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【連載小説】Especial Pink《1》『トラウマ』

#創作大賞2024
#恋愛小説部門

 あらすじ
 
 地元の大学に入学した三田優生みたゆうきは5歳の頃の出来事がきっかけで、未だに低い自己評価を引きずっている。
 そんな彼女の大学生活といえば、天然(?)マウント女子の増子千春に振り回されたり、密かに憧れていた男子の安藤雅美にあらぬ誤解を受けたりと、散々な人間関係のオンパレードだ。そんな中で現れたのは、紫頭の風変わりなイケメン成田久。彼は何故か優生に白羽の矢を立て、演劇部へとスカウトする。演劇経験ゼロの優生だったが、部員たちと舞台を作り上げていくうちに、自分への自信も少しずつ再構築してゆく……。

 もしも私に時空を飛び越える力があるのなら、あの時泣きじゃくっていた5歳の自分をそっと抱き締めてあげたい。

 そして、こんな言葉を掛けてあげよう。

「『自分だけの《色》を見つけた女の子のおはなし』は、今、あなたが流している涙から始まっているんだよ……」と。
   

     《1》


 (今日は……今日こそは、みんなの前でハッキリ言うんだ!!)

 突然、何かが降りてきたような感覚を私は今でも覚えている。

 それは、当時の遊び仲間だったユタカの家で遊んでいる最中のことだった。みんなとボードゲームに興じるフリをしながら、私は密かにある決心をしていた。あの頃の自分にとっては物凄く大きな決心を。

 突然……とは言ったものの、それは単なる『思いつき』ではなく、私がずっと考えていたことだ。   

 『何故この日だったのか』という理由を思い出すことはできないが、おそらく我慢が限界に達してしまったのだろう。心の中に設置してある子供サイズのビーカーで、流れ続ける水を受け止めきれるワケがない。

「みんな! ゲームは1回お休みして、アイス食べようか?」

「やった! 花束アイスだ!!」

 ユタカの家で遊んでいると、彼のお母さんは高確率で『花束アイス』をおやつに出してくれた。

 ちなみに『花束アイス』は、正式な商品名ではない。竹ひごに刺さっている小さなアイスキャンディを1つにまとめたさま・・が、花束に似ていることから、私たちが勝手にそう呼んでいただけだ。

 アイスキャンディのカラーは5色。青、緑、黄色に紫。そしてピンク……。

「はい、アキホちゃん」

 ユタカは母親からアイスの束を受け取ると、ピンクのアイスを当たり前のようにアキホちゃんに渡そうとした。

 (……………………)



 
 当時、社宅に住んでいた私は、同じ環境の下で出来た友達と、毎日のように遊んでいた。
 
 遊び仲間は私、アキホちゃん、ユタカ、ヒトシ、カズヒロの5人。

 時々人数が変わることはあったが、いつも一緒に行動していたのはこのメンバーだ。一見、男女を意識することなく、無邪気に遊んでいるように見えていた5人組だったが、私は女の子としてのプライドを、彼らにちょくちょく削り取られていた。

 所詮、無邪気は邪気の亜種なのだ。

 そう……『お姫さま』はアキホちゃん1人。

 彼女の『第一下僕』(本人は王子様と思っていたかもしれないが)は『将来はアキホちゃんと結婚する』と公言していたユタカ。そしてユタカほどではなかったが、ヒトシとカズヒロも私とアキホちゃんを《無邪気に》区別し、『第二・第三下僕』を立派に務め上げていた。

 私といえば、その状況をただただ受け入れるだけ……。



「アキホはね、ピンクがすきなの」

 これがアキホちゃんの口癖だった。

 そんな彼女だから洋服や身に付ける小物はピンク系が多かったと記憶している。色白のロングヘアー……私とは真逆のルックスを持っているアキホちゃんに、それらはよく似合っていた。

 この年代の女の子に好きな色を尋ねれば、『ピンク!』と答える子は多いだろう。当時の私もその1人だった。しかし仲間内でこの色を所有する権利は『お姫さま』のみ。この『花束アイス』のようにピンクが1つしか入っていないモノに関しては、暗黙でアキホちゃんの手に渡っていた。

 (私も花束アイスのピンクが欲しい)

 この欲求は、ピンクのアイスそのもの・・・・ではなく、『このメンバー内で手にすること』に重きを置いていた。自分の親にお願いすれば、アイスなんて簡単に買ってもらえる。しかしそれでは意味がないのだ。

