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久保史緒里とは、自身が映画であることを忘れ、今それを思い出そうとする日本映画が身に纏った世を忍ぶ仮の名前にほかならないー『左様なら今晩は』試論


Ⅰ 二重の装置

 『左様なら今晩は』は美しい映画だ。そして本作の久保史緒里は美しい。実はこの二つは同じことである。映画が映画であることの限界を超えようとする美しさを、久保史緒里は夕日のなかで純白のワンピースをたなびかせ、幽霊としての自分がもうそのかりそめの姿をこの世では保てないことを自覚しつつ、萩原利久と抱擁し、その晩にはさようならも言えずに、ただ眠る男に接吻をして消え去るほかない地縛霊として体現しているからだ。映画が映画であることの限界とは、フィルムはおろか、我々はスクリーンに指一本すら触れることを許されてはいないという、映画との接触の不可能性というあの残酷な現実のことにほかならない。
 傑作たる所以は、映画館とその外の現実世界、そして久保史緒里が囚われているアパートの一室とその外の世界(尾道)という、二つの二重の装置の類似性に起因している。そしてこの二つの二重の装置のさらに外側の世界全体、またさらにその外側のあの世まで含めた宇宙全体を覆いつくす忘却と想起の巨大な機械装置、つまり輪廻転生を繰り返す我々の非情な世界のなかで、久保史緒里はその小宇宙としての忘却と想起の装置たる映画館を通して、愛の透明さを忘却することなく、転生してもなお記憶を保持しつつけるからこそ、『左様なら今晩は』は美しい映画なのだ。
 映画館という装置は、我々にプラトンの洞窟の比喩を思い出させる。前世はイデア界にいた魂たちがそれを忘却し、イデアの幻影を固定された席で見せられる洞窟というあの装置は、まさに映画館のことを予言でもしていたかのようだ。そしてこの装置は、前世の記憶を忘却した状態でアパートの一室から出ることのできない久保史緒里のおかれた状況をも思わせずにはおかない。映画終盤のデートの場面で、久保史緒里がシネマ尾道の前で「ここ、ずっと通ってたんよ」と言い、生前に映画が好きだったことをはっきりと記憶しているのは、アパートの一室と映画館、そして久保史緒里がおかれた地縛霊という身分が、想起の装置として機能しているからにほかならない。




