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息子から両親への手紙。

前振り

僕は日頃から、たくさん文章を書いています。

投稿するものもあれば、しないものも、たくさん書いている。

文章を書く練習にもなるし、思考の整理にもなるし。

ある日、何がきっかけは忘れましたが、両親への手紙を書いてみました。

でも、締切があるわけでもなく、出さないといけないタイミングなんてないし、お蔵入りするものだと自分でも思っていました。

出そうと思ったひとつのきっかけは、息子のランドセルを買いに行こうって連絡をくれて、久しぶりに会った時、僕は、久しぶりに会う両親を見て、ああ、歳を取ったなと感じました。

当たり前だけど、いつまでも元気なままではないなと。僕の妻から見ると、普通だったそうですが。

その時に、親父からかけられる言葉が必要以上にぐっと来ていた事は秘密です。

いつまでもいるわけじゃないんだなとか、勝手に考えていました。

その時に、いつかいつかと思っていたら、ダメだなと思った。

両親への想いとか、普段、伝えにくいモノだからこそ、ちゃんと伝えとかなきゃなと思った。

ふたつめのきっかけは、明日は、僕の誕生日だ。タイミングとしては、ばっちりじゃないか。

僕は今までの人生で、親父からたくさんの手紙をもらってきていたけど、僕からの手紙は一度もなかったんじゃないかな。

だから、重い腰をあげて、この文章をプリントアウトして、封筒に入れて、切手を貼って、ポストに入れようと思います。

自分にも、親がいて、健在だって人はぜひ感謝を伝えてみてほしいな。相手が少しでも、元気なうちに。

なんてね。

いや、これ、なんかの両親への感謝の手紙部門の作文大賞とかに応募できるでってくらいの超大作なので、マジで、お時間ある時にって事で。

本編

「拝啓 親父&ちえちゃん。」

親父からは、良く手紙をもらっていたけど、俺からは初じゃないかな?

だから、礼儀正しく、丁寧にいくよ。

さて。

拝啓 お父さん、お母さん。

突然の手紙でびっくりさせてごめんね。

少し前に、僕が亀岡のプロジェクトでテレビに出ていたのを二人で観てくれて「お父さんが「寛之も頑張ってんにゃな」って言ってたよ。」ってお母さんからメールが送られて来た事へのオフィシャルアンサー(公式のお返事)です。

僕の小さい頃の事、覚えていますか?
もう、そんな昔の話は忘れてしまいましたか?

僕は幼い頃から、いちびってばかりで、よく怒られていましたね。

幼稚園時代は自らチューチューマンとか名乗って、女の子にチューばっかりしようとしていた記憶は割と鮮明にあります。

あれは先生や保護者から怒られませんでしたか?いや、ひょっとしたら、知らないかな?

また、エスカレーターの手を置く、ベルトコンベアーのベルトみたいなのが入っていくところがどうなっているのかに興味を持ち、手を入れてしまい、ブザーが鳴って、急停止させた事もありました。

ある日は、台風後の濁流の桂川にペットボトルの船が流れてきて、それを格好よく思った僕が、一目散に川に向かって走って行き、お父さんから「お前、何考えてんねん!死にたいんか!」って、松尾大社まで聞こえるくらいの声で怒られた事もありましたね。

自分の幼い頃の数え切れないエピソードを我が息子がやったとしたらと思うと、ぞっとします。

前に話した事もありますが、幼い頃、いつも、お父さんと手を繋いで寝ていて、いつも、お父さんが手でびくっと合図を送ってくるから、僕もびくって返していたら、あれは、お父さんが先に寝ていただけでしたね。大きくなってから知りました。

小学校時代の通知表では、成績は決して悪い方ではないのに、備考欄では、いつも「川端くんはルールが守れません」「授業中の注意力が散漫です」などと、ここに書ききれないほどの内容で、六年もの間、一学期から三学期までの、実に十八回の通知表で尽く、酷評されていましたね。

何をそんなに毎回毎回、書かれる事があったのでしょうね。

言い過ぎました。五年生だったかの先生は一学期だけは、比較的好意的に書いてくれていたのですが、二学期で、もう我慢しきれなかったのでしょうね。そこからはまた酷評が始まりましたね。

ですので、十七回です。

あの時の気持ちはどうでしたか?

我が子が、毎年毎年、毎学期毎学期、何の学びもなく、小学校通算十八打数一安打しか打てない僕をどう思っていましたか?

