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自分自身をひたむきに生きること。——回転しつづける思考と試行。うまくいくこと、いかないこと。 『老いは突然やってくる』 真山美幸

不自由さとは、老いることなのか? 
抗いたいのは、この足の痛みなのか?


 タイトルに共鳴してこの本を開いてみようと思った人は、おそらく「年齢」というものを意識する機会を度々感じている人かもしれない。だがそれはきっかけの一つに過ぎないことに、ある時ふと気づくだろう。

 物語は70歳を過ぎた主人公の「岬」が、ある日突然左足のつけ根の痛みに襲われ、もがき苦しむ場面から始まる。


 ところで老いることは、生きていれば必ず直面する事実である。それは体の痛みや体力の衰えだったり、見た目の変化、物忘れが増えるだとか現象は様々であるが、いずれも現実に反映されたときのギャップを感じたときに、その事態について「老い」を認めるのかもしれない。

 しかし、ギャップとは何に対してだろうか? 
 誰しも自分自身に抱いている「理想」があるはずだが、それが叶えられなかったとき——人は、自分にもどかしさを感じるような気がする。「こんなはずではない」と、認められない「自分という事実」に落胆したり、否定したり、嘆いたりするのではないか。



 顰蹙の引き潮につられて一斉に去っていく人たちを、なすすべもなく岬が見守っていると、突如、反省を促す高波が岬を襲って丸ごと漆黒の深海へと引きずり込んだ。暗闇の中でさんざんもがき苦しみ、「二度と調子に乗りません」と何度も心に誓い、何とか息を吹き返す。それなのに、また理由もなく罵倒されたら、やっつけたい衝動に駆られ、気づいた時には、大きな声を張り上げて高らかに勝利宣言をしている。しかも思いっきり怒鳴ってすっきりするものだから、本人はどんな啖呵を切ったかさえ覚えていない。

「あ〜あ、これでまた友達が去っていく」

 岬は孤独が嫌いだ。以前テレビドラマを見ていたら、主人公の女の子が恋人に向かって「ウサギは寂しいと死んじゃうんだよ」と言っていた。それを聞いた時、岬は「ウサギだけじゃないよ。人間だって寂しいと死んじゃいそうになるんだから……」と口をモゾモゾさせながら呟いた。

 それなのに岬は腹を立てる。うんざりもする。許容力が乏しく、腹立ちを相手にぶつけてしまいたくなる。こうして友達が少しずつ離れていくのを見ながら、自分を孤独にしているのは自分自身だと思い知る。

『老いは突然やってくる』


 老化現象につきものの記憶力も、岬はラッキーなことに生まれつき物覚えが悪かったお陰で衰えを感じることがなかった。従って、誰かが「最近記憶力が低下してねえ」などとブツクサ言うのを耳にしても、「甘いねえ」とついうそぶきたくなるだけだ。そもそも岬は、老化で多少の衰えを感じ始めた「新参者」たちとは土台が違うのだ。こんな時、岬の頭に浮かぶのは次のような言葉だ。

「お気の毒さま。でも私のレベルになるにはまだ数年はかかるでしょうね」

 そこにはもちろん、負け惜しみや嫌味などの感情は微塵も込められていない。何しろ老化による記憶力の低下を知らない岬は、自分はひょっとして一生老化を感じずにすむのではないかと思い、人知れず得をした気分になっていた程だから。

「長年、短所だと思っていた物覚えの悪さが、今や長所となって私の味方をしてくれている」と岬は、自分の特殊事情がもたらす現象に、感謝したいような誇らしいような思いにさえ浸ることが出来たのだ。お蔭で記憶力の低下が取りざたされるたび、「生まれながらの短所も、我慢して付き合っていれば必ず報われるときが来る」などと、記憶力の低さを人生哲学のように大層に解釈して喜びをかみしめた。

 こんなわけで、同年の人が集まる場で老化現象の話が持ち出されても、付き合い上話に耳は傾けるものの、内心では「どうしたの、みんな老けちゃって。もっと人生を楽しみましょうよ」とみんなを鼓舞したい思いに駆られていた。