Ⅱ 抱擁と接吻の逆転


 この映画の真の偉大さは、抱擁よりも接吻のほうが甘美であるという我々の現実の価値観を久保史緒里が全身をもって逆転せしめているところにある。
 ベランダでタバコを吸う萩原利久をとらえたファースト・ショットの次に、引っ越しの準備に疲れた、別れゆく元恋人(永瀬莉子)が「一本頂戴」とタバコを萩原利久ねだり、火をつけようとするのだが、彼女は吸いながらでないとタバコに火がつかないことを知らない。「吸いながらじゃないと火つかないけど…」と萩原利久が言うと「ずっと陽ちゃんが吸ってるの見てたのに…」「2年一緒に暮らしてたけど、そんなもんなんだね」と元恋人はつぶやく。これは口吸い、接吻を否定しているかのようだ。おそらく、この後の物語全体を貫く接吻と抱擁の差異の予兆としてこのシーンは機能している。そしてそれにとどまらず、我々の現実の価値観をも反映しているのだ。「吸いながらじゃないと火がつかない」というセリフは、まさに恋の炎が燃え上がるのに接吻は不可欠だという通俗的な価値観を示している。
 しかし、線香は口吸いなどなくても火が付くのである。幽霊の久保史緒里が登場すると、タバコの紫煙から線香の芳香へという変移が、二人の関係の変化の最初の兆候となる。お祓いにちょっとは効くかもと思い、萩原利久が買ってきた線香だったが、「ええ匂い」「癒されますね」と久保史緒里は気に入ってしまう。重要なのは、これ以降萩原利久が一度もタバコを吸うことなく映画が終わりを迎えるということだ。これは萩原利久演じる陽介に現れる最初の行動の変化であり、それは無意識における愛助への思いやりと配慮を意味している。紫煙から線香の煙への移行が、二人の親密な関係の端緒を視覚的に表している。
 人間の萩原利久と幽霊の久保史緒里は、互いに触れることができない。しかし、ある朝、久保史緒里は萩原利久ののどぼとけに触れることに成功する。初めて男性ののどぼとけを触り興奮する久保史緒里が、実は恋愛経験をせずに死んでしまったことがわかるこのシーン以降、二人の関係は親密さを帯び始める。久保史緒里はただの地縛霊から、仕事から帰ってくる男を待つ女となる。
 二人の親密さがより一層増すきっかけとなるのは、萩原利久の同僚である須田(小野莉奈)がアパートを訪問するシーンだ。ソファで須田に押し倒され、接吻をし、そのままことを運ぶという流れになるが、その場に居合わせ、極度の性的緊張に心をかき乱された久保史緒里演じる愛助は意図せずして須田に地縛霊としての姿を見せてしまい、須田を怖がらせて追い出してしまう。須田が帰った後、眠ろうとする萩原利久に詫びる久保史緒里だが、付き合ってもいない女となぜキスできるのか、前の恋人に対しては一途に愛を注いでいたではないかと問いただしはじめ、しまいには陽さん(萩原利久)みたいな人と付き合いたいのかもしれない、と言い出す。生前に恋愛もキスも経験することなく死んでしまった久保史緒里は、ここで萩原利久と口づけしようとするのだが、「ちょっとストップ」と、怖気づいた萩原利久が久保史緒里の動きを封じようと手を彼女の肩に重ねたとたん、男の側からも久保史緒里に触れられるようになったことが判明する。
 後日、久保史緒里を抱き寄せた萩原利久は「こんなふうに触れたら、生きてる人と変わらないじゃん」「愛助、なんで死んでるの?」という言葉とともに抱擁する。抱擁の発見ともいうべき瞬間を収めたこのシーンこそ、抱擁と接吻の逆転を雄弁に物語る本作の白眉だ。
 抱擁しながら、人と触れ合うことの喜びを言葉にする久保史緒里に対して萩原利久は「一回100円な」とつぶやき、久保は「陽さん、幽霊はお金持っとらんよ」と返す。これはただのジョークと考えるべきではないだろう。何しろこの言葉はクライマックスの海岸での抱擁でも繰り返されるし、思えばこの作品には金銭に言及したセリフが多くみられるからだ。視覚的には幽霊と人間の差異がその透過性からしかわからない本作において、現世と霊界の決定的な違いとして金銭が強調されている。交換において我々は金銭を含む何物かを媒介にしなければ、互いの欲求を満たし合うことはできない。しかし、幽霊とならば無媒介的に互いに触れ合うことができるのだ。「一回100円な」という萩原利久のセリフは、触れ合うことなどできるはずのない存在を無媒介的に触知してしまったことに対する未知の動揺を胡麻化すための照れ隠しに過ぎない。
 偽霊能力者の来訪に動揺しつつも、部屋の外に出る方法を知り、ベランダにたたずむ久保史緒里は、急いで部屋に戻ってきた萩原利久にデートを申し込む。デートをすることで恋愛が成就し、成仏して萩原利久と別れなければいけないと知りつつも懇願する久保史緒里の演技が素晴らしい。「相手、俺でいいの?」と問う萩原利久に「陽さんとがええんよ」と答える久保史緒里は、相手をあこがれの対象としてではなく、時間を共有した彼自身として見ている。相手を理想化するのではなく、相手がただその人であるからという理由で霊は人を愛するのだ。
 デートの終わりとともに別れが訪れることを悟りつつ、喜びと悲しみが入り混じった表情を見せる久保史緒里の演技は美しい。「いろいろを思い出せた。うちにとって、全部大事なことじゃった」「でも、もうええんじゃ、そんなこと」と言い、夕日をバックに萩原利久にハグを求める久保史緒里。この二人の抱擁の肩なめバストショットで泣かない人は、人間の名に値しないと思う。
そして抱擁しながら、萩原利久が「あれっ、元気なくない?」と、デートが終わってしまうことを悲しんでいる久保史緒里の心情を察知し、抱擁を終え、そのあと見つめ合うのではなく、久保史緒里がひたすら尾道の海の向こうの夕日を見つめながら男と受け答えをする。凡庸な演出家なら二人の顔のクロースアップの切り返しで処理したであろうが、この監督は違う。互いに向かい合っているようでも、久保史緒里は萩原利久とは違う方向を、来世を見つめている。
帰宅後、「またデートしようよ」という萩原利久に対し、二度目はもうないことを知りつつも、噛みしめるように「うん」と返す久保史緒里。そして次の彼女のセリフ「うち、今日のこと、一生忘れんと思う」を忘れずにおこう。休館日のシネマ尾道の前で、「また今度行こう」と、果たされるはずもないであろう約束を指切りげんまんで誓い合った二人が再びそこで再会するためには、久保史緒里がその記憶を来世でも保持し続けることが不可欠であった。だからこそ、「一生忘れんと思う」という久保史緒里の言葉の重みは測り知れないのだ。あの少々唐突であまりにも無邪気すぎる約束のシーンは、この一言によってその残酷さが露呈し、また救われもする。