しかも、その一安打は、先生の情けで打たせてもらった一安打でした。

よく覚えていないのだけれど、学校にお母さんが呼び出されて、怒られた事も何回もあったはずです。

相変わらず、人の嫌がる事をして。

周りの人に興味を持ってほしかったんでしょうね。当時の僕は。

幼い頃から、わかっていたはずなのですよ。相手が何をしたら喜んでくれて、何をしたら嫌がるのかを。

幼い頃から、いつも、お父さんの顔色を伺って生きていましたから。愛のゲンコツをくらいながら。

いよいよわかりますよ。

その嫌がる事ばかりを選んでしまっていました。

バッドチョイス。

日々、お父さんから、あまりに怒られすぎて、寝ている時に名前を呼ばれたら、いつものように、お父さんからゲンコツを食らうと思って、僕は無意識に頭をさっと守っていたそうですね。

あれは、今だと、完全にアウトですね。

でも、僕自身が、そんな過去も完全に愛していますので、結果オーライです。

高校時代には、お父さんは単身赴任に行き、家にいなくなりました。

その時のお父さんの言葉は「お父さんがいなくなったら、お前は、この家でたった一人の男なんやから、お前が大黒柱にならんとアカンのやぞ」と言ってくれました。

そんな良い事を言ってくれているにも関わらず、当時の僕は人生で初めてとも言えるマブダチに出会い、初めて友情というモノを知り、お父さんがいない事を良いことに、完全にフラフラし始めましたね。

そんな浮かれ始めた僕に、僕のトモダチについて「お前は毎日、何をしとんや。しょうもない連れと、これから一生お手々繋いでは生きていけへんのやぞ。もっと毎日を大事にせんかい」なんて言葉をくれたりもしました。

団塊世代ならではの、競争社会に生きる男ならではの重みのある言葉でした。

その時、最初で最後、超恐いお父さんに口答えをしましたね。「あいつらは、しょうもない奴らじゃない」って。

覚えていますか?

なんか、今から思うと、あの頃の僕は、自分にとっての大事なモノをわかり始めていたんだなと思うと、何気に感慨深いです。

大学時代などは、単身赴任中でお父さんが不在なのを良い事に、ニ年九ヶ月くらい、ろくに家にも帰らず、たまに帰ってくる、お父さんから「お前の日々の暮らし方は考えられん」とついには匙を投げられたり、僕の将来が不安で不安で、夜に僕の事をつい考えてしまうと、寝られなくなってしまったって話を聞かせてもらったのも、両手の指では収まらないですね。

大学生時代は手紙もたくさんもらいました。恐らく、口で直接言っても伝わらないだろうし、そんな我が子を前にしたらイライラするだけだからと、手紙に書いてくれましたよね。

当時は確かにわかりませんでした。俺には俺の今があると思っていたのも事実ですし、親父の生きた時代とは違うとこっそり思っていたりもしていました。

でも、その時の僕を褒めてあげたいのは、今は受け入れられないけれど、そのすべての手紙を何回も何回も読みました。そして、いつか、この手紙の意味がわかる時が来ると思って、全部、置いておいた事です。

例えば、大学時代の手紙に書いてくれた「お前はお前という男を確立しなアカンねんぞ。穿いて捨てられるような一山いくらの男にはなるな。」これなんかは、ずっと僕の中に残ってました。

そのほとんどが後に理解できました。ありがとう。

先に参考書を読んでから、試験を受けている感じでした。あっ!これ書いてくれていたやつか!ってね。

さっきも書きましたね。2年9ヶ月家出同然の状態だった後、就職をし、実家に帰ろうとしたところ、お父さんから「勝手に家を出て行って、今更、何を言うてんのや。勝手すぎるやろ。ちゃんと、お母さんと妹に頭を下げて、お願いしろ」と言ってくれましたね。完全に正しい。僕は完全に母と妹に頭を下げ、住む事の承諾を得ました。

そんな僕もやがて社会人になり、六年くらいが経った頃ですね、結婚をする事になり、僕が正式に家を出たのは。

今から数えると、十五年前ですね。

あれから、実に十五年の月日が流れました。

あれからは、一年に数度くらいしか顔を合わせる事もなくなった僕ですが、特に大きく変わった事もなく、相変わらず、あなたたちの期待してくれる成長曲線のずっとずっと下の方にいるままです。

思えば、高校時代くらいかな?中学時代かな?二人にかな?お母さんにだけかな?言った事をほんのり覚えています。「二人の?(特にお父さんの?)期待が重すぎる。僕は期待に応えられない。」って。

