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愛についてのとてもとても長い話

 はっきり言って、現代の我々のほとんどが不毛な恋愛に憂き身をやつしている。もっと率直にいえば、大抵の連中が浮かれ騒いでいる色恋はすべて幻想で、要は偽物の恋愛ゲームに過ぎないのだ!

 こう言ってのけたのは、東大で童貞學という未知の研究に日夜取り組んでいる「猫跨ぎ」という男子学生――すみません、少々熱くなってしまってだいぶん私の声が入り込んでいます。発言の責任はすべて私にありますので、ご了承ください。

 いちおう童貞學というものを説明しておくと、――Xの公式アカウントによれば――新領域の学問として、童貞を主眼にクロスエリア・クロスジャンル研究を行うものらしい。

 はっきり言って、まったく意味がわからない。だけど面白そう、と思ったのは私だけだろうか。

 私は彼の主張に深い共感をいだき、その堂々たる物言いに恐れ入ってしまった――といってもAbemaで、しかもYouTubeにアップされた短縮版の映像を見ただけなのだが、一目惚れというのはそうものだ、たぶん。

 そこで得た情報だけで私なりに要約すると、猫跨ぎさんが言いたいのは、近現代の恋愛は主に二つの軸によって構成されている。ひとつが民主主義による自由という価値観。もう一つが資本主義による合理的な選択。簡単にまとめると、恋愛というものは基本は自由恋愛で――相手を自由に選ぶことができて――なおかつ、その選択は経済的な合理性に適った(たとえば、学歴や年収や趣味や容姿や性格まで、自分にとっての価値をできるだけ最大化しようとする)ものなのだ。

 当たり前すぎて、言語化すると、逆に何を言っているのか分からないかもしれない。だからこそ、あえて考えるに値するテーマなんだけど――いつだって常識を疑うところから真実は芽生える。

 人は自分だけは特別だと思いたがる。だからそういう小難しい理論は後づけで、自分たちにはいやらしい意図などなく、正直に素直に気がついたら惹かれあっていたのだ。これは運命なんだ、愛の力なんだと曰うかもしれない。

 それはそうかもしれませんね。私としてはそう答えるほかない。真実の愛などいったい誰にわかるだろうか? どう証明、あるいは否定できるだろうか? それはおのれ自身が、当人同士が決めることであって、本来他人が口出しするべきではない。

 それでもだ、私は猫跨ぎ氏の主張に強く同感する! 

 なぜなら、現実の恋愛はまさに彼が指摘する通りになっており、わかりやすいところでいえば、最近流行りの――いや、もはやスタンダードになったのか――マッチングアプリはその最たるものだろう。誰もが一度は体験したことがあるだろうから、今更くどくどと説明はしないが、あの世界において私たちは自由に、できるだけ希望に叶った相手を選ぶことができる。最終的には、ほとんど無限に湧いてくる候補者の中から、たった一人――あるいは不届きものは複数人――を選ばなくてはいけないが、期限はとくに決まってないし、お試しで付き合ってみて満足できなかったら、新しい商品を、いや新しい相手を再び探すことができる。さながら恋愛のテーマパークといったところだろうか。夢が覚めるまでそこに終わりはなく、私たちは束の間の幸せや喜び、そして愛に浸る。

 ちょっとしたディストピアだなあ、と小心者の私なんかは恐怖するのだが、社会や人々はますます合理的で経済的で能率もいい、マッチングアプリの世界にはまっていくように見える。昨今では少子化対策や孤独の防止をかかげて、各種自治体までがこうした動きを援助し、自らサービルを提供する地域まであるという。今や恋愛というのは立派な商売や政策になりうるのだ。いやそれとも、単にこれまで以上に可視化されただけで、私たちが生まれたこと自体、そうした歴史の流れに必然的に含まれているのではないか?

