和歌山県 湯の峰温泉の「つぼ湯」は、本当に世界文化遺産の構成資産たり得るのか?
2019年2月24日(日)
日本温泉文化研究会 研究集会
『和歌山県 湯の峰温泉の「つぼ湯」は
本当に世界文化遺産の構成資産たり得るのか?』
≪目次≫
はじめに-本報告の目的
1,世界遺産「つぼ湯」は今、どう理解されているのか?-行政の立場
2,世界遺産「つぼ湯」を今、どう理解しているのか?-研究者の見方
3,湯の峰温泉について
4,江戸時代に「つぼ湯」=小栗判官湯治場はあったのか?
5,今見る「つぼ湯」は、いつ出来たのか?
結論
※ 温泉地名表記:本報告では引用文以外「湯の峰温泉」で統一。住居表示は「湯峯」。
はじめに
≪温泉街の散策≫
【地図①】湯の峰温泉の位置 和歌山県田辺市本宮町湯峯(旧:東牟婁郡本宮町)
【写真(湯の峰温泉の風景)】
「温泉街」「大阿刀足尼碑」(慰霊碑)「東光寺」「東光寺本尊薬師如来座像」「薬師堂門前」「貯湯槽」「湯の谷川」「湯峯王子社跡」
※大阿刀足尼(おおあとすくね)は成務天皇の頃(4C頃)の熊野の国造。温泉発見者。
※毎年4月13に熊野本宮大社例大祭(本宮祭)に先立ち行われる「湯登神事」。王子社跡では「八 撥(やさばき)神事」がある。
≪本題≫
【写真①】湯の峰温泉の「(小栗判官湯治場)つぼ湯」(2005年7月/2018年12月)
■湯の峰温泉に所在する浴場「つぼ湯」の現在の位置付け
⇒ ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の「世界遺産(文化遺産)一覧に記載登録の『紀 伊山地の霊場と参詣道』(2004年/平成16年登録)の構成資産とされている。
⇒ 国指定史跡「熊野参詣道」(2000年11月2日指定)に小辺路・伊勢路・熊野川と共に「つぼ湯」が追加指定(2002年12月19日)→ 世界遺産登録へ向けての準備。
※「つぼ湯」の追加指定年月日については田辺市HPの「田辺市の指定文化財一覧-記念物-」に拠った。
但し「つぼ湯」の名は…
⇒ 文化庁HP「文化遺産オンライン」(文化遺産データベース)で「史跡」に掲載なし。同「世界遺産」にも構成資産としての記述なし。(2019年2月15日現在)
⇒和歌山県教育委員会HP「国指定文化財・記念物」にも具体的記述なし。
◎和歌山県世界遺産センターHPの「登録資産目録」によると、「湯峯温泉」が種別を遺跡・景観とし、年代は「有史以前」、概要に「熊野本宮大社近くにある湯垢離の場」とあり、湯の峰温泉そのものが構成資産として登録されているように記載。
そこで:「和歌山県文化財文化遺産活用活性化委員会」(世界遺産担当)に確認。
①世界遺産(文化遺産)『紀伊山地の霊場と参詣道』で「つぼ湯」(湯の峰温泉)に関係する“構成資産”は「熊野参詣道中辺路」。
②世界遺産の構成資産は、国により保護されている(=文化財指定)ことが要件。
③「熊野参詣道中辺路」は国指定史跡 = 世界遺産の構成資産に
⇒ この「構成資産」の中に国指定史跡「つぼ湯」がある。
④「つぼ湯」は湯の峰温泉にあることから、湯の峰温泉自体を“構成資産”とする理解も可能、かと。
≪国指定史跡とは≫
【引用①-1】『文化財保護法』第2条(「第1章 総則」)「文化財の定義」
第二条 この法律で「文化財」とは、次に掲げるものをいう。(○中略)
四 貝づか、古墳、都城跡、城跡、旧宅その他の遺跡で我が国にとつて歴史上又は学術上価値の高いもの、庭園、橋梁 、峡谷、海浜、山岳その他の名勝地で我が国にとつて芸術上又は観賞上価値の高いもの並びに動物(生息地、繁殖地及び渡来地を含む。)、植物(自生地を含む。)及び地質鉱物(特異な自然の現象の生じている土地を含む。)で我が国にとつて学術上価値の高いもの(以下「記念物」という。)
【引用①-2】『文化財保護法』109条(「第7章 史跡名称天然記念物」)「指定」
第百九条 文部科学大臣は、記念物のうち重要なものを史跡、名勝又は天然記念物(以下「史跡名勝天然記念物」と総称する。)に指定することができる。
2 文部科学大臣は、前項の規定により指定された史跡名勝天然記念物のうち特に重要なものを特別史跡、特別名勝又は特別天然記念物(以下「特別史跡名勝天然記念物」と総称する。)に指定することができる。
≪世界遺産とは≫
「世界遺産条約(世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約)」(1972年採択,1975年発効) 日本は1992年締結
⇒ 条約の目的は「文化遺産及び自然遺産を人類全体のための世界の遺産として損傷、破壊等の脅威から保護し、保存することが重要であるとの観点から、国際的な協力及び援助の体制を確立すること。(※文化庁HPより)
≪観光地としてのお墨付き≫
“湯の峰温泉の「つぼ湯」は、世界で唯一、ユネスコの世界文化遺産に登録された浴場”
例:熊野本宮観光協会HP では「世界遺産に登録された温泉!」として「つぼ湯は熊野詣の湯垢離場として世界遺産に登録されました。世界遺産に登録された入浴できる温泉です」 ⇒ 観光資源として世界遺産「つぼ湯」を発信
≪本報告にいたる動機≫
湯の峰温泉の観光名所「(小栗判官湯治場)つぼ湯」が世界文化遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産に記載登録されたことに対する強い違和感。⇒ 研究の蓄積?
