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気がつけばお寺の住職⑤

20年くらい前に聴いたお坊さんのお話。

・世の中は思い通りにならない

・なのに思い通りにしたいと思うから苦しい

・思い通りにしたいのは自己への執着(自分が何より大切だと思う気持ち)があるから

・そもそも執着しているはずの自己なんていうもの自体がない

確かに、「自己ってなに?」っていうことを問い詰めてみると、今ここに、こうしてあると実感している自己というものが、自分で思っているほどはっきりとした根拠のある存在ではないことに気づきます。

人間の身体は60兆個あるいは37兆個の細胞からできているといわれています。

すごい数ではありますが、この中に、腸内に存在する細菌の数は含まれていません。

腸内細菌の数は人間一人の細胞数よりさらに多くて、だいたい100兆個だといわれています。

人間と腸内細菌はさまざまな形で協力関係を構築していますが、その結果として自分という人間が成り立っています。

腸内細菌のおかげで免疫力を発揮し、さまざまな病気を防いでくれたり、逆に腸内細菌の状態がよくないことがさまざまな病気の原因になったりもします。

そんな関係ですので、「自分」と言っても何ら不思議はありませんが、なぜか自分とは別のものだと認識されています。

そもそも自分の細胞だと思っている60兆個あるいは37兆個の細胞も、生まれてから死ぬまで、常に新陳代謝を繰り返し、決して同じ細胞であるわけでもありません。

さらに細かく、細胞を構成している分子・原子の視点で見てみると、食べ物等の形で、外部から取り入れたものの分子・原子が、自分たちの身体を構成している細胞の分子・原子と常に入れ替わっています。

実際に1ヶ月もあれば、自分たちの身体を構成している分子・原子は全く別物に変わってしまっています。

こうした現象を前提に、分子生物学者でる福岡伸一先生は「生命とは分子の淀みにすぎない」と言われています。

さらにさらに細かく、原子を構成する素粒子の視点でみてみると、この世はただ、素粒子が絶えず動きながら遍満している空間に過ぎないのかもしれません。

自己って何?

そんなことをいろいろな面から考えてみても、やはり「独立した自己が存在する」という考え方には合理性がないように思えてきます。

素粒子が絶えず動きながら遍満した空間。

すべてが繋がりあった空間

そこに、ここからここまでが自己で、それ以外は他だっていう境界線を自分勝手に引いて、それを「自己」だと主張しているだけのような気もしてきます。

まるで、地球上に本来は無い国境という線を人間が自分勝手に引いて、争い合っているような姿にも似ています。

独立した自己なんて存在しない

やはり、そう考えた方が合理的だと思います。

だとすれば、確かに、そもそも存在しないはずの「自己」に執着することは、単なる錯覚に対して執着しているだけで、そんなことで苦しんでいるのはちょっとバカバカしい話です。

仏教はスゴい、苦しみを根源から無くしてしまう教えだ、これで楽に生きることができる•••と思いました。

でも、実際には苦はなくなりませんでしたし、思っていたほどには楽にもなりませんでした。

何なんだこれは?

と、かなり落胆したのを憶えています。

宗慧




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