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【短編小説】悪夢の回廊

「あー、そのくらいあれば十分かな」
そう言って笑ったのは、俺の後ろに立っている妙齢の女性だった。
ここは街の中心部にある警察署の一室である。
俺と女性は今、テーブルを挟んで向き合っていた。
テーブルの上には一枚の書類が置かれている。
それは俺が書いた「死亡届」だった。
なぜこんなことを書いているのかというと、端的に言ってしまえば俺は死んだからだ。
だからこうして死後処理をしてもらっているというわけである。
もともと死ぬつもりは無かったし、こんな書類にサインをすることだって想像していなかった。
だが、今はこうして死亡届を書いているのだから人生というのはわからないものである。
「それにしても、事故だったんでしょう? 運が悪かったね」
女性は気の毒そうに言った。
だが、同情されても困るというのが正直なところである。
何しろ俺は死んでしまっているのだから。
「あのー……それで、私はどうなるんでしょうか?」
俺が尋ねると、彼女は書類から顔を上げた。
そしてにっこりと微笑むとこう言ったのだ。
「もちろん、天国行きに決まってるじゃない。あなたは善良な人間だったんだから」
それを聞いて俺は安堵の溜息をついた。
良かった、これで一件落着である。
でも――本当にそうだろうか? 本当にこれでいいのだろうか?
何かが心に引っかかっていた。
なんだろう……これは……一体何がおかしいというのだろう?
俺が考え込んでいると、女性が心配そうに顔を覗き込んできた。
そして俺の肩に手を置くと言ったのだ。
「さあ、元気を出して! 私がちゃんと見送ってあげるからね!」
彼女の言葉に俺は頷くと、書類にサインをした。
これで手続きは終了である。
俺は椅子から立ち上がると彼女に礼を言った。
「ありがとうございました」
そう言って頭を下げると、女性はニッコリと笑った。
そして俺に向かって手を差し伸べると言ったのだ。
「どういたしまして! さあ、行きましょうか!」
俺はその手を掴むと、彼女と一緒に部屋を出た。
そしてそのままエレベーターへと向かう。
彼女は楽しげに鼻歌を歌いながら歩いていたが、ふと思い出したようにこう言ったのだ。
「そう言えば、あなたの名前はなんていうの? よかったら教えてほしいな」
俺は一瞬戸惑ったが、素直に答えることにした。
どうせ後でわかることだ。
「私の名前は……」
そして自分の名前を口にした瞬間、意識が遠のいていくのを感じた……。
◆◇◆◇◆
気がつくと、俺はベッドの上に寝かされていた。
白い天井が見えることから察するに病院のようだ。
ただし個室らしい。
周囲を見回すと誰もいなかった。
なんの音も聞こえないくらい静かな場所であるようだ。
(あれ? 俺は確か死んだはずじゃなかったのか?)
状況がよく掴めない。
頭に手を当ててみると包帯が巻かれていた。
痛みは感じないのだが、動かそうとすると猛烈な頭痛に襲われたのでやめることにした。
明らかに異常事態であることは明らかだった。
しばらく待っていると、部屋のドアが開いて白衣を着た男性が入ってきた。
医師だろうか? それとも看護師だろうか?
どちらにしても今の俺にとっては安心できる存在ではなさそうだった。
彼は俺が起きていることを確認すると、ほっとしたような表情を見せた後で言ったのである。
「よかった……目が覚めたんですね」
「あの……私はどうしてここに?」
俺が尋ねると、医師は困ったように顔をしかめた後でこう言った。
「交通事故にあったんですよ。交差点で信号無視をしたトラックに轢かれたんです」
俺は首を傾げた。確かにそういう出来事があったような気がするのだが、どうも記憶が曖昧だった。
しかし今はそれよりも重要なことがある。
どうしても聞いておきたいことがあったのだ。
だから俺は思い切って質問をぶつけてみたのである。
「あの……俺って本当に死んだんですか? もしかして夢を見ていただけとか……」
だが、俺の問いかけに対して医師の反応は冷ややかだった。
「何を言っているんですか? あなたは確かに亡くなりましたよ」
彼の言葉には確信のようなものがあった。
まるで自分自身が見てきたことのように自信に満ちた言い方である。
俺は背筋が寒くなるのを感じた。
もしかしてここは死後の世界なのだろうか?
いや、そんなはずはない! なぜなら俺がいるのは紛れもない現実だからだ!