⇒ 世界に向け発信された、国として責任を負うべき公式の見解。不適切な理解が存したら?
⇒ 若干の検討(温泉史としての責任) ⇒ 反応なし
拙稿「江戸時代の温泉と「癩病」-適応・禁忌と泉質・湯性-」の註で言及
≪本報告にいたる動機(裏)≫
ギネス世界記録(いわゆる『ギネスブック』)に山梨県南巨摩郡早川町の西山温泉「慶雲館」が世界最古のホテル「Oldest hotel」として記録されていること。
(記録保持者:NISIYAMA ONSEN KEIUNKAN 達成日:705) 705年は「慶雲2年」
The oldest hotel is the Nisiyama Onsen Keiunkan in Yamanashi, Japan, a hot-spring hotel, which has been operating since 705 AD. The second oldest hotel is also in Japan.
⇒ 民間組織による認定 ⇒ 慶雲館の場合、歴史的事実として立証は不可能
⇒ 一般市民に事実と誤認される可能性が極めて高い
1,世界遺産「つぼ湯」は今、どう理解されているのか?-行政の立場
【引用②】
『世界遺産 「紀伊山地の霊場と参詣道」 和歌山県保存管理計画(分冊3)』(平成17年<2005>度、和歌山県 ※和歌山県教育委員会HPより)
(1)第Ⅲ章 2構成資産及びその周辺の諸要素 (1)構成資産の諸要素 A本質的価値を構 成する諸要素 イ交通関連遺跡 ⑤関連遺跡の項
参詣道として史跡に指定された区域内には、参詣道と緊密な関係を持つ慈尊院・丹生官省符神社・高原熊野神社・草堂寺などの社寺をはじめ、湯垢離場となった湯峯温泉の「つぼ湯」、大峯奥駈道沿いに設けられた修行場と宿泊所を兼ねた宿や靡、浄土信仰の隆盛に伴い埋経が行われた経塚などの信仰に関連する遺跡、町石・一里塚・茶屋跡といった交通に関連する遺跡などがある。
各々の社寺には、社殿堂舎をはじめとする各種の建築物・工作物と地形・地割が遺存し、湯峯温泉の「つぼ湯」では、小屋掛けの入浴施設が近世の入湯情景を現在に伝えている。
(2)第Ⅲ章 3保存・管理の方法 (1)構成資産の諸要素の保存管理の方法 A本質的価値 を構成する諸要素 イ交通関連遺跡 ⑤関連遺跡
湯峯温泉の「つぼ湯」は、河川内に形成された甌穴に湧出する温泉に小規模な木造の湯屋が設けられているため、湯屋の部材の傷みが著しくなったり、河川の増水により湯屋そのものが流失したりした経緯がある。湯屋は地域の財産区により共同の所有・運営が適切に行われており、現状の素朴な外観は観光客にも馴染み深いものとなっている。したがって、増水等による災害時の大規模修理や再建に当たっては、旧態で修理・再建を行うよう財産区とも十分な協議を行う必要がある。
(3)第Ⅲ章 4史跡等の現状変更等の取扱方針及び基準 (2)現状変更等の取扱い イ交通 関連遺跡 ③参詣道関連遺跡
原則として現状変更を許可しない。
ただし、社寺等の宗教行為に関連する必要最小限の施設整備事業をはじめ、構成資産の管理・運営上又は公益上必要と認められる各種の整備事業、構成資産の本質的価値を構成する諸要素の復旧(修理)等の整備事業、学術研究を目的とする調査等を実施する場合の現状変更等については、構成資産の保存に悪影響を及ぼさない範囲で許可する。なお、王子・王子跡についても同様の取扱いとする。
構成資産の景観に適合した木材の植栽、構成資産の保護のための木竹の伐採又は植栽については許可する。また、湯峯温泉つぼ湯の小屋掛けを修理し又は建て替える場合には、旧規に復することを条件として許可するものとする。
⇒ 「湯垢離場」「近世の情景」「甌穴に湧出」
2,世界遺産「つぼ湯」を今、どう理解しているのか?-研究者の見方
【写真②】「湯筒」と「つぼ湯」(2018年12月撮影)
拙稿「江戸時代の温泉と「癩病」-適応・禁忌と泉質・湯性-」の註(63)
【引用③】※原文中の漢数字は算用数字に換えて引用 以下同じ