 そんなことまで考え出すと、いったいおれはなんなんだ! 私はどうして生まれてきたんだだろう? という一筋縄ではいかない沼に足を突っ込んでしまい、話が拗れてしまうので、これについてはまた今度書きます。約束はできないけど。

 まあこんな感じで、前置きが長くなっちゃったけど――飽きちゃった方はどうぞマッチングアプリの世界にお戻りください――私はこれから自身が体験した恋愛について、そこで考えた愛について語ろうと思う。

 ちょうど「選択」という、この話の肝にもなりうる言葉を投稿コンテストというかたちで頂いたので、それを軸にして。


 私には三年ほど付き合っている彼女がいる。今までで最も交際期間が長い。自分で言うのもなんだけど、私の生き方は、はたから見ればかなりでたらめだ。とても長い将来を考えて付き合える相手ではない。自身ではすごく真面目に、少しでも豊かな人生にしようと生きているのだが、表面上は無責任で将来性がないと見えてしまうらしい。それはもう仕方がないことだ。いくら日々誠実に努力していようと、それが年収や社会的地位や肩書きで表現できないと見向きもされない。世の中の女性は見る目がないと嘆いてみても、負け犬の遠吠えにしかならないのだ。

 普通に考えればわかりそうなことだけど、私はこの事実に少し前まで気づいていなかった。そのあまりに残酷な現実にぶつかったのは大学を卒業してから二、三年ほど経ったころで、学生のときから付き合っていた女の子と別れたショックからようやく立ち直ったところだった。久しぶりに女の子とデートしたいなという素朴な欲求が生まれ、ほんの軽い気持ちでマッチングアプリを入れてみた。手前味噌になるが、あの不毛なマッチングアプリの世界で私の受けは悪くなかった。見た目も学歴も趣味も、コミュニーケーション能力も人並み以上だという自覚があった。

 しかしその短い栄光もどうやら学生の身分だからこそ許されていたようで、社会に出ると女性からの評価基準はがらっと変わってしまう。身も蓋もない話だけど、要は金の匂いがするかどうかなのだ。見た目や学歴や性格はある程度、妥協できるらしい。しかし相手の年収や職業の希望は多くの場合、譲れないようだ。

 たとえば、私のような肩書きとしてはフリーターで、年収も生活するので一杯いっぱいの男など眼中にないのだ。このスペックではどうあがいても、いくらおべっかを使って褒めちぎっても、まめに連絡をとっても、誠実な人柄をアピールしても、まったくの徒労に終わることは目に見えている。そもそも前提条件をクリアしていない時点で、女の子が異性として意識してくれることはない。その状態でこちらがどれだけ頑張ってみても、無駄にしかならず、往々にしてその努力は軽蔑と嫌悪さえ引き立てるようだ。綺麗でお洒落で賢い女性たちは、貧乏人に興味など微塵もない!――不細工でダサくて馬鹿な女性たちもしかり、彼女らのあいだに本質的な違いなどまったくなく、男を見る目もそれほど変わらない。要はイケメンでお金持ちで甘やかしてくれて、表面上はすごおく尊敬できる紳士といったところ。

 こうして私は生まれてはじめて――馬鹿みたいな話だけど――本格的な挫折感を味わった。私の人生にはどこをどう切り取ってみても成功の瞬間なんてないけど、それでも可もなく不可もなくの生活を、とくに苦労なく送ることができていた。人並み以上のものさえ求めなければ、それなりに楽しい人生を過ごせただろう。物欲はほとんどないし、人からどう見られるかもあんまり気にならない。私はただマイペースに、好きな本を読んで毎日を穏やかに生きられたらそれでよかった。だから就職するという選択肢はぜんぜん魅力的に映らなかった。自分の人生には必要のないものだと思っていた。

 だけど女の子たちからゴミみたいに扱われたことで初めて気がついた。そうか、おれの生き方は彼女たちにとって全く魅力的ではないのだ。その気づきは少々大げさかもしれないが、絶望的だった。そのとき私は深く傷ついていたのだ。それまで自分にとって、女性とは優しくて思いやりのある存在だった。愛すべき尊敬すべき存在だった。でもそれは幻想だった。

 女性はみんな聡明で美しいというのは、単なる思い込みで、その実、私が勝手にこうあって欲しいと思っていただけなのだ。私が見ていた女性たちはあくまで自分の理想を投影したものに過ぎなかった。本物の生身の女性たちは良くも悪くもリアルだ。自分にとって価値ある人間にしか振り向かない。自分を守ってくれる、大切にしてくれると確信できる相手しか愛さない。当然そうだろう。それが生物の本能というやつだ。

 でもそれは本当に愛なのか?