 ところが唯一、老眼だけは岬の味方をしてくれなかった。その兆候に初めて気づいたのは、新しく買ったトースターの取扱説明書を読もうとした時だった。細かい文字がぼやけて読みづらく、焦点を合わせようとすると説明書を手元から離し、目を細めなければならない自分に気づいたのだ。それまで老化が自分の身に起こっているなど、思ってもみなかった岬にとって、これは大きな衝撃だった。しかもこの問題に関しては、見栄を張って自分とは無関係といった顔を押し通そうにも限界があった。人前や暗い所で細かい字を読む必要に迫られたら、もう手の施しようがなくなる。どうあがこうが、読めないのだから。

 もちろん、兆候が表れ始めた当初はあの手この手で見栄を張るつもりでいた。細かい字を読む時は、出来るだけ手を遠ざけず、いくら読みにくくても目を細めないように頑張れば一応その場はしのぐことが出来た。老眼鏡をあまり早くから使うと、老眼の度が進むと聞いたら、その説に従って老眼鏡を購入するのを出来るだけ引き伸ばすつもりにもなっていた。しかし日が経つにつれ、度は容赦なく進んだ。そしてついに誤魔化しがきかなくなって眼鏡屋に足を踏み入れることになった。

「いらっしゃいませ。今日はどのような……?」

「あの〜、老眼鏡を」

「はい、老眼鏡ですね。では、まず度数を調べさせてください」

 お店の人はこう言うと、複雑な作りの装置の前に岬を座らせ、レンズをはめ込んだり画面をスライドさせたりしながら「これは読めますか」と尋ね、次にレンズを入れ替えて同じ操作を繰り返したりしながら視力を確かめた。

「お疲れさまでした。では、こちらへどうぞ」と言われながら、岬はフレームを並べたショーケースに案内された。

「そうですねえ、お客様は初めてでいらっしゃいますよね。それでしたら……」

 そこにはちょっと高そうなフレームが並べられていた。

「お客様はお顔がお小さいので、この辺りのはいかがでしょうか? とてもおしゃれに見えますよ。レンズが入っていないので少しわかりにくいかもしれませんが、試してごらんになりませんか? きっととてもお似合いになりますよ」

 薦められたフレームをつけ、あと二、三のフレームも試したあと、さしあたり自分の好みに一番近いものを選んだ。

 次に店員はレンズの説明を始めた。

「レンズは無色透明のものと、色が入ったものとがございますが、どちらにされますか? 薄く色が入りますと、目の周りの細かいしわなどが隠れて見えにくくなります」

 岬が決めかねていると、店員は「一度、無色のレンズと色の入ったものと、両方お試しになってはいかがでしょうか。どちらも度は入っていませんが……」

 岬が色のついた方に興味がありそうなのを察知すると、店員は「お客様、他にもいくつかお色を揃えておりますが、そちらも試してごらんになりませんか?」と言いながら、目の前に別の色のレンズも並べてくれた。

 これまで眼鏡をかけたことがなかったため、どれを試しても不自然感がぬぐえない。いやむしろ、老眼鏡をかけねばならない状況に立ち至った自分と折り合いがつかず、その葛藤が決断を遅らせているのかもしれなかった。そこへふと店員の声がした。

「そうですね。こちらは仕事のできるタイプ、こちらはどちらかというと、可愛い感じに見えますが……」

 この言葉にすぐ、岬は可愛く見える方を選んだ。何しろ少しでも若く見えること。これが岬にとって一番大事だったのだから。

『老いは突然やってくる』

 岬はいたって真剣だ。子供の時から今に至るまでずっと、目標を掲げて生きている。そこに忠実に従っている。

 信念や哲学に基づいて生きる人は、強く見える。けれど、どうしてそうあらねばならなかったのか? 
 現代を生きる人々にとって、生をより良く全うすることは、果たして成し遂げなければならない義務なのだろうか。

 「老い」がどんな役割をもってこの本に登場しているのか、読者によって受け取り方は変わってくる。実際にこの本の入口は誰にでも開かれていて、ひとつに限らないということを伝えておきたいし、この最も軽妙なタイトルから始まる何かにずっと裏切られている感触を楽しんでほしいと思う。

 大真面目であることは、ひょっとしたら軽い。

(桂書房・編集部)


◉書誌情報

『老いは突然やってくる』
真山美幸 著
2023年6月24日刊行|四六判変・148 頁|ISBN978-4-86627-135-4


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