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小さい時を振り返って

・2~30代は苦労が多かった

幼少期を振り返って思うけど、90年代はけっこう自死で亡くなっていく方も多くて、すさんだ時代だったんだなあと思う。
同世代の人の特徴でいうと、ちょうどゆとり世代の一つ上くらいの世代になって、名前のない世代とかキレる世代とかいわれて、けっこう就職超氷河期の末尾に位置づけられる感じで、会社勤めする世代なら、企業からも、世間の大人からも冷遇された、おそらく最後の世代だと思う。
そして周囲を見渡すと、けっこうな昭和のスターがまだまだ元気で社会の舵取りをしている時代で、人口も多く、いまのような少子化がつき詰まって、男性の3割くらいが未婚のまま過ごしていくのが常態化するようになった時代とは違って、まだまだ「結婚するのが当たり前」みたいな風潮が残っていた時代だった。
ゆとり世代になると、徐々に社会の縮小化というか、少子高齢化が顕著になって、就職率も改善し、上の世代が亡くなっていく方が増えていって、自分たちが堂々と社会の主役になっていく。社会の新陳代謝みたいなのが起こって、若い世代(ゆとり以降のさとりやZ世代~etc)が中心になっていく、そしてかつてがんばって社会を主導していた昭和・平成のスターが高齢化になっていく時代に突入している。
そうやっていく中で、自分もそこそこ年をとって、40代も超えていったけど、そういう今思うのは、やっぱり若い頃は苦労が多かったなということ。時代の風も強かったし、環境的なところでいろんな意味で“狭間”の時代に生まれたなと思う。
そういう環境の中で生活を送っていくときに、どうにも周囲から求められることが多くて、ナイーブな感性をもったまま、周囲のものすごくマッチョな、「大人はこうあるべきなんだ、社会の中で20代は30代はこうあるべきなんだ」というような風あたりに、どうやっても逆らえない。
そういう無力感を感じながら、企業の中でがんばってみようか、どうしようかと悩みながらネットが出てきて、自分の薄弱な個性や感覚・感情を、なんとか社会の中で活かしていけないかともがきながら、うめきながら、作り笑いを浮かべて、過ごしていく。いまのように、「自己肯定感」とか「好きなことで生きていく」とかいう言葉が流行る前の、日常。そういう中にあって、周囲が求めてくる「~しなければならない」に抗って、なんとか「~したい」というもの、mustではなく“want”を活かしながら生きていく術を、身につけていかないといけない時代だった。

・自分の欲求を言葉にできない子ども


そういう中で、自分的には、割と寡黙なところもあり、なかなか周囲の中で自分の欲していること、欲求、~したいということを言葉に出して外に出して、言えないような子どもだった。そこで心理学とかに興味を持って大学で学ぶんだけど、自分ほど、「~しなければならない」という義務感と、「~したい」という感情がズレている子どももいなかったと思う。
そして言葉少なに、ひそかに怒りや、嫉妬心を自分の内側に飼い慣らしている。どこかで自分の正直な気持ちを、外に出す。そのことは自分が自分で、自分の中にある「悪いところ」を認めることであり、所詮、自分も一人の人間なんだと認めることでもあると思う。でもそのことができず、自分を極度に善人の側において、自分の悪を責める気持ちの強い人だったから、なかなか自分の中にある嘘、ごまかしや怒り、正当化する気持ちなんかを言葉にする以前に認めることができなかった。自分で自分を許せずに、自己嫌悪=自己否定の強い子どもだった。そういう習慣が最近まで続いていました。
正直に話さないと何がいけないかというと、自分に嘘をついていくことなんですよね。そして自分で自分がわからなくなる。自己喪失とでもいうんでしょうか。そのため一時期はやった「自分探し」みたいなものを、時間をかけてやる・・・。そういう時期が続いたことがありました。
自分の中には、善人の部分だけではない、悪いところもある。そのどちらもひっくるめて自分なんだ。そういうことに気づければいいんだけど、自分を極端に善人のところにおいて、自分の悪を責めている人ほど、かたて落ちというか、自分のことが分からない。そして周囲にあわせて、「いい子」のフリをし続ける。いわゆる聞き分けのよい、善人のフリをし続けていくのですね。自分たちの生きた時代は、そういういい子が突然キレて、爆発するみたいなことが問題になりましたが、人間誰しも、多少は悪い部分をもっているんじゃないでしょうか。そういうことを分かることが、自分を知ることに繋がり、大人になることなのですね。

