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【寄席エッセイ】フォローバックって常用単語なの?

夏。令和の夏は暑い。

フォロバ。アミバみてえだな…いや、アミバわかんない人の方が…多いのか…


昨今の情報源はスマホで偶々目を引くかどうか。テレビはあまり見ない。


そういう生き方をしていると、世間の情報にとにかく疎くなる。まぁそこまで熱を入れられるものがそこにないというだけだから私自身はたいして困らないん。





困らないんと言っておきながら、新しく入ってくる社員たちとの会話は困難を極めている。




彼らの情報は多種多様すぎる。一昔前だったら見ているものが同じで、そこからどういう意見がでるか、どんな風に感じたかでわっせわっせ会話ができたものが、もう見ているものが全然違うからその番組やらイベントやらに出ている登場人物がわっかんねぇのだ。



一応こちらも会話の空気をつぶしてはいけないと思って何となく話を合わせてはいるものの、その場で「勝浦さんはどう思います?」なんて振りが来てしまったら無知がばれてしまう。あれは嫌だねぇ。



勿論そこで「己が無知だという事を知らないっていう事が恥ずべきことだからね?わかる?」という古代ギリシャ方面の会話に引き込むことも可能ではあるが、正直その場の空気は死に絶えるだろう。教科書で習うような哲学の話で職場に花は咲かない為、この対応はできない。すぐ哲学の話ばっかりするから「哲ハラ」と訴えられかねない。



だもんで話は聞きつつも質問されないように存在をぼんやりさせるという、黒子のバスケもビックリのミスディレクションを連発するのが若者との会話ってやつなんすわ。ホント大変よねぇ。


この前も「リアタイ」って言われて、なんのこっちゃでしたわ。私がリアル退職って言った時の後輩の顔!あの顔!一生忘れられないぜ。答えは「リアルタイムで」って事らしいんだけど、正直意味が分からなかったのよ。何?リアルタイムって?野球生中継って事?はぁ!?結局分かんねぇんですけどぉ!!!?



とはいえ、そういう「分かんない」事に関して、まぁいいやとなって調べない事柄がもう本当に山のように背中側に積んでいるのも事実。知的好奇心は年々減り、年末紅白歌合戦を眺めながら「この人知らない」「このおねーちゃんしらない」「栄光のかけ橋は知ってる」・・・そんな状態になってしまうのだ。興味のない事にも少しは目を向ける必要があるような気はしている。





フォローバック。





なんだこれは。なんなんだこいつは。



フォローバック。100%。



「・・・果物・・・って事!?」



ちいかわのハチワレみたいな気持ちになるが、ああいった世界観が通用するのはイマジネーションの世界だけである。ここは現実。そうリアタイ。リアタイなんだよ(使い方が違う気がするけど)


100パーと後ろに付属するからと言ってそれがそれが果実であるとは限らない。フォローも分かるし、バックも・・・うん。まぁ分かるよ。おおよその意味合いはフォロー戻し。つまりフォローされたら、アタシもフォローするよ。って意味なんだろう。ちゃんと英語勉強してて良かったワン。言葉のニュアンスでしか判断してないと、たまに正確な意味答えられなくて困るのよね。ホント毎日そんなんばっかだよ。



ただまぁ。


フォローバック100%って、なんだ。コレをなんだ?50%にするとどうなるんだ?二分の一の確率でフォローされない。フォローされないとなんだ?なんか困るのか!?困る世界線なのか?ここは。



noteの名前にこのフレッシュジュースみたいな100%を掲げている人がたまにいる。フォローする人が多い事は良い事なのか。拍がつく、みたいな感じなのか。




フォローという数字。いいねという数字。
その数字の持つ影響力。正の力。
小さい時から友達100人も作れない私はそういう力を持つことができない人間だった。


片手で数えるだけの親友と、箸を転がして今でも爆笑している。
家族の時間を大切にしようと思って生きている。
過去の繋がりはどこまでが繋がりなのか。
トータルで言えば、沢山の人と会ってきてはいるが、それらの「経験」を元に支えられているのであって、その人たちが今自分を囲って支えているわけでは無い。