 そんな私はドキドキしながら…しかし力強く言葉を発した。

「アキホちゃん! そのピンクのアイス、今日はユウにちょうだい!!」

     《2》

 
 
 保健センターが入っている棟は、大学の外れに位置している。そこへわざわざ出向いたにも関わらず、私の用事は数分で済んでしまった。

「あなたが三田……さん? えっと情報科1年の………」

 私が保険室に入るやいなや、目を丸くした担当医は、手元にある検診結果表をもう一度見直した。そして小さな声で「あっ…」と気まずそうな声を漏らす。

「……三田さん、実は私、あなたを男子学生と勘違いしちゃったの。女の子なら問題はなかったんだよね。ごめんなさい。わざわざ来てくれてありがとう」

「…………」

 私の名前は『優生』と書いて『ゆうき』と読む。過去には『まさお』と間違えられたことがあったし、『ゆうき』と読まれても字面で男子と判断されたこともあった。だから今回の件を、私はそこまで驚いてはいない。

 この紛らわしい読み方の名前には、『誰かに優しく出来る、そして誰かに優しくされて生きる女の子であって欲しい』という両親の願いが込められている。由来的には気に入っているが、残念ながら自分が名前のような人生を歩んでこれたとは思っていない。

 また溜め息が出た。

 その溜め息と共に、5歳の記憶が再び甦ってきたのだ。

 (……またか)

 かなりの月日が流れているにも関わらず、私はあの出来事を『黒歴史』という名で整理することが出来ていない。

 あの時……ありったけの勇気を振り絞って自分の気持ちを表明した私に待っていたのは、ユタカたちによる嵐のような罵詈雑言だった。

 己の立場をわきまえずに要求を強引に主張すれば、その愚か者には必ず罰が下る。
 
 5歳の私は、それを嫌というほど思い知らされてしまったのだ。

 『身の程知らず』なんて言葉を学校で習う前に。


「それはアキホちゃんのアイスだよね!?」
「アキホちゃんがかわいそう!」
「ユウちゃんの『どろぼう』!」
「いや、『ごうとう』だ!」
「ご・う・と・う!! ご・う・と・う!!」
「タイホだ! タイホ!」

 驚いたユタカのお母さんは、すぐに男子たちを止めてくれたが、時は既に遅かった。火が着いたように泣き出した私の感情は、咽の奥を何度も痙攣させ、自分でもコントロールが不可能になってしまったのだ。

 この後のことはあまり覚えていない。あの出来事以降、みんなと普通に遊んでいたかどうかも……。

「…………」

 私たち一家はその後、現在も住んでいる場所へと引っ越しを済ませている。社宅の解体が決まったことにより、全員が散り散りになったと母が言っていた。

 もしもアキホちゃんたちと一緒に小中学生時代を過ごしていたら、私たち5人の関係性は、あのまま変わらなかったのだろうか? 

 あの時に引っ越せて良かった……と私は心の底から思っている。『幼馴染み』という名前のシチュエーションに、私は何の未練もない。

 こうして私はアキホちゃんたちと離れることができたのだが、進学や進級で環境が変わる度に、別の『アキホちゃん』たちが私の前に現れていた。

 まるであの時の罰がまだ続いているかのようだ。

「…………はぁ」

 再びついた溜め息と共に、LINEの通知オンがスマホから響く。画面を確認するとグループLINEの見慣れたアイコンが一番上に表示されていた。

ちはるん『話は終わった? みんなと学食で待ってるよ』

 「……待ってなくていいのに」

 駄々漏れした心の言葉とは裏腹に、私は『今行く!』という言葉が添えてあるネコのスタンプを送った。

 さっさと『接待』を済ませて、早く家に帰ろう……と思いながら。

      《3》

 
 
 夕方の学食は思っていたよりも学生たちで賑わっていた。

「ユーキちゃーん! こっちだよぉぉ」

 女の子らしいふんわりとした声が私を呼んだ。その方向を辿ると3人の友人がテーブル席に座っているのが見える。そして声の主である増子千春は私に向かって嬉しそうに手を振っていた。

 (………あっ)

 私の視線は千春ではなく、隣のテーブルに席を取っている1人の男子学生に固定された。

 (『紫さん』だ!!)

