫座(あかがねのかぐら)
私が見た富士山への思いやイメージを具現化した神様で、

それは、

富士山がこれからもずっと日本を象徴する山として、かつて「不死の山」と呼ばれたように、

永遠を象徴する丹(に)や、金(きん)のごとく輝き続けていて欲しい、という願いと、

一方では、
富士山に対する畏怖の念もあって、

かつて何度も「噴火」を繰り返した姿からも連想される、今後も起こり得るであろう「身近な恐怖」

「赫」(かく)を表したものでもあります。

2022年6月撮影

富士山の姿が女性なのは、

かつて富士の神は女神であるとのイメージが
「風土記」「富士山記」に見られたことから始まり、

その後は、男神と女神の両性を兼ね備えた絶対神であると

末代上人(まつだいしょうにん)が夢で見たお告げにより悟ることとなるわけですが、

時代が進むにつれ、

富士山はやはり女神であって
赫夜姫(かぐやひめ)や、コノハナサクヤヒメとなり

そんなイメージをもって今回の
デザインへと発展させました。


他にも女神である理由としては、

そもそも山の神は女神が多いことや、
あと、最近ではあまり耳にしなくなったかもしれませんが

自分の奥さんの事を「かみさん」と呼ぶことがあり、

この呼び名は

「山の神」(やまのかみ)

から来ているとの説があり、

やはりそれは女神様のイメージであって、
様々な理由を鑑(かんが)みて

富士山=女神様

なのではないかな? と、思うに至りました。



また、今回のお供(神使)のキャラクターが

「猿」

であるのにも理由があります。

それは、
富士山が突如出現した起源に関係していて、

数ある富士山誕生説話の中、前回紹介させていただいた

「孝霊五年あれを見い、あれを見い」や、

その他にも

「考安天皇の御代92年に富士山が出現した」

という話に由来し、

突如として富士山が現れた年が

「庚申」(こうしん / かのえさる)

と呼ばれる干支(かんし / えと)であったため、今回はそんな「庚申」(こうしん)に縁深い

「お猿さん」を神使とさせていただくことにしました。


干支(えと)と聞くと現代では十二支(じゅうにし)

おおよそ連想する方が多いのではないかと思いますが、

本来の意味は少し違うようで、

「十干」(じっかん)と呼ばれるものと、
良く知られた「十二支」(じゅうにし)を組み合わせたもの、

つまり、

「10」「12」の最小公倍数である
「60」で、ひと巡りになる数詞

これを、
「干支」と呼ぶのだそうです。


十干(じっかん)

「甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸」

の計10種からなり、

十二支(じゅうにし)

「子 丑 寅 卯 辰 巳 午 未 申 酉 戌 亥」

の計12種。

これをお互いに組み合わせていき、

一番最初は「甲子」(きのえね / こうし)
次は「乙丑」(きのとうし / いっちゅう)

