遠く離れた場所から

 最近ふと漠然と、「遠くに来たな」と思うことがある。何故か15年間住んでいる家の近くを散歩する時や、ずっと昔からの知り合いと話している時などに決まってそういう感覚はやってくる。

 数少ない友人は決まって「お前は昔から変わらない」という。それはある種の呪いのように感じられるが、同時にどこか安堵する自分がいる。つまり、私は変わることで、過去の地点との距離が生まれることを恐れているのだ。
 例えば昨日で物心ついてから一緒に暮らしてきた飼い猫の命日から半年が過ぎた。今でも目が醒めるとまず最初にその姿を探してしまうし、最期の日を思い出しては胸が張り裂けそうな気持ちになる。しかし、自分が飼い猫の死というものを受け入れて、その先に向かって生活を始めてしまったこともまた事実であるのだ。バルトの『喪の日記』にも同じようなことが書いてあったように思うが、死別の悲しみには永続的な部分があるが、そうでない部分があると私は考える。死別に限った話ではない。とても耐えられないと思われた悲しみ(あるいは喜び)を経験しても、大抵の場合、私たちは時間の流れと共に距離を獲得することで大丈夫になっていく。そしてそのこと自体が何よりも受け入れ難い。だから遠くに来たというあの感覚には常にまた別の微かな悲しみが伴う。

 それと並べるにはあまりにも程度の低い話ではあるのだが、去年の今頃、私は10代の記憶に滑稽なまでに固執していた。時間と共にそれが自分と切り離されていくことを食い止めようとしていたのだ。勿論それは振り返ってみると、現在があまりにも儘ならないがために、凡庸でありきたりな過去を美化することで何かを求めようとしただけに過ぎないのだが。あるいは私は当時の苦しみに何か特別な意味を与えたかったのかもしれない。ともあれ私は幻想の中をそうとは知らずに手探りで進んだ。そして引き返せないほど深くまでたどり着いたとき、その道程の全てが徒労だったことにようやく気づいた。私が感傷の中に築き上げた世界は、それが現実に接触するや否や崩壊を始めていた。
 どこにでもあるような話だ。最低な高校生活の中で唯一仲の良かった異性。偶然の再会に数年ぶりの連絡。おそらく彼女もまた、歪められた感傷の中を生きていた。彼女の幸福であり不幸であった点は、ただそれに気づくのが少しだけ遅かったことだ。結末は悲惨だった。私たちは醜い言い争いの後で別れた。

 かつて私の人生と交わっていた数えきれない程の出来事と、それにまつわる感情。そのほとんどが私の目の前を去っていった。それらを引き留めることはできないし、決してそうしてはいけないのだ。
 だから先に述べた、遠くに来たという感覚はここに由来するのだろう。過去を振り返った時に、それらを再び経験し直すにはあまりにも遠くに来てしまったことに気づくのだ。あるいはこの感覚は溺死間際で助けられた人が、水を懐かしく思うというどこかで昔聞いた話に近いのかもしれない。何故ならそれらが去っていった後でも、私は生き延びてしまっているのだから。

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