タラコフスキー

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久保史緒里とは、自身が映画であることを忘れ、今それを思い出そうとする日本映画が身に纏った世を忍ぶ仮の名前にほかならないー『左様なら今晩は』試論

Ⅰ 二重の装置  『左様なら今晩は』は美しい映画だ。そして本作の久保史緒里は美しい。実はこの二つは同じことである。映画が映画であることの限界を超えようとする美しさを、久保史緒里は夕日のなかで純白のワンピースをたなびかせ、幽霊としての自分がもうそのかりそめの姿をこの世では保てないことを自覚しつつ、萩原利久と抱擁し、その晩にはさようならも言えずに、ただ眠る男に接吻をして消え去るほかない地縛霊として体現しているからだ。映画が映画であることの限界とは、フィルムはおろか、我々はスクリ

    久保史緒里とは、自身が映画であることを忘れ、今それを思い出そうとする日本映画が身に纏った世を忍ぶ仮の名前にほかならないー『左様なら今晩は』試論