という順番で

11番目の「戌」の時に十干(じっかん)は一巡して最初の「甲」へと戻り、

「甲戌」(きのえいぬ / こうじゅつ)となり、
それを繰り返して60でひと巡りするものになります。

*ちなみに、かの有名な甲子園は、「甲子」の年に建てられたから「甲子園」になったのだとか…。


「干支」は現在ではそれほど使われてはいませんが、

かつては暦などの年数や時間、方角など
多くのことがらを表す際に使われていたそうで、

富士山は「干支」で言うところの「庚申」年に出現したことから、

特別な誕生年であるとし、

「御縁年」(ごえんねん)と呼び、

非常にありがたい年とされているのだそうです。

例えば、
庚申の年に富士山に登ると「33倍」ものご利益があるとされたり、

その昔、富士山が女人禁制だった時代では
一時的にその禁が解かれ、

修行した一部の女性であれば
4合目くらいまでは富士山に登ることができたのだそうです。

「庚申」の「申」「さる / 猿」とも読むことができ、
各地に残る「庚申塚」には

かの有名な「見ざる、言わざる、聞かざる」三猿が掘られているものもあります。

また、
富士山登山道の入り口である「浅間神社」においても、

三猿を彫り込んだ手水舎などを見かけることができ、

御師(おし)の町では、
登拝者に配布した御影(みえい)と呼ばれる絵に、

「猿」が描かれているものがあったりと、
富士山との関わりを深く感じます。


東口本宮冨士浅間神社の手水舎に見られる三猿
2022年7月撮影
牛玉札(ごおうさつ)2022年6月撮影 


また、
最初の方に紹介した富士宮に伝わる昔話、

コノハナサクヤヒメが姉のイワナガヒメを探しに噴火する危険な富士山を登った際、

「猿」は道案内をしてくれるなど、
こちらでも富士山との繋がりが見て取れます。


また、この昔話にはサクヤヒメを助ける動物としても出てきますが、

かつて馬を守る神としても
猿は広く信仰されていたそうで、

馬小屋に猿の頭蓋骨や手、
絵馬やお札などを貼ったりして

厩(うまや)の火災防止や馬の無事を祈ったのだそうです。

かつて聖徳太子が「甲斐の黒駒」という馬に乗り
空を飛び富士山を登ったという伝説もあります。
2022年6月撮影


*ちなみに私は「さるぼぼ」がとても苦手で、正直まともに見ることすらできません。

たぶん前世になにかあったのだと思います……。


また、五行思想陰陽五行思想的に「庚申」を見てみると

「庚」「申」どちらも

「金」「陽」に割り当てられ、

ダブルで重なる属性を「比和」(ひわ)と呼び、とても強い「金気」を表しているのだとか。

ちなみに五行思想における「金」の意味を調べてみると、

「硬い、清純」などの他に

「冷たい」

「殺気」(……?!)

などの金属由来の意味があるそうで、

常陸国風土記に記された福慈岳(ふじのやま)の女神を連想させ、

まさに「丹金ノ赫座」(あかがねのかぐら)の一面を表しているのではないかとも思いました。

2022年2月撮影



彼女は、いつもニコニコ笑顔で微笑み、

見た者に「英気」「幸運」
そして「魔を祓う力」を授ける

とてもありがたい神様です。


彼女が一たび現れれば、

周囲は彼女を無視することは出来ず

視線を釘付けにし、

その姿を見たものは

あるものは心奪われ、

あるものは畏怖の念を抱き、

見た者の心に深く刻まれると言われています。


彼女は見目麗しく、
振る舞いもたおやかで、

限りない母性に満ち溢れていますが

その反面、

無礼な振る舞いを犯した者には、
一切の容赦はしないと言われています。


不埒(ふらち)な輩に対しては
粉微塵の怒りを隠すことなく、

躊躇(ちゅうちょ)なく露(あらわ)にし、
その鉄槌を下します。

ひとたび彼女の導火線に火が付くと

止める手立てはなく、

その怒りは大地を震わせ、空をも焦がし、

辺り一面、

火と熱砂の礫(つぶて)で

悉(ことごと)く埋め尽くされることでしょう。


彼女を知る古き神使(しんし)はこう言います。

「彼女を怒らせてはいけない」

なぜならば

「それが世界の終わりに繋がるからだ……」

と、
神使はそれ以上語ることなく、

遠くを見上げ、
ウツロな目をした姿がたびたび目撃されています。

そして神使はこうも続けます。

もし万が一、
彼女の機嫌を損ねてしまうことがあれば、

その時は、

「何かキラキラ光る、かがやく物」

をプレゼントすると良い、
と言います。


それは
金銀財宝、光る珠(たま)であって、

金色に輝く像や、お金であれば
なお良いとのこと。


彼女はそういったものが大好きなようで、

しかし、
ただ集めるだけで

その価値についてはまったく知りもしないし
興味もないのだとか。

ただ単に集めることが好きで、
ひとしきり愛でると興味がなくなるのか、

無くしてしまっても特に気にしなかったりします。


彼女は
遠くで見る姿と、間近で見る姿とで

かなり印象が変わる神様ではありますが、

「ただ、そこにいるだけでいい……!」

「何もしなくていいから……!」

と、震えながら

彼女の身の回りを世話する神使の様子から察するに、

愛すべき神様であることは明白でしょう。




【おわりに】


…………

…………今回も
予想はしていましたが、

めちゃくちゃ長くなってしまいました……。

結果、60000文字……!!


はからずも、
今までで一番長い雑記となってしまいました。

一回読むだけでも1~2時間はかかる
この長くて拙い文章を、

ここまで読んでくださり、
本当に感謝しかありません。

ありがとうございました……!


