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佐伯哲也のお城てくてく物語 #3

第3回 敵前逃亡は当たり前?

 世の中は史上空前の城ブームである。特に山城の人気は絶大で、「城ガール」という造語すら生まれている。
 この影響を受けて、テレビでも落城シーンを見ることが多くなった。燃え盛る紅蓮の炎の中で、城主が切腹する、といったお馴染みのシーンである。しかし実際は余程違っていたようである。というのもこのような落城は、史料上ほとんど確認できないからである。城主が戦死して落城する確実な事例は、富山県の場合、魚津城(魚津市)でしか確認できない。天正10年(1582)織田軍に攻められた上杉軍は、魚津城内で城主以下12将全員が戦死しているのだから、まさしくテレビのような落城シーンだったのであろう。
 しかし、このような落城はごく稀で、他は責められる前に逃亡する、敵前逃亡が案外多かったようである。
 当時、敵前逃亡は「自落」(じらく。自ら城を捨てて逃亡し、落城してしまうこと)と称されており、案外多くの史料に登場する。中には富崎城(富山市)のように、自ら城に火を放って自落したケースもある。
 一例を挙げる。永禄3年(1560)神保長職が籠城する富山城(富山市)を上杉謙信が攻めると、長職は戦うことなく増山城(砺波市)へ退却する。そして謙信が増山城を攻めると、今度も長職は戦うことなく増山城を捨てて、身を隠している。つまり2度連続の敵前逃亡である。増山城(砺波市)ちなみにこのとき長職の重要支城だった守山城(高岡市)も敵前逃亡している。どうやら敵前逃亡は当たり前で、珍しくなかったようである。

 この敵前逃亡、卑怯な戦法と思われがちだが、負け戦の被害を必要最小限にとどめる効果的な戦法、という見方も可能である。事実、謙信帰国後、長職はどこからともなく舞い戻り、ある程度の領土回復に成功している。カシコイ戦法といえるのだ。
 ただし、捨てられた城兵達には悲惨な結末が待っていた。殺されるか、奴隷として働かされるか、どちらかであろう。城主にとって城兵は、大切な部下ではなく、単なる消耗品だったのかもしれない。
            (桂書房HPブログ 2022.3.15の記事より転載)

佐伯哲也(さえき・てつや)
1963年生まれ。北陸を中心として、全国の城郭を約2,000ヶ所調査する。
主な著書に「若狭中世城郭図面集Ⅰ」(桂書房)「朝倉氏の城郭と合戦」(戎光祥出版)「北陸の名城を歩く 富山編」(吉川弘文館)などがある。

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