飯坂温泉の滝の湯

旧 日本温泉文化研究会HP「研究余録」2013年7月15日記

今ではあまり見かけなくなってしまいましたが、かつてはほとんどの湯治場に「滝の湯」、すなわち打たせ湯を設えた浴場がありました。入り湯(全身浴)と共に、日本の「湯治」文化(温泉療法)を代表する浴法です。その始まりがどの時代まで辿り得るのか、調査はこれからですが、天正10年(1582)に成立した『箱根権現縁起絵巻』の「伊豆山走湯大権現」の場面には、滝湯がすでに描かれており、かの豊臣秀吉が慶長3年(1598)に有馬温泉で新湯が湧出した時、最初に別荘「湯山御殿」に造らせたのがこの滝の湯でしたので、この時代より以前から行われていたことは間違いなさそうです。

あやふやな記憶ですが、ヨーロッパで滝の湯に類似する「圧注浴」が開始されたのは、かなり時代が降ってからのこと(確かフランスのヴィシーに於いて、だったと思います)。それも日本の「滝湯」とは異なり、シャワーのような優しい圧注浴だったようですから、滝の湯は日本独特の浴法と言って良いのかもしれません。滝の湯が発達する背景には、日本の温泉場の多くに共通する特徴的な地形(高低差)があったからでしょう。広島市佐伯区の湯の山温泉(湯の山温泉館)のように、落差4メートルの滝に打たれると相当の圧力を感じますが、浴後の爽快感はたとえ様もないくらいです(個人の感想です)。あちらこちらでご紹介しつつも、反応はいま一つというところなのですが、滝の湯はわが国の伝統的な温泉浴法です。レジオネラ属菌や運営コストの問題もあるのでしょうが、ぜひ絶やさないでもらいたいと願っています。

この滝の湯をめぐって、江戸時代においてはいくつかの湯治場で相論(もめ事)が起こっていたことが判っています。その中には、こんな事例がありました。現在の福島市にある飯坂温泉で、安永8年(1779)から翌年にかけて惹き起こされた出来事です。

飯坂温泉の中心に所在する公衆温泉浴場「鯖湖湯」にほど近い、常泉寺というお寺が一方の当事者でした。聞くところでは、同寺は今も温泉源を所有されているそうです。門前に掲示されていた案内板によると、常泉寺は曹洞宗で本尊は釈迦牟尼仏。千年に近い歴史をもつ寺院で、以前は護国山太平寺といわれていました。慶長元年(1596)に福島市の曹洞宗長楽寺5世立質金祝和尚によって中興され、滝の湯という温泉があることに因んで、山号を巌湯山、寺号を常泉寺と改めた、という歴史があります。

この相論で常泉寺から訴えられたのは、弥五右衛門という人物です。常泉寺側の言い分はこうでした。「これまで言い出すことはできなかったが、弥五右衛門はずっと前から、お寺の境内地にある温泉(滝湯)に入浴する客から湯銭(入浴料)を徴収していながら、お寺には一切お金を納めていない。これは、けしからんことである。滝の湯は境内地にあるのだから、これはお寺のもので間違いない。御開山(立質金祝和尚)も、境内に温泉があるからこそ、この寺を巌湯山常泉寺と名付けたのだ。だから、温泉はすぐにお寺へ返せ!」。この相論、白河の役人(この頃の飯坂温泉は白河藩領)やほかの寺院が仲介に入り、結局、滝の湯は常泉寺の所有と認定され、入湯客が支払う湯銭はお寺が受け取ることで、一件落着しました(以上、『温泉掎角論』より)。

この「滝の湯」跡が、今も飯坂温泉に残されていて、地元で「ちゃんこちゃんこ」と呼ばれる石段の細い坂道を下った摺上川の河畔にあります。昭和12年の火災により、この地にあったかつての浴場「滝の湯」は焼失してしまいましたが、それまでは飯坂温泉のシンボル的な存在でした。前記史料によると、この滝湯は約3メートルの落差があったようで、2本の滝(大滝・小滝)が摺上川の河原に落下するように仕組まれていたようです。江戸時代においても、滝湯の落差は湯治場によって(地形によって)まちまちなのですが、湯の山温泉などでの自らの体験から、3メートルから4メートル、この程度の落差が最も心地よく、効果が実感できるように思います(個人の感想です)。

【附記】2020年10月2日記                      後程、ツイッターに飯坂温泉の常泉寺と滝の湯跡の写真を貼っておきます。

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