ならばなぜ……?俺が混乱していると、医師は溜息混じりに言った。
「とりあえず、ご家族に連絡してきますよ。荷物とかも用意しておきますので」
その言葉を聞いた瞬間、俺は居ても立ってもいられなくなった。
反射的に飛び起きると、彼の腕を掴んだのである。
「待ってください! その前に教えて欲しいことがあるんです!」
突然のことに驚いたのだろう。
彼は目を丸くして俺の顔を見つめていた。
だが、俺は構わず続けたのである。
「あの……ここはどこなんですか? 病院ですか? それともどこかの研究所ですか?」
それは当然の疑問だった。
何しろ見覚えのない場所なのだ。
それに俺は死んだはずなのにこうして生きているという矛盾もある。
とにかくこの場所が何なのかを知りたかったのだ。
だが、医師は困惑した表情を浮かべると首を横に振った。
そして落ち着いた口調でこう言うのである。
「何を言っているんですか? ここはあなたの病室ですよ」
俺の質問に答えるつもりはないということらしい。
しかしそれでも諦めるわけにはいかなかった。
ここで食い下がらなければ永遠に真実を知ることができないような気がしたからである。
「わかりました……じゃあ、質問を変えます。この病院は何という名前ですか? あと、俺の家族はどこに住んでいるんでしょうか?」
俺は必死になって問いかけたが、医師は曖昧な表情をするだけで何も答えようとしなかった。
やがて彼は溜息をつくと言ったのである。
「今日はゆっくり休んでください。それから後でちゃんと話をしましょう。いいですね?」
それだけ言うと部屋を出て行こうとする。
俺は焦って医師の服を掴むと懇願した。
しかし彼は微笑むと優しく俺の手を外させると静かにドアを閉めたのであった。
そしてドア越しに聞こえる声で彼は言う。
「お大事に……」
絶望的な気分になり、俺はベッドに倒れ込むようにして横たわった。
頭の中にはさまざまな考えがぐるぐると回っていた。
そのうち強烈な眠気が襲ってきた。
そのまま深い眠りにつくと、またしても夢を見たのだ。
しかしそれは前回とは全く違う夢だった……。
◆◇◆◇◆
俺は街の中を彷徨っていた。
いや、正確にはどこへ向かっているのかわからないのだ。
ただ闇雲に歩き続けていただけだった。
やがて一軒の家が見えてきたので足を止める。
だが、俺はそこが自分の家ではないことにすぐに気がついた。
何故ならその建物には見覚えが無かったからだ。
(じゃあ、ここは一体どこなんだ?)
疑問が頭の中に浮かび上がると同時に意識が遠のいていくのを感じた。
その瞬間、脳裏に何かが浮かんでくるのを感じる。
それは断片的なイメージのようなものだったが、どういうわけか強い印象を残したのだ。
(なんだこれは……?)
まるでその光景をどこかで見たことがあるかのような錯覚に陥った。
だが、そんなはずはない。
何故なら俺はこの街に来たのは初めてだったからだ。
それなのになぜ……(だめだ……思い出せない)
そう思った途端に目が覚めたのだった――……。
◆◇◆◇◆
はっと我に返ると、俺は病室にいた。
どうやら悪夢を見ていたようだ。
じっとりと汗ばんだ全身からは嫌な臭いが立ち上っているような気がした。
(あれ……どうしてここに?)
自分が何をしていたか思い出せなかった。
名前や経歴などを思い出そうとしても霧がかかったようにぼんやりとしている。
一体何がどうなっているのか理解不能だった。
それどころか自分自身の存在そのものすら疑わしいと思えてきたのである。
そんなことを考えていると部屋のドアが開き、誰かが入ってきたのがわかった。
医師だろうか? それとも看護婦かもしれないと思ったが、なぜか確認しようという気持ちが起こらなかった。
というより身体が動かないのである。まるで金縛りにあったかのようだった。
足音が近づいてくるが、相変わらず視界は真っ暗である。
やがて手が伸びてきて俺の頰に触れたような気がした。
ひんやりとした感触が伝わってくると同時に背筋がぞくりとする感覚に襲われた。
(やめてくれ……俺に触るな……!)
俺は心の中で叫んだのだが、相手には届かないようだった。
それどころか指先はゆっくりと顎の方へと移動していく。
そして首筋を撫でられる感触に思わず悲鳴を上げそうになったところで目が覚めたのだった――……。
◆◇◆◇◆
目を覚ますと、そこは病室だった。
どうやら俺はまたここで目を覚ましたらしい。
「一体どうなっているんだ……?」
思わず呟くと、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。
「気がつきましたか?」
驚いて声のした方を見ると、そこには医師が立っていた。
白衣を着た人物だというのはわかるのだが、なぜか顔の部分だけがぼやけておりよく見えない状態だったのである。
俺は混乱しながらも彼に尋ねた。
「あの……貴方は誰なんですか? なんでここにいるんですか?」
しかし彼は何も答えず静かに首を振るだけだった。
そして俺の手を取ると優しく握りしめてくる。
その手は氷のように冷たかったので思わず身震いしてしまったほどだ。
彼は静かに口を開くと言った。
「また眠くなりましたか?」
それを聞いて俺は絶句した。
何故ならば今の一言で全てを察したからである――……どうやらこの夢はまだ終わっていないらしいということに……。

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