この数字に意味がある。という国で育ってきておらず。その数字の凄さに気づけない私からすると。そこの数字が10だろうと、10000000だろうと。発信の内容に意味があるのであって。そこの数字はあくまでそこの数であって。


その数字が「私の大好きな人達のフォロー10」と「私が過去会ってきた2度と遭遇したくない人10」だともう重みが全然違うのに。
画面で眺める数字は「10」なのだ。



その数字の大きさや小ささは正直よくわかっていない。フォローという数字が増える。いいねという数字が増える。それも一つの目安だろう。


でもその数字は全員の目指す数字ではないと思っている。


だからまぁ「どっちでもいい」



私はくだらない文章を書きたい。その数字が増えるか減るかはどうでも良い。
それがモチベーションになる人もいると思うけど。
誰かに認められることは多くの人に見てもらえることなのかもしれない。
でも誰かに面白いと言ってもらえるかどうかとはまた違う気がしている。

もちろん、沢山の人の目に触れる事が出来ればその機会も増えるのかもしれない。沢山の会社が広告費にものすごいお金をつぎ込むんだからそれは正解だと思う。


思うのだけど、私はフォローが返してほしくて、フォローするんじゃなくて。
なんか理由が…うん、そういう理由でフォローするというわけでも無くて。


本屋を作っているような感覚なのだ。


沢山の人をフォローして、私のnoteという空間に変な本屋を作っておきたい。
沢山の趣味が合って、沢山の考え方があって、沢山の悔しさや、怒りや、悲しみや、喜びが。ずらーっと並んでいる。


特定の本を読むのもいいけど。それは現実世界でさんざんやってるから。


検索した時に上位にヒットしない。私に何故かヒットする。


そんなものをふと眺められそうで面白そうだから。



私はフォローをバンバンバンバンしている。だって色んな人いるんだもん。読む人もいれば読まない人もいるよ。だからお礼を言われるのはなんか違う気がしている。


その人たちが私のnoteを読むのかどうか。それは全然分からない。
人となりを見たら読んでほしい人も、読んでほしくない人もいるかもしれない。



私は「なんか書きたい」のだ。なんか書きたいから、noteをはじめた。
そのなんかに1人でも「馬鹿な事書いてるなぁ・・・」と思って肩の力が抜けたらガッツポーズだ。読んでくれてありがとうございますなのだ。




mixiみたいな、コミュニティで書くわけでもなく。
xみたいなところで、散らすわけでもなく。
インスタみたいな、キラキラした場所じゃなくて。




ただ頭の中の「あぁ!コレ!しょーもねえ!」を文字にしてスッキリしたいのだ。そんな仕事についてるわけでもない。そんな事でお金を稼ぐでもない。そんなことで独り立ちしたいわけでもない。



その頭の中を文字にしてあっという間に時間が過ぎる時。
たまらなく楽しいのだ。



だから。フォローってそんなに難しい話じゃないような気がしており。
というか、フォロー=記事を楽しんでくれたというわけでもないのだから。100%でなくても・・・30%ぐらいでもいいのでは・・・アミバ30%みたいなね。ほぼトキ。概ねトキィ!!!



なんて考えてはみるものの。人によってその数字が持つ価値は全然違う。
企業がやってたらフォローする人が多い方がいいのだろう。勿論宣伝したい人がいればフォローの母数は多い方がいいのだろう。
でもその数字が持つ意味や力はあらゆる角度から、多様な見方をしていいもの。そんななんだって考えていた。


フォロー減ってもいいじゃない。そこに何かすることを楽しめれば。
フォロー増えなくってもいいじゃない。数字を増やすゲームをしているわけじゃないんだから。


コレを僻んでるっていう見方じゃなく大声で叫ぶ方法って。ねえのか。

ねえよな・・・

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