・年齢を重ねてみてわかったこと

じゃあ、そういう自分の欲求を言葉にできない子どもはどうしたらよいのでしょうか。
自分の場合、年齢を重なることで自然と自分のことがわかるようになりました。40代に入り、おっさん的な年齢になってしまいましたが、そういう年になると、自分に対して“許し”みたいなものがでてきて、年を重ねてきたのだからもう少し自分の気持ちに正直になってもいいかな、みたいな気持ちになるところがあります。以前はmust=~しなければ!的な心境が強くて、ある種そこにとらわれて、絵を描くならとてつもない売り上げや評価を求めて突っ走る・・・。そういう2~30代だったわけですが、そんなものどうでもいいや、と。それよりも、まずは足下をよく見て、自分のできること、そこそこ及第点のクオリティでもよい、とりあえず作品を出そうみたいな気持ちになれてきます。それがそういう強く「~しなければならない」という気持ちにとらわれてきた人ほど、そういう自分自身に対する“許し”って大きいんですよね。生きるのがとてもラクになります。
もう一つは、小説を書いてみることでしょうか。自分はもともと絵を中心に描いている人でした。そしてそうしてるとブログに文章をバーッとつづりたくなるので、その気持ちにまかせて、情動を文字にぶつけるようにして書いていた。しかしまだ、絵>文章でした。それが40を過ぎた頃から、小説が書きたくなり、文章を中心に一年近く小説を書く時間に充てて、20万字くらいの長編を一つ上梓しました。そうすると、驚くほどに、自分のことがわかるようになったのですね。発話が苦手という方は、小説表現で、その中に出てくる登場人物を分析することで、自分の偽らざる本心にアクセスできることがあります。そういうのをやってみるといいと思います。

・自分を大事に、感情を大事にして生きる

そうすると、ああ自分はmustとwant、いわゆる「~しなければならない」と「~したい」が大きく隔たっている。そして「~したい」という気持ちの方に、自分の偽らざる本心が眠っている。そういうことがわかっていきます。それを知るためには、最近よく言われていることですが、好きなことをやることが大事ですね。やりたいことを時間を取ってやってみる。その中で、現実の中では発話が少なくて、なかなか自分の欲求を外に出して受け止めてもらったことのない人でも、自分の本心が見えてきます。
そのキッカケとなるのが、小説を書いてみることです。短編でもいいので。創作の中では、自分の偽らざる本心がいろんなキャラクターに分有される形ででてきます。そこを「このキャラはどういう気持ちなんだろう」と分析することで、いろんな状況の下、その性格のキャラに託された“自分の気持ち”が見えてきます。
もう一つは、「とりあえず生きてみること」です。若いうち=2~30代はわからないことでも40代に入るとスルスルと芋づる式に分かることが増えてきます。そんなものかなあと思うかも知れませんが、肉体的な加齢にともなって、自分の中である種の“許し”がでてきます。人はどうとでもいえばいい、でも自分はこうなんだ。そういうものが見えてくることがあります。おそらく自分もやがて死んでいくんだ、という無常(死)が見えてくるからでしょう。ともかく、そういうところから、自分の気持ちにもっと正直に生きよう、という内的な“許し”が芽生えてくる。そういう心境になることがあります。そこまで生きてみればいいということですね。自分の人生を振り返って、これまでの人生は、自分の本心とは真逆の方向に進んできた。そういう感慨もあります。それが善かったのか悪かったのかよくわかりませんが、いい面もあったように思います。しかし、あとの人生は、できるだけ自分をないがしろにしないように、自分自身(の感情)を大切にして、生きてみようと思っています。

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