 いっとき私は女性に対して怒りや憎しみさえ抱きながら、愛について考えた。自分の条件にぴったり合った相手に対する好きだという気持ち、それが愛なのかと。

 だとしたら古今東西、小説や映画やドラマ、漫画やアニメなんかで描かれてきた愛のかたちが一気に味気なく感じられ、いやもはや、お笑い草だと言い切ってもいいだろう。だってその愛がどれだけ素晴らしく劇的に描かれていたとしても、結局のところ一組の男女が――あるいは同性同士でもいいのだが――なんやかんやあって、「理想の、条件にぴったりの相手を見つけることができました! ちゃんちゃん」みたいな、企業広告並みに通り一遍のものにしかならないじゃないか。本当にそれが愛の正体であれば、私たちは今すぐ恋愛にうつつを抜かす時間を見直したほうがいい。そしてその節約した時間をもっと有意義な人生が送れるように、たとえば保険の契約について真剣に検討するのに使ったほうが、何倍も費用対効果は高いはずだ。

 ぶちまけた話、私は大真面目に言っているのだ。いざという時、自分の身は自分で守れるように備えるのが保険なら、常時自分の身をすり減らし続けるのが、少なくともマッチングアプリの世界における恋愛なのだ。この定義が的を射ているなら、自分のためになるのは間違いなく保険の契約であり、恋愛は亡びの道への階段にしかならない。

 「でも、理想の相手と結婚して、二人で手と手を取り合って、長い人生に備えるっていう手もあるじゃない?」と君は言うかもしれない。

 ああ、そうだね、その通りだよ。でもね、はっきり言って、その人生は偽物だよ。いつか必ず、空虚な思いに彩られる日々がやってくるはずさ。要は、それに気づくのが早いか遅いかの話に過ぎないんだけどね。それでもまだ自分たちだけは違うと言い張るなら、そう思い込む努力を続ければいい。で、いい年になってから不倫なり別居なり離婚なりすればいいさ。それが君の選んだ人生なんだから。あるいは、君がまだ少しでも謙虚さを持ち合わせているなら、よくよく周りを見渡してみて、理想的な結婚を果たしたように見える既婚者の方から「理想と現実とのギャップ」とやらを聞いてみたらいい。もしその話から、真実の断片なり教訓なりを掴むことができたら、きっと君の視野は今まで以上に広がり、ようやくまともな頭で保険について検討し始めているかもしれない。

 なぜ私たちはもっと自分を大切にしないのか? わざわざ身を削ってまで、自分のためにならないことをしたがるのか?

 わからない。説明がつかないことが恋愛の神秘だとも言える。でも悲しいかな、多くの人はその神秘に触れることなく偽りの人生を送っている。


 さて、またまた話が長くなってしまった。随分と偉そうなことをうだうだ書いてきたから、恐れ多いけど、最後に私の恋愛話に戻る。

 散々と言いたい放題こき下ろしたあとに言うのもなんだが、今もなお交際中の彼女とはマッチングアプリで知り合った。

 ほら、やっぱり、おまえの恋愛も偽物だ! さあ、皆さんどうぞ罵倒してください。

 でも、現実の恋愛というのはそういうものだ。なかなか自分の思い通りにはいかない。わかりやすく道でばったりぶつかってとか、図書カードを通じてとか、雨の日の東屋でとか、いかにも運命的な出会いなどほとんどありはしない。だからこそ劇的な出会いはドラマの素材になりうる。それに、仮にそうしたドラマティックな出会い方であっても、それだけでもう自分たちに酔ってしまって、実際は、相手のことなどろくすっぽ見えていない恋愛は往々にしてある。だからまずは、出会い方に良いも悪いもないと宣言しよう。そのうえで、それでもなおマッチングアプリによる恋愛は原則、健全ではないと言いたい。