 髪の色が紫色の上級生……私は彼をこっそり『紫さん』と呼んでいた。

 大学生が髪を染めるなんて、今時珍しくも何ともないけれど、ブリーチしてから染めたであろう鮮やかな紫色は、服装髪型が自由な大学構内でもかなり目立っている。そんな彼の服装は、私が知る限り黒のスウェットか大学指定のジャージのどちらかで、丸い大きなサングラスをトレードマークよろしく常に愛用していた。

 『紫さん』はいつもと変わらない出で立ちで、熱心に何かの本を読んでいる。

 (演劇の台本かな?)

 彼は演劇部に所属している……とは言っても、私たちは知り合いでも何でもないし、実は本名すら知らない。4月に行われた新入生向けのサークル紹介で私が一方的に彼の存在を知っただけだ。

 『紫さん』の横を通り過ぎた私は、友人たちが待つ席に座り、一応「お待たせ」という言葉を口にした。

「もぉ、ユーキちゃん遅いよ」

 そう言って口をへの字にする千春。彼女が触っているサラサラの長い髪は、日に透けるとブラウンからピンクに変わったように見えた。

「…………」

 保健室の用事は3分以内でケリがついたし、そもそも『待っていてくれ』と言った覚えはない。自分なら間違っても言わないであろう言葉をいとも簡単に口にする千春は、間違いなく数代目の『アキホちゃん』だ。

 「ねぇ千春、私『待っていて』って言ったっけ?」

 流石にムッとした私はソフトに反論する。

「ううん。それは言っていないけど、ユーキちゃんに用事があったから待っていたの」

「用事?」

 嫌な予感しかしない。

「ほら、今週の文学の課題で、海外文学の感想文があったでしょ? チハルね、本を選んで一応書いたんだけど全然自信なくて……。だからネ、ユーキちゃんがササササーって読んで、おかしい所があったら、チャッチャッチャッと直して欲しいなーって」

「……………………はっ?」


 (『ササササー』!? そして『チャッチャッチャッ』!?)

 私は心の中で大いに呆れた。

「ユーキちゃん、お願い♥️ だってユーキちゃんってアタマいいし、読書だって好きじゃん?」

「………………」

 どうして彼女は、他人にこんなバカなお願いをすることが出来るのだろう?

 私は他人にお願いをすることが苦手だ。自分で解決できる可能性が少しでもあるならば、間違いなくそちらの方に賭ける。稀に起こる『どうしても無理』という状況にぶつかったとしても、私は『断られること前提』で声をかけ、更に相手が『断りやすい』ような言葉選びを心がけている。

 5歳の頃とは違い、流石に暴言を吐かれることはないと思うが、やはり気まずい空気は出来るだけ避けたいと思ってしまうのだ。

「ねっ? ユーキちゃん」

「ダメだよ。それは千春の為にならない。それに私だって忙しいの」 

 私は先ほどよりも口調をやや強めに変えて、キッパリと言い放つ。

「だってぇこの本、つまらなかったんだもん。ユーキちゃん、チハルの一生のお願いだからっ!! ねっ?」

「………………」

 それならば、別の海外文学の本を選び直せばいい。課題のためにピックアップされたタイトルは他にもあり、そこから1冊を選べばいいのだから。ちなみに千春がしかめっ面をしながら私に見せた本は、高校時代に読了しており、私の中では、かなり面白かったという感想に振り分けられている。

「優生ぃ、千春のお願い聞いてあげなよ? だってこの子、オッケーするまで結局粘るじゃん」

 隣のイスに座っている中村梨花子が苦笑いしながら口を挟む。

「そうそう。優生、オッケーした方が早いって」

 向かい側に位置した西山深雪も、流れるように加勢してきた。

「…………」

 2人とも自覚しているのだろうか。私のことを千春より『下』に見ていなければ、そんなセリフを言えるワケがない……ということを。

「…………」

 そして私は、断られたことで気まずくなるのと同じくらい、断わったことで空気を悪くするのも苦手だった。

 仕方なく観念する。

「分かったよ。でも最低限のことしかしないし、それに、こんなことはこれで最後だからね」

「うんっ! ありがとうユーキちゃん。それからリカちゃんもミユキちゃんも。なんかさ、チハルってお姉ちゃんが3人いるみたい」

「…………」

 『妹キャラ』は天然なのか計算なのか、そして梨花子と深雪は実際、どう思っているのか……。

「うんうん、ホント千春は手の掛かる妹だ」

 梨花子がそう言って、笑いながら自分の両腕を組む。調子に乗ったチハルは「やだぁ」と言いながら満足そうな表情を見せると、私に向かって一言言い放った。

「あ、ユーキちゃんは、お姉ちゃんじゃなくて『お母さん』だね。チハルの世話をいっぱい焼いてくれるし」

「えっ?」

 どうして『こちらから』世話をしているような状況にすり替えられるのだろう。それに同級生から『お母さん』なんて言われて、私が喜ぶと思っているのか……。

「千春、流石にそれは優生に失礼だよ。同級生に向かってさ」

「えぇ? そんなつもりないよ。だってユーキちゃん、いっぱいいっぱい頼りになるんだもん」

「…………」

 その時だった。

 隣のテーブルから、ガタンッ!!と乱暴にイスを引く音がして、『紫さん』が立ち上がったのは。

 (……?)

