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SNS疲れに関して思う事

ふと、気が付けばSNS(FB)を始めて10年が経過していた。

きっかけは会社の先輩からの薦めだったのだが、当初は何も分からずに自らのプロフィール写真の設定すら出来ずに四苦八苦した事を思い出す。

それでも意味もなくFBを開いている内に要領を覚えて、いつの間にかタイムラインでFB友達に近況報告する事と「おすすめの本」というグループでの投稿が習慣化する様になっていた。

近況報告の投稿にせよ他人に薦める本の投稿にせよ、自らの思いをタイムラインに乗せるという快感は中々刺激的なものである。

他人からのリアクションが増える程、自らの承認欲求が満たされていく感覚を感じざるを得なかった。ある種の快感ですらあった。

SNSの誕生は新しい形での他者との繋がりを構築した事に置いて革命を起こしたと言っても過言ではないだろう。

しかし、何に関しても負の部分というものはあるもので「SNS疲れ」はその代表ではないだろうか。

Wikipediaで調べてみるとこう書いてある。

長時間の利用に伴う精神的・身体的疲労のほか、自身の発言に対する反応を過剰に気にしたり、知人の発言に返答することに義務感を感じたり、企業などのSNSで見られる不特定多数の利用者からの否定的な発言や暴言に気を病んだりすることを指す。

・・・確かにその通りだと思う。

だが、何だか釈然としない。つまりWikipediaに書かれている事以外にもう少し深い所に原因があるのではないか?

以下、誠に手前勝手な考えを述べてみる。

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人間にはどんなに努力しても削り落とせないものが2つあると思う。

勿論、生存に必要不可欠な三大欲求(食欲、性欲、睡眠欲)を除外したものだが、それは

「自己顕示欲」と「嫉妬」


ではないだろうか?

自己顕示欲は正確には欲求というカテゴリーに入るが、ここでは嫉妬と同じく情念というカテゴリーで1つに纏めて表現したい。

言わずもがなSNSというものは投稿側と被投稿側という2つの立場が存在する事で成立している。

例えば投稿側の内なる精神に「自己顕示欲」が沸き起こり、何かを投稿したとする。

被投稿側はその投稿に対して何かしらのコメントなりリアクションを返す訳だが、内心では「羨望あるいは憧憬」という感情が芽生えている。

だが、厄介な事に「嫉妬」も投稿側に対して抱いている。理性で嫉妬心を抑えてはいるが、常に羨望と嫉妬は表裏一体なのである。

「羨望あるいは憧憬」と「嫉妬」のバランスが保てている内は健全である。

被投稿側も何時でも投稿出来る訳であるから、無意識に生じた内なる嫉妬を自らの投稿によって昇華する事も出来る。

問題は先のバランスが崩れて「嫉妬」が大きくなった場合である。

投稿をする側の精神状態は被投稿側と比較して間違いなく高揚している。だが、被投稿側は何時も高揚しているとは限らない。

気持ちが落ちている時に被投稿側の視覚に飛び込んでくる投稿側のリア充な投稿を見るのは中々キツイものがあるだろう。

それが特定の投稿側による頻繁な回数の投稿になると「羨望」より「嫉妬」を抱く被投稿側も存在するのではないかと推察する。

SNSの最も怖い部分は被投稿側の感情を知る由もない投稿側の投稿を余す事なくタイムラインに乗せてしまうところである。

それは『無言の凶器』にも近いかも知れない。だからこそSNSには特定の人間をブロックする機能を備えているのだろう。

「SNS疲れ」とは美辞麗句な投稿郡の裏側に隠された2つの情念の応酬が絡み合う事実を無意識の内に感じとってしまう事から生じるのではないだろうか?




最後までお読み頂き有り難うございました。 いつも拙い頭で暗中模索し、徒手空拳で書いています。皆様からのご意見・ご感想を頂けると嬉しいです。