 私たちの出会いも決して例外ではなかった。

 私は――結果的には悪くない選択だったけど――自分の恋愛偏差値の低さに絶望し、なんと一度は就職を決意し、短期間ではあったけど、会社員としてなんら恥じることない身分を手に入れていた。そのうち忙しさにかまけて、あの身を震わせるほどの屈辱もけろっと忘れてしまった。マッチングアプリの「マ」の字も意識に上ってこなかった。私は絶望から解放され、普段の自分を取り戻していた。そして再び、人生を冷静に見つめ直すことができた。私は会社を辞め、気楽なフリーター生活に舞い戻った。私にとって唯一大事なのは、本がたっぷり読める時間と執筆に向きあえる心のゆとりだったから。

 で、何の因果なのか、性懲りも無くマッチングアプリをダウンロードしていた。今度は時間があり余すぎて暇だったのだ――暇を持て余すと人間、ろくなことはしないものですね。さすがに前回の失敗が深く記憶に刻み込まれていたので、今回は最初から、彼女がほしいとか、長く付き合える相手を見つけることは諦めていた。単に暇つぶしで、ちょっとメッセージのやり取りをしたり、電話したり、あわよくば一回ぐらいデートできたらそれでいいと思っていた。まったく、そんなことしていても虚しいだけなのに、やめられないのだ。恋愛中毒というものがあるとしたら、おそらく私はその類いだろう。中毒というぐらいだから、紛れもなくその恋愛は偽物なんだろうけど。

 だけどここで奇跡が起こった。日頃の行いがいいからだろうか? いや、そんな訳がない。たまたま、偶然、あるいは運命と言ってもいいのかもしれない――コケにしてきた言葉だから気安く使うのは憚られるけど、それでもやっぱり運命というものはある気がする。

 彼女は初めから明らかに異色だった。大量生産系女子――ディズニー、韓国、アニメの三本柱推し――が多いなか、彼女のプロフィールは、あくまで私にとってではあるが、実にクールだった。音楽、映画、それから読書の趣味もいいし、プロフィール写真だってさりげなくも個性が煌めいていた。なんというか遊び心があるのだ。自己紹介文も簡潔でいて、人柄の良さが伝わってくる。私は心底から感動していた。

 その頃には早くも悪夢が蘇りつつあり、今回はいくらか冷めた目で女性たちを見ていたので、「ああ、なんでこうみんな揃いも揃って似たり寄ったりなんだ」と失望を通り越して、ある種達観した気持ちになりつつあった。

 そこに来てパーフェクトすぎる彼女だ。あまりに完璧すぎて、怖かった。こんな子がマッチングアプリの世界にいるわけがない。いたとしても、おれなんかよりもっといい男をすぐ見つけるはずさ。私はまたしても自己否定のループに陥ろうとしていた。ああ、おれにもっと金があったら。いい仕事があったら。せめて正社員であったら、一回ぐらいは会えたかもしれないのに。死んで生まれ変わったら、次の人生で会えるかな。

 でも突如、馬鹿らしくなった。良くも悪くもこれがおれの人生なんだから、あるものでなんとかやっていくしかないさ。それに彼女はなぜか私にいいねを送ってくれた。誤操作なのかもしれないが、現に私たちのマッチングは成立したのだ。ここはダメが元々で、とりあえずメッセージを送ってみる。少し経ってから返信があった。またしてもダメもとで電話に誘ってみる。まさかのオッケー。緊張したけど、気づいたら一時間以上が経っていた。こんなに楽しく女の子と話せたのは久しぶりだ。それから数日間、LINEでやりとりして、お得意の「ダメもとで」デートに誘ってみた。数時間が経過し、その間スマホが気になってしょうがなかったけど、最終的には念願のデートが成立した。