そして、
思い起こせば富士山を調べ始めて数か月。

気付いたらあっという間に時が過ぎ、
蓄積された膨大な情報量や、歴史の数々に

改めて富士山の大きさを知ることとなった今回ですが、

これらの情報を文字に起こしたら
たぶんエライことになるだろうなあ……

と思いつつも、

書いてみたらやっぱりその通りになってしまった……というのが
正直なところです。


当初の予定では5月ころには出せるかな……?

と踏んでいたのですが、
他にも、様々な案件が重なってしまったことと、

私の能力では富士山の膨大な情報をまとめ切ることができず、

結果、予想以上の時間が掛かってしまったことで、この時期での発表となってしまいました。


「そこまで調べなくても……」

と思うことは多々ありましたが、

なんというか、
今回に限った話ではありませんが、

調査に時間を掛ける理由のようなものが
二つあって、

一つは、

このシリーズのテーマが
「神様」という非常に厳(おごそ)かなものを題材にしていることから、

ちゃんと調べて描かなければ、なにか、

そう……

「いわゆる」
「祟りと言うか……」

「罰(ばち)のようなものが当たってしまうのではないか……!?」

という謎の怖さもあって、

「これは絶対に、適当にやってはいけない……」という、

「使命感」と「危機感」

そんな感じのものが混ぜ合わさり
それが動機の一つになっていたのは確かだと思います。


いつもならここまで思い悩みませんが、
そう思うようになったきっかけ的なこともあって、

そこらへんについては、
ラスト#008あたりで取り上げようかなあ……

とは思っているのですが、
諸事情のため、触れずに終わる可能性もあります……。


そしてもう一つの理由は、

そもそも私が、
ロケハンしながら絵を描くという行為が、

とても好きだった。

ということで、
楽しみながら創作したいという気持ちが強かったのだろうと思います。

ある意味、趣味の延長でやっているようなところもあって、

大変ではありましたが
今思えばそれも良い思い出の一つです。

そして、肝心の調査については
自分なりに色々と調べたわけではありますが

様々な本を読んでいくと、
私などまだまだ、

富士山的に俯瞰して見れば

「登山道入り口に一歩踏み込んだかどうか」

程度の位置にしかいないことに気づかされます。


富士山に関わる本を執筆されている方々は、

「富士山を研究して何十年」
という凄い方も多くいらっしゃって

「まさにライフワーク……!」

人生を掛けてひたむきに富士山と向かい合い、

真摯に、そして熱意をもって臨む様は、
まさに尊敬の二文字であって、

同時に
軽々とこの場へ踏み込むべきではない……という感じさえしました。


富士山とはそういった人生を掛けても良いと思えるほどの

不思議な魅力に満ち溢れた山であり、
後世に残すべき大事な遺産なのだと改めて感じました。


世界遺産においては、
富士山自体はもちろんのこと、

富士山に関わる様々な史跡がまとめて登録されましたが、

ですが、
中には除外されてしまったものもあり、

例えば、かつて江戸で多く築かれた
「富士塚」(ふじづか)という物があるのですが、

この「富士塚」は世界遺産には登録されていません。

富士塚とは、
かつて富士山を登ることができなかった人たち、

たとえば、頂上まで登ることを禁じられた女性や、

体の悪い人、高齢者、子供、お金や時間に余裕がなく

富士山に登りたくても登れない人が
造成された人口の富士山、つまり「富士塚」を登って

富士山に登った時と同じご利益を得ていたとされ、

かつて多くの人々に親しまれていた、
庶民が生み出した信仰の山です。

ミニ富士塚
2022年6月撮影
(なんと、実際に登れます)


富士山とはつまり、当時においては
選ばれた人しか登ることができなかった特別な山で、

そこに選ばれなかった人たちの為に建てられた、「富士塚」(ふじづか)という文化が登録から漏れてしまったことは

とても残念ではありますが、
今後さらに追加で登録される可能性もあるらしいため、

そうなる日がいつか来るといいなあ……
と思いつつ、首を長くして待ちたいとも思いました。


さて、

それではだいぶ長くなってしまったので
ここらへんで今回の雑記を終えたいと思います。

次回の#008でこのシリーズはひと先ずのラストを迎えますが、

もし天地神名シリーズに興味を持ってくださいましたら、
是非また見に来てくださるとうれしいです!


それでは、また!

2022年1月撮影

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