(63)服部前掲註(60)『峠の歴史学』も指摘しているように、湯の峰温泉の〝小栗判官湯治場 つぼ湯〟は、江戸時代までの史料や『紀伊続風土記』『西国三十三所名所図会』などの地誌類に一切記述がなく、同書所収の絵図をはじめ和山県立博物館編『世界遺産登録記念特別展 熊野本宮大社と熊野古道』(和歌山県立博物館、2007年)に掲載されている江戸時代の「本宮末社湯峰図」(164頁)及び明治時代の「本宮末社湯峯図」(165頁。共に熊野本宮大社所蔵)などにも該当する湯屋は描かれていない。同図録では、明治時代の「本宮末社湯峯図」の解説で「勢いよく湯煙が立ちのぼる源泉には「ツボ湯」との注記があり、現在、温泉としては唯一の世界遺産である「壺湯」が、現在地よりやや下流、現在、「湯筒」と呼ばれる温泉の湧出地付近に描かれている」とするが、これは図中註記の読み間違いで、「ツボ湯」ではなく「湯ツボ」と読むのが正しい。湯の峰温泉では、泉源のことを「湯ツボ」と称していたようで、他にも図中には同様の書込がある。木暮金太夫・中島松樹編『絵葉書と鳥瞰図でみる日本の温泉 西日本篇』(国書刊行会、1992年)118頁に掲載される壺湯の写真(昭和前期ヵ)を見ると、現在のように整備されてはおらず、川中の巨岩を挟んで流れ下る流路の一方を堰き止めて造られているように見える。『本宮町史』に拠る限り、「壺湯」あるいは「湯筒」という名称が史料に現れるのは、昭和10年7月の「温泉使用権譲渡仮契約書」(本宮町史編さん委員会編『本宮町史』近現代史料編、本宮町、2000年、543頁)以降である。
【写真③】「本宮末社湯峯図」(明治期 部分)※『熊野本宮大社と熊野古道』より
【写真④】拙稿註(63)で指摘した写真(『絵葉書と鳥瞰図でみる日本の温泉 西日本篇』)
⇒ 「現在のように整備されてはおらず、川中の巨岩を挟んで流れ下る流路の一方を堰 き止めて造られているように見える。」
※註(60)は「湯の峰温泉と癩病(ハンセン病)については、服部英雄「いまひとすじの熊野道・小栗街道聞書」(九州大学大学院比較社会文化研究科紀要『比較社会文化』第1巻、1995年)、同『峠の歴史学 古道をたずねて』(朝日選書830、朝日新聞社、2007年)等を参照。なお、「いまひとすじの熊野道・小栗街道聞書」はインターネットでも公開されている(2010年2月現在)。(URL省略、2019年2月6日現在公開中確認)
註(63)の「『峠の歴史学』も指摘しているように…」 ⇒ 221頁「湯筒」の写真解説。
湯の峰温泉の湯筒、川の中にも泉源があり、入ってみると温かい流れと冷たい流れとを感じる。『中右記』の筆者藤原宗忠は、これを「神験」と表現した。左奥に「小栗判官つぼ湯」があるが、これはそれほど古いものではなかろう。
■『比較社会文化』での言及
川の端に小栗湯ともつぼ湯とも称する泉源もあるが、これは近世に小栗湯といわれていたものとは異なる。即ち万延元年(1860)の『南遊志』(津藩士斎藤拙堂の記録)によれば
小栗湯の称あるものは戸を鎖してみだりに入るを許さず、里正かぎを以てこれをひらき、一行の人をして入浴せしむ
とある。湯の峯の情景を記す近世の版画(観光パンフレット)にもこの小栗湯を記したものがあるが、男湯・女湯より奥にある。なお『西国三十三所名所図会』にも上等湯としての小栗湯が紹介されている(後掲図版参照)。
【引用④】『熊野詣 三山信仰と文化』(学術文庫本)第2章「小栗街道」(120頁)
大津から京、摂津と車の「だんな」が多く、やがて本宮の権現坂にかかると、人々はもう土車ではのぼれないので、「餓鬼阿弥籠」に入れて代る代るに背負い、湯の峯の湯壺に入れる。これがいまの「壺の湯」だといわれるが、土車をすてて籠にのりかえたところが、いまの車塚ということになる。壺の湯は湯の峯川のなかに、巨巌のあいだの甌穴のような底から湧きだす熱い温泉で、筧の水を入れてはいる。まことに素朴な温泉で、いま近代化しようとする旅館街とそぐわないが、いつまでもあのままのこしてほしいものである。 ⇒「甌