気がつけばお寺の住職④
20年くらい前に聴いたお坊さんのお話。
・世の中は思い通りにならない
・なのに思い通りにしたいと思うから苦しい
・思い通りにしたいのは自己への執着(自分が何より大切だと思う気持ち)があるから
そして•••
・そもそも執着しているはずの自己なんていうもの自体がない
えっ、自分は今、こうして、ここにいますが•••と思いました。
確かに、今、こうして、ここに自己があるということは何の疑いようもない実感です。
でも、そのお坊さんはこの実感を単なる錯覚だとバッサリと切り捨てます。
「自己って何?」
一番分かりやすいのは自分の体。
例えば、髪の毛はどうでしょう。
頭皮と接点をもっている状態(単純にいえば生えている状態)では自分の体の一部であることに疑いはないように思います。
でも、抜けたり、切ったり、自分たちのように剃ったりして、頭皮との接点が失われると、途端に自分の体の一部である実感はなくなったり、薄れたりします。
爪や状況によっては切除した臓器・組織なんかも同じように、自分であったり、なかったりします。
がん組織なんて、切除しなくても、自分の体とくっついている時から、自分でないどころか、まるで敵であるかのような目で見られます。
身体は細胞の集合体です。
その数は60兆個とも37兆個とも言われます。
その一つ一つの細胞が自分だといえば自分ですし、その一つ一つの細胞はどの細胞一つをとっても、それだけでは自分とは言えません。
どんな大きな川も一滴一滴の水からできていて、一滴一滴の水それぞれがその川の水であることに間違いありませんが、どの一滴の水であっても一滴だけでは川にはなりません。
みんな集まっている場所で、とりあえず自分で境界線をひいて、ここからここまでが自分なんだと単に決めているのが、実感としてある「自己」の正体かもしれません。
そんなことを考えていると、「自己なんてない」とまでは言い切れなくても、今ここにこうしてあるという自己に対するありありとした実感が、少しあやしいものになるような気がしました。
ひょっとすると•••そもそも自己なんてないのかもしれません。
宗慧
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