見出し画像

空と人間のはなし

空を見たときに、
別に特別な状況じゃなくて、日常生活でふとしたとき、空を見上げて、という話です。

今日みたいな、ちょっと寒い晴れた日はとてもきれいに見えるわけで。
青空も、夜空も。

気温が低い冬は、空気の対流活動が少ないために澄んで見えるらしいです。知らんけど。

今日は調子がよかったから、調子乗って、青空見ながら、人間が空を飛びたくなった気持ち分かるなぁとか、それっぽいこと思いながら歩いてて。

ただ、まあ現代の街中の大半では、空を見上げたところで、建物や電線にさえぎられるじゃないですか。

都会の空はせまい、なんて言いますが、やっぱり、こういった障壁は邪魔だな、とも思ったりするわけで。

でもでも、いまこれをnoteに書いている私は、その電線の恩恵を存分に受けていて。
日没もとっくに過ぎた月明りもそんなに明るくない日に、室内で、電気をつけて、灯油ストーブで暖まりながら、ノートパソコンに向かってこれを書いているわけですね。

街中で空を見上げるときは、言うてしまえば邪魔もの扱いしていたもののおかげで生きているわけで。
だから、なんか、都合ええように生きてるな、と思った。
という話です。

人工物って、自然と比較したときに、どことなく劣勢におかれるきがするんですけど、なんとなく、なんとなくですが。

もちろん場合によってはゴリゴリの人工物が礼賛されることもあって、
例えば、木を切り倒して更地にした土地につくった遊園地の中に咲いている花、とか?
別に嫌いじゃないんですよ、こういうのも。めっちゃ世界観作りこまれてすごいなぁって素直に楽しみます。それができるくらいには大人です。

だけど、それらは、空を見上げるときに邪魔をしてくる人工物たちは、私たちの生活にもはや不可欠なものであって、恩恵を受けてて、でもどことなくマイナスの価値観を背負わされているな、と。

都合いい人間です、ほんとうに。
2回言ってしまうくらいには、ほんとうに。

ただ、感覚的に人工物と自然のものの間に、古代の人間がつくった遺跡とかがあるのかな、と勝手におもっていて。

遺跡も、辞書的な意味ではごりごりに人工物なのですが、遺跡にコケとか生えていたら、なんか自然だなと思うし。作ったものが遺跡と呼ばれるくらい前の人間たちは、いまよりちょっとだけ自然と近かったというのもあるのかもしれないし。

と、ここまで考えると。
200年300年1000年たてば、現代の人工物たちも遺跡になって、自然になるかもしれなくて。

とおもったら、、、、、思っただけです。

というかそもそも、人工物と自然という分類のしかた自体が人間のエゴなんですよね。
人間は自然、というか自然法則の中でしか生きられないから。

空の話からえらいところまで飛躍しましたが、
最後にええかんじでまとめてみると、

空はいつでも人間のうえにあって、人間以外の自然と人間をつなげてくれて、人間が奢り高ぶるのを諭してくれるな、

みたいな?





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?