Ⅲ 翻る白のワンピース、映らないスクリーン

 そして久保史緒里が纏う白のワンピースは、紛れもなく劇場のスクリーンの白さと共鳴し合っている。だからこそあの再会と呼べるかも曖昧なシネマ尾道でのラストシーンにおいて、スクリーンは決して画面に映ることはない。現前すべきスクリーンは、スクリーンに映し出されるスクリーンのシュミラークルではなく、あくまで久保史緒里が身にまとう胸部の起伏を欠いた白いワンピースであり、あくまで我々が劇場で見上げることになるスクリーンそのものなのだ。
 こうして我々は、ある驚くべき仮説へと導かれる。久保史緒里の前世は、映画だったのではないか…彼女が演じる地縛霊は、自分が映画であることを忘れた映画自身のことなのではないか。そしてこの物語は、映画が映画たることの限界に直面することで、自身が映画であることを思い出す映画についての寓話であり、また意図も意識もすることなく映画に遭遇し、映像の生成と消滅というあの不意撃ちに見舞われ、それでも映画館へと導かれる一人の男の話なのではないか。
 そう考えると、海岸でのクライマックスはなおのこと感動的なシーンとして再び我々に立ち現れてくる。多くのことを思い出したのにもかかわらず、「でも、もうええんじゃ、そんなこと」と前世の記憶を払いのけてでも目の前にいる男との思い出を忘れずにいようとする久保史緒里の身振りは、映画とは壮大な記憶装置を保持しつつも現在を生き続け、一回性をその都度更新しながら我々の前に現前してくれる夢のような存在であることを教えてくれる。映画とは我々が訪れる場所などではなく、向こうから我々に訪れる幽霊のごときものなのだ。
 だが、そんなことはどうでもよいのである。幽霊と映画の構造上の類似など、この映画がもつ透明さの前にはとるに足らないことであるし、実際作り手たちがこれを意識していたかも問う必要はない。もっと言えば、無意識にこのような構造が出来上がってしまうという事態こそがこの映画の透明性に貢献している。そして久保史緒里の足元のクローズアップや潤む瞳、海岸で風にたなびく髪など、彼女の存在そのものを肯定する素晴らしいショットの数々を見れば、擁護のための饒舌な説明などはいらないし、現に映画はそれを拒否していることに気づくだろう。
 我々はいつか映画館を出なければならない。そして映像の生き生きとした記憶は急速に風化し、それを思い出すために我々は何度も劇場に足を運ぶだろう。この文章が書かれるにあたっても、健忘症とそれがもたらす「映画は美しい」、「久保史緒里は美しい」などという絶望的な同語反復に抗うために何度も忘却と想起が繰り返された。しかし、それでいいのである。忘却は人間に許された特権的な身振りであり、今回は主演女優が某アイドルグループのメンバーであるということさえ忘れたとしても差し障りはあるまい。久保史緒里という名を与えられた映画の記憶装置が、忘却と想起を繰り返す輪廻転生の非情なメカニズムを超えて、スクリーンの上で尾道の記憶を忘れずにいてくれるのだから。

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