佐伯哲也のお城てくてく物語 #4
第4回 織田軍は飛び道具がお好き?
戦国中期の天文12年(1543)、ポルトガル人によって種子島に2挺の鉄砲が持ち込まれた。この鉄砲という飛び道具、「戦国」という時代の要請もあってアッという間に普及し、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦には6万挺の鉄砲が集まったとされている。
鉄砲を最も着目し、最も大々的に使用したのは周知の如く織田信長である。ただし、各地の小大名といえども早くから鉄砲の存在を知っており、必要性も痛感していた。永禄7年(1564)に、飛騨国高原郷の江馬輝盛が鉄砲を所持していたことに驚かされる。もっとも輝盛は鉄砲1挺を臣従の証として上杉謙信に贈答しただけであり、合戦の主要武器には程遠い存在だった。
この鉄砲、殺人兵器として使用するには、弾薬が必要となる。火薬は国内生産できるが、弾の鉛は国内で採掘できず、全て外国からの輸入品だったというから驚かされる。切山城(石川県金沢市)から出土した鉛弾は、ベトナムのタイソントー鉱山で採掘された鉛だったことが判明している。信長が大量に鉄砲を使用できた要因の一つとして、海外と交易している堺港を支配下に置いたことが挙げられよう。
信長は鉄砲だけでは飽き足らず、大砲という飛び道具を開発し、実際に使用していた。魚津城(魚津市)柴田勝家を主将とする北陸織田軍は天正10年(1582)魚津城(魚津市)を攻めているが、「大鉄砲」すなわち大砲を使用している。大砲使用の確実な事例として、北陸最古である。もっともこの大砲は不良品で、前田利家は兄安勝に修理を命じている。修理後、戦場に持ち込まれたのは6月1日で、二日後の6月3日に魚津城が落城していることを考えれば、ほとんど役立たずの大砲だったと言えよう。
織田軍は更なる飛び道具を開発している。それは「中筒」で、天正9年棚木城(石川県能登町)攻めで3挺使用している。中筒とは人間が携行できるバズーカ砲のようなものであろう。本当に織田軍は飛び道具がお好きだったのである。
大砲・中筒は共に城壁を打ち砕く兵器だったと考えられる。時代は既に槍・刀を振り回す時代ではなくなっていた。それに対応できない大名は、織田軍の好餌でしかなくなっていたのである。
(桂書房HPブログ 2022.4.15の記事より転載)
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