 サングラス越しなので断言はできないが、彼は私たちの席にチラッと目線を置いた……ように見えた。そして首傾げたような仕草をして、そのまま出入口に向かって去ってゆく……。


「…………」

 (『紫さん』結構イケメンだったよね?)

 彼の姿を近くで見た私は、何故かドキドキしてしまった。

「……雰囲気ヤバイくない? あの『エンゲキブ』」

 ボリュームを落とてはいるものの、梨花子はバカにしたような口調でクスクスと笑い出す。

 (…………えっ?)

「うんうん、あの時のサークル紹介もマジでヤバかったもん。部活に参加しているヤツ、全員イカれてるんじゃない?」

「少なくと入部する女の子はいなさそう。そんなんじゃ『ロミオとジュリエット』できないよねwww」

 そして千春は声を出して笑った。

 正直、低レベルな発言だ。『演劇』と『ロミオとジュリエット』を安直に結びつけ、更にそれをドヤ顔で口にするのは、演劇どころかシェークスピアも分かっていません……と言っているものだろう。 

 入学して約2ヶ月。千春とは出席番号が前後だったという縁で、一緒に行動するようになったが、私は彼女に対するストレスを既に自覚していた。

「そうそう優生、保健センターからの用事って何だったの? 何かの項目に引っ掛かったってことでしょ?」

 深雪が思い出したように口を開く。

「それはすぐに解決した。そもそも保健医が私の名前を男子と勘違いしたのが『誤診』の原因だから」

「あぁ、なるほ……」

「やだぁ! ユーキちゃん、そうだっんだぁ!? なんか滅茶苦茶ウケるんだけどwww」
  
 梨花子が言葉を発している最中に千春が甲高い声を重ねる。そしてケタケタと笑いながら身体を揺らした。

「…………」

 そこまで面白いのだろうか? 

 ご丁寧に口元だけは押さえている千春を私は冷めた目で見つめた。彼女が笑えば笑うほど自分の体温が下がっていく気がする。

「オイオイ増子さん、なんか笑い声が学食中に響いているんだけど?」

「えっ?」

 私の背後から突然聞こえてきた男子の声によって、彼女の笑い声がやっと止まった。千春はその声の主を見て嬉しそうな顔を見せたが、私は正反対の反応しか出来ない。

 そして私の周辺にだけ、気まずいオーラが漂い始めた。

「ヤッホー安藤くん! チハルったらそんなにうるさかったぁ?」

 そこにいたのは同じ学科の安藤雅美だった。彼は「うん、うるさいうるさい」と言いながらも彼女のアタマに優しく右手を乗せる。

「安藤くん、ひどーい」

 勿論、千春の言葉と表情は一致していない。

「こらっ、そこの美男美女! 公共の場で勝手に2人の世界を作らないで。目のやり場に困っちゃうでしょ?」

 梨花子が茶化す。

「だからぁ……リカちゃん、『私たち』そんなんじゃないって。ねっ? 安藤くん」

「そうそう。増子さんが一人で爆笑していたから、つい……」

「………………」

 確かにこの2人はまだ付き合っていないが、恋人同士になるのは時間の問題だ。彼らはきっと、今しかない『トモダチ』と『コイビト』の中間地点の甘さに心地よく浸っているのだろう。

「で、増子さんは、何でそこまで爆笑していたの?」

「ん? えーとね、ユーキちゃんが面白かったから、つい……。あのね、保健の先生がユーキちゃんの名前だけを見て、男子だと勘違いしたんだってwww ねぇ、可笑しくない?」
 
 (千春っっ!!)

 心の準備が何一つない中、千春が先ほどの話題を安藤くんに振ってしまったので、私の全身は固くなってしまった。

 本当に……本当にやめてほしい!

 だって彼は私のことが嫌いなのだ!