 そして今に至る。初対面の日から私たちは意気投合し、その後何度かデートを重ねて、互いの家に泊まったりもした。私は彼女のことが好きだった。彼女も私に好意を持ってくれているようだった。でも当初は彼女と付き合うことは考えてなかった――そもそも、わざわさ告白するという慣例自体に懐疑的だった。誰とも付き合うつもりはなかった。いまは恋愛よりも執筆が大事だ。それに金もなければ、誰かに誇れる仕事もない。こんな状態でまともな交際なんて出来っこない。今だから彼女は私に興味を持ってくれているが、その熱が冷めたら、彼氏としては見られない、友達としてこれからもウンタラカンタラ言い出すに決まっている。だったらこのまま友達としてたまに会うぐらいがちょうどいいんじゃないか。

 そう考えて――いま思えば――選択のときを引き伸ばしていた。しかしその夜、彼女から打ち明け話があった。このまま、なあなあの関係を続けるつもりなら会うのは今日で最後にしようと。

 その瞬間、気がついた。ああ、おれは結局のところ弱かっただけなんだ。傷つくことを怖がり、相手の心をじわじわと蝕んでいた。彼女のその訴えを聞いて、恥ずかしかった。一瞬、話を誤魔化そうともした。有ろうことか、そこでもまた自己保身に走ろうとしたのだ! でも彼女はそれを許さなかった。臆病な私はしばらく沈思黙考した。彼女の決意は堅いようだ。ここでおれが逃げ出してしまったら、今度こそ彼女はおれのことを見限るだろう。彼女ともう二度と会えなくなる。

 「大丈夫! 今回もこうしてうまくいったんだから、次だって、場合によってはもっと気の合う女の子と会えるかもしれないぜ」と、マッチングアプリの世界観に汚染されつつあった弱い私が囁いていた。「この世界には可愛い女の子、趣味のいい女の子、性格のいい女の子がまだまだいっぱいいるんだよ」という誘惑の言葉が頭にこだましていた。

 ああ、そうだ、おっしゃる通り、と私は思った。だけど目の前にいる彼女は一人しかいないじゃないか。

 「いや、だからもっといい女の子が――」

 もっといい女の子ってなんだ? どこのどいつがもっといい女の子なんだよ。

 「いや、だからマッチングアプリを開けばだな――」

 人間はモノじゃないんだよ! 血の通った、心がある生き物なんだ。それを取っ替え引っ替えしようとする発想は、はっきり言ってクソだ。糞以下だ。そんな生き方をしてて、ろくな人間になれるわけがない。他人を傷つけ、自分をすり減らすだけの人生。そんな奴に真実の愛なんて見つかるわけがないし、貴重な一生を馬鹿みたいな幻想に捧げて、最期は孤独に、真っ暗で鉛みたいに重い心をもって死んでいくのが落ちだろうが!


 私はその日、彼女に告白してふたりは結ばれた。それまでクソみたいな生き方をしてきた私にとって、その選択はまさに奇跡というか、運命の為せる業だった。何より勇気ある彼女の決断に感謝したい。

 『愛について語るときに我々の語ること』というレイモンド・カーヴァーの短編がある。二組のカップルが出てきて、それぞれの体験談をもとに愛について語り合うだけの話だ。いかにもありそうな光景だけど、彼らの語る愛は少し変わってる。とても褒められたものではないだろう。額縁にいれて居間に飾っておきたいという代物ではない。だけどそこには、たしかに血が通っている。当たり前だけど、恋愛というのは人と人とが心を通い合わせるものなのだ。決して自分一人だけでは完結しない。顔が見えない、匿名だからといって、人の心を平気で踏みにじってもいい権利なんて誰にも与えられてない。

 ささいな選択であっても、――選択とすら思っていないかもしれないけど――その一つ一つが自分を形づくり、他人に影響を与える。重要で、ときに危険でもある。だけどそれでも私たちは恋をする。なぜなら私たちは本来誰もが、生まれながらにして人を真っ当に愛すことができる心を持っているから。

 これからも物怖じせず、愛について語ろうと思う。そのとき私たちの心はべつの心を求めて、天高く羽ばたき、広い愛に満ちあふれた世界を見渡しているだろう。

#自分で選んでよかったこと

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