でも、期待されないより、された方が良いよねーなんて思うのは今だからこそです。

実はその頃には決めてました。僕はお父さんを追いかけてもお父さんを抜けるはずなんてないんだから、自分は自分の人生を生きようって。

最高に尊敬する、スゴすぎる父を持ったが故です。

また、風貌的には、この8年くらい、絶望的に期待を裏切り続け、現時点、実に小汚い仕上がりとなっています。

小汚い見た目からの流れです。

さて、今回の写真たちは、あの観てくれたテレビでも流れていた亀岡の並河で関わらせてもらっている集落再生プロジェクト「A HAMLET」の現場で撮ってもらったものです。

あなたたち、ふたりにこの世に産んでいただいて、愛情をたくさん注いでもらって育ててもらい、にも関わらず、クソほど、いろいろ失望させたり、たくさん迷惑をかけてきた僕ですが、今は、こうして、最低限、自分のご機嫌くらいは自分で取れるように、精一杯、自分の足で立って、必死に生きています。

まだ、何も成し遂げてないし、何も誇れる事はないのですが、あなた方に愛してもらった僕は、最近、お父さんのような笑顔で笑えるようになってきた気がしています。

僕は、幼い頃から、自らの子どもの僕以外の誰かに向けられる、お父さんの笑顔を、憧れ、見上げてきました。

その光は、一点の曇りもなく、一隅の淀みもなく、幼い僕を照らして来てくれたのです。

小学校の父親参観の時、お父さんがいない子からすると、とっても酷な日。しかも、お父さんと子どもで何かしらの共同作業をする的な。

案の定、お父さんのいない女の子がぽつんと一人。

他のお父さんは我が子に夢中。

それに気付いた僕のお父さんだけがすぐに笑顔で駆け寄り、一緒に作業をしていた。

逆に、僕のお父さんは近くにいなくなったけど、僕は当時とても、そんな父をめちゃくちゃ誇らしく思った。この人、最高だなと思った。

あなたはいつもその場にいる中で一番楽しくなさそうにしている人に寄り添い、自らのユーモアと自らの笑顔で相手を笑顔に変えてしまう人です。

僕は幼い頃から、そんな姿を見てきた。そんな笑顔を見てきた。

僕は幼い頃、お父さんから、お父さんがいかに根性があって、スポーツができて、腕っぷしが強くてっていう、エピソードを聞かしてもらっていましたよね。

でも、お父さんの本当の強さは別にあると思っています。

己がどんな状況にあれ、みんなを笑わせ、自らの最高の笑顔で周りを包めるところです。

そう、もし、あなたたち両親に、ひとつ誇れる事があるとするのならば、僕が、お父さんのような笑顔で笑えるように自分の人生を生きてこられた事かもしれません。

それは、上っ面の笑顔ではなく、あなたのように、いろいろあった自分の過去を自分の今で乗り越え続け、更新し続けて、塗り替え続けられたからなのかもしれません。

過去は未来で変えられると聞きます。

未来の自分だけが、自分しか知らない過去の自分の悔いや後悔を晴らせると聞きます。

人はどんな笑い方をするかで、どんな人生を歩んで来たかが透けて見えると言います。

お父さんと同じように、いろんな苦労や人に言えない悩み、それらを引っくるめて、逃げずに乗り越えながらも、お父さんのように、周りの人を巻き込み、笑う。

それが少しではあるけれど、できて来ているんじゃないかなと烏滸がましいけれど、感じています。

だから、僕は、その事がとてもうれしいのです。

お父さんの人生とまでは言いませんが、僕は僕なりの人生を歩めるようになってきたのかなと思っています。

ああ、ほとんどがお父さんとのエピソードなのに、拝啓 お父さん、お母さんと書きましたね。

なぜかと言うと、お母さんが愛したお父さんに、お母さんが愛してくれた僕が一部でも似てきている事はきっと、お母さんが喜んでくれると思ったからです。

ありがとう。これからも、二人からもらった愛をいろんな人に還していきたいと思っています。

また、たまには、家に帰るので、一緒に酒でも飲みましょう。

また、釣りも行こうね。

じゃあ、また。

いや、これ、なんかの両親への感謝の手紙部門の作文大賞とかに応募できるで。

2022年11月12日 川端 寛之

※この文章は実際に両親に手紙として送りましたとさ。

photo by photoyuki

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