 案の定、安藤くんは私を一瞥しただけで、「ふ~ん」と興味のない声を出す。そして「じゃーな」と言ってその場から立ち去った。

「…………」

 もしも

 彼が口角が少しでも上がってくれたのなら、私のメンタルは暫くの間安定したかもしれない。

「ふと思ったんだけど、安藤くんって、ユーキちゃんのこと苦手なのかな? あ、別に深い意味はなくてね……」

 千春が私に最後のトドメを刺す。私は精一杯のプライドを振り絞ってポーカーフェイスを維持しながら「そうかもね」と答えた。

「だよね? だってユーキちゃんも安藤くんのコト好きじゃないもんね?」

 千春の薄くてキレイな形の唇の端が、左右斜め上に思い切り上がった。 



 
 中学でも高校でも、私が気づいた頃にはクラスの中心グループが既に出来上がっていた。彼らの表情は皆、自信に満ち溢れ、大なり小なりクラスに影響を与えていたと記憶している。

 安藤くんは現在いまそんな役割を担っている一人……と言っていいだろう。

 容姿の良さも理由だとは思うが、大事なのはやはり性格だ。明るくて話し上手の彼の周りには、自然に人が集まっていた。

 安藤くんに異性としての好意を持っているのは、絶対に千春だけではないだろう。

 私は……

 眩しいものを見るような目で安藤くんを追っていたのは事実だ。しかし、私は彼との距離を縮めたいとは全く思っていなかった。むしろ拒否したっていい。

 世界が違いすぎる。

 身分不相応なものを求めればバチが当たるから、私はただ見ているだけで充分だった。

 だから、仲良くなったばかりの千春から「ねぇ、ユーキちゃん、安藤くんってカッコいいと思わない?」と言われた時、私の口は反射的に彼を遠ざけてしまったのだ。

「そうかな? 彼、なんかチャラチャラしていない?」と。

 それは、私の気持ちがバレない為についた苦し紛れの嘘だった。

 
 しかし

「ねぇ三田さん、ちょっと聞きたいんだけど……」

 数日後、私は廊下で鉢合わせた彼に、強い口調で話しかけられた。

「……俺がチャラチャラしているとか軽いとか陰で言ってるみたいだけど、俺、三田さんに何か悪いことしたっけ?」

「えっ?」

 私は全身が熱くなり、頭が混乱した。そのぐちゃぐちゃになった思考で、今の状況を整理しようと必死に考えた。

 千春だ!!  

 あの子が告げ口したんだ!!

「…………」

 しかしセリフは誇張されていたものの、私が彼を悪く言ったのは本当なのだ。今の私は千春に抗議する資格を持っていない。

「…………」

 返す言葉がなくうつむいた私に呆れてしまったのか、安藤くんはそのまま去って行った。

 私は……秘かに憧れることさえ許されていないのだろうか。



「………ーキちゃん」

「…………」

「ユーキちゃんってば!?」

 千春の声で我に返る。

「あ、ごめん。何?」

「あのね、これからみんなで駅前のカフェに行こうと思うんだけど、ユーキちゃんもどぉ?」

「えっ?……あ、やめとく。今日はお母さんの帰りが遅いから、私が夕飯作ることになっているの」

 口からでまかせではない。これは本当の話だ。

「うわぁ真面目か!? まあ、それなら仕方ないね」

 私に押し付ける用事は済んだからなのだろう。今度はあっさりと引き下がった千春だった。

「でも大学生なんだから、もう少し遊んだ方がいいよ? じゃあユーキちゃん、バイバーイ」

 レポート添削を私に無理矢理押し付けた口が、いけしゃあしゃあと語った。

      《4》

 
 
 ようやく『解放』された私は、厚生館の売店に立ち寄った。

「……あった」

 ここには書店も併設されていて、学生は5%オフで本を購入できる。ラジオ英会話のテキストは550円なので微々たる割引額だが、塵も積もれば山となる……だ。ありがたい気持ちに変わりはない。

