10年前、ヨガのレッスンで、大好きな紀子先生からこのプリントを頂いた。
『シアトル首長の手紙』。
1854年、アメリカの第14代大統領フランクリン・ピアスがインディアンたちの土地を買収し居留地を与えると申し出て、1855年、インディアンのシアトル首長はこの条約に署名した。
開拓者である白人に先祖代々住んで来た土地を買収され、不毛な居留地へと追いやられることになったシアトル首長が、大統領フランクリン・ピアスに伝えてほしいとスピーチを行ったと言う。
アメリカに伝わるそのスピーチの様々なバージョンを作家の寮美千子さんが集め、その中から『人間と自然の関わり』に関する根本的で大切な言葉を切り取って並べ替え、訳されたものがこちら。
(全文は寮美千子さんのHP、またはこの本↓でぜひ!)
はじめて読んだ時は号泣した。
いつでも、読むたびにはらはらと涙が出る。今こうして記事を書きながらも。
これを読んで、紀子先生の雰囲気やヨガのレッスンでのお話で「この先生好きだ!!」という強烈な直感があった理由がわかった気がした。きっと、大きな根っこが同じなのだと嬉しくなった。
最初のここで、もう胸にグッときた。
こちらにも書いたけれど、わたしは自分の家を持ちたい、買いたい、という思いが昔から1ミリもないし、人間が土地を売り買いするとか所有するって不思議だなあとずっと思っていたから。
これらは特に好きな部分。
子供の頃から、誰にも話さなかったけれどなんとなくこういうことをいつも考えていて、自分の世界に忠実に生きていた20歳くらいにはインディアンの本をたくさん読んでいた。
インディアンの、世界を、人生を見る目線に共感する。
こういう風に生きて行きたいと思うし、この世界観で生きていたら世界は平和になるのになあと、単純に思う。
わたしはよく人を褒める時に「わたしインディアンだから嘘つかないんだけど」というフレーズを使うのだけれど、本気で前世にインディアン時代があったのだろうなと思っている。
「インディアン」という言葉の響きにも、あの服装にも胸がゾワゾワする。
コスプレをしたら最強に似合う自信もある。
ゾワゾワするものはきっと何かがあるとわたしは思っている。
わたしは神社やお寺には全く何も感じないので、日本ははじめてなのかもしれない。
でも十字架、教会、シスターにはゾワゾワくるものがあるから、シスター時代はきっとあったと思う。
アフリカのマサイ族なんかも素敵だと思うけれど、ゾワゾワはしない。
ギリシャの神殿にはいたと思う。古代ギリシャで天文学者をしていたんじゃないかなと思う。
イタリア、フランスなどのヨーロッパには何も感じないけれど、スペインにだけはグッと来るものがある。
アジアにはあまり感じるところはないけれど、アラビアにはいたような気がする。ベリーダンサーや王の侍女時代はあると思う。
モンゴルは、わたしはいた気はしないけれど、わたしの妹は確実にいたと思う。
でもやはり1番ゾワゾワするのはインディアン、マヤ、アンデス、その辺だ。
不思議だけれど、どうしても心惹かれる何かがある。アンデスの音楽も魂が震える。
と、なんとなくの勝手な妄想だけれど、人それぞれ心惹かれる国があるのはすごく面白い。そして大抵、自分の心惹かれる国の写真に自分を合成しても浮かないから、やはりルーツなんじゃないかと思うのだ。
『日本人』と言っても、東南アジアのような顔、イタリア人スペイン人のような顔、南国の顔、色々ありすぎて、たまに電車の中で吹き出しそうになる時がある笑。純粋に日本人の顔、なんてないよなと思う。
そんなことも含めて、
と思っている。
わたしという肉体が死んだら、焼かれて灰になり原子になり、地球の色々なところへ散らばって行く。
サトウユカの一部だった原子が、海に落ち魚に入り、その魚を中国の女性が食べ、その女性が出産をしたら、その赤ちゃんにわたしだった原子が入るかもしれない。
その赤ちゃんは中国人だけど、なぜか日本が懐かしく感じるかもしれないし、インディアンやアンデスにも惹かれるかもしれない。
人間も動物も機械も何もかも、地球上の全ては原子という小さな小さなつぶつぶでできている。
りんごだった原子が今わたしの中にいるかもしれないし、テレビだった原子も物干し竿だった原子もいるかもしれない。
だからあらゆるものはつながっている。
そんなことを考える。
表向き日本人で東京に住むわたしだけれど、心の中に深く刻まれた、きっとルーツであるインディアン的な精神を大切に、母なる大地の一部として生きていたいと思う。