 会計を終えて外に出ると、気持ちのいい風が私に向かって吹いてきた。1年で一番好きな初夏の肌触りを感じる風だ。

「…………」

 安藤くんから受けたダメージは、まだ残っている。それでも私はぐっと堪えて斜め上を向き、オレンジがかった空を見ながら、そっと呟いた。 

「…………頑張れ自分」
 
 人の心はあてにならないが、学問や資格は私を裏切ることはない。ならばこれからの4年間を地道な努力で埋め尽くす。これは入学時から決めていたことだ。

 テキストが入った紙袋を両手でぎゅっと抱きしめ、私は正門を通り抜けた。

「あれっ?」

 道路を1本隔てた場所にあるグラウンドの隅で、大きな声を出している集団が目……というか耳に入ってきた。

 
「あめんぼ あかいな あいうえお うきもに こえびも およいでる」

「かきのき くりのき かきくけこ
きつつき こつこつ かれけやき」


「……あぁ、演劇部か」

 遠くからでも彼らの正体が分かったのは、紫色の髪をした学生が交ざっているからだろう。ただし『紫さん』は発声練習に参加せず、一人だけ太極拳のような動きをしている。

 千春たちが『紫さん』を変人扱いするのは分からないでもない。しかしよく見ると、その動作は一つ一つがキレイで、きっと彼は舞台映えする役者なのだろうと確信した。

 そんな彼が急に空に向かって跳び蹴りをする。一瞬だったが、私はそのシーンが脳裏に焼き付いた。

 殺陣のシーンでもあるのだろうか。

 演劇部の公演があったら、見に行こうかな?……と私はふと思った。

「成田さんっ! 真面目に発声やって下さいよっ!!」 

 部員の声がここまで届く。

 (へぇ、『紫さん』……成田って名前なんだ)

 頭を掻きながら発声練習の列に戻ろうとする『成田さん』が見える。しかし彼は何かの電波でもキャッチしたかのように、不意にこちらを向いた。

 (…………えっ? まさか、こっちを……見てる?) 

 そんなワケないのに、私は何故かそう錯覚してしまった。サングラスで視線の先が分からないし、距離だってかなり離れているのに……だ。

 (か、帰ろ……)

 成田さんから視線を外して私は歩道を歩き始める。

 
 しかし……

「待って!」 
 
 錯覚ではなかったと判ったのは、それから数分後のことだ。後ろから彼に腕を掴まれた私は、当然ながら「キャッ」という声を出してしまう。

「あ、驚かせてごめんね、ユーキちゃん」

「えっ?」

 私は目を丸くしながら、彼の方に向きを変えた。間近で見る紫色の髪は本当に鮮やかで、視線が吸い込まれてしまいそうだ。 

「あ? もしかして『どうして私の名前がわかったの?』って思ってる? そりゃあ分かるよね。だってさっきの学食で、あのぶりっ子女がユーキちゃんの名前を何度も呼んでいたじゃん」

 成田さんはニカッと笑う

「ぶりっ子……女ですか」

 それが誰なのかを確認する必要はない。

「俺の名前は成田久。学科は電子で学年は4年。一浪してるから歳は23だけどね。ちなみに『ひさし』の漢字は悠久の『キュウ』を使っていて、堅物部長の小林コバ以外は俺のこと『キュウ』って呼んでる。あ、ユーキちゃんもそう呼んでいいよ」

「は?……はぁ」

 やっぱりこの人は少し変わっている。

「練習見てたでしょ?」

「えぇ、まあ何となく……ですよ。そ、それにしても、あんな遠くからよく気がつきましたね」

「あ、俺の視力は4.0なの」

「はっ?」

「左右共に2.0だから、2ヶ所合わせて4.0」

「強引ですよ」

 私はププッと吹き出す。なんだか面白い人だ。そう思ったら、驚いていた気持ちが少しずつ和らいできた。

「芝居の経験はある?」

「いえいえいえいえ! 全くありません。でも演劇の舞台なら一度だけ観たことがあります。役者さんの熱気を同じ空間で共有できて、とてもいい経験だったと思います」

「へぇ~、どこで観たの?」

「東京の下北沢です。きっかけは従兄弟の付き添いでしたけど」

「もしかして『本多劇場』?」 

「はい、そうです!」

「ふ~ん、やっぱりいいね」

「?」

「俺、今からユーキちゃんをスカウトするよ」

「はっ?」

 成田さんの口から出た想定外のセリフに、私の驚きが復活する。

「ねぇ、演劇部に入らない? ユーキちゃんに演じて欲しい役があるんだ。ちなみにヒロイン役ね」

「………………えっ? えええええええ!?」

 彼が私をからかう為に、わざわざここまで走って来るワケがないだろう。しかし『実はドッキリでした』と言われた方が、よっぽど納得できたと思う。

 もはやどの部分から驚いていいのか分からない。私は成田さんの真っ直ぐな目を見ながら、彼の中に隠れているかもしれない真意を探した。

 もちろん何一つ見付けられなかったけれど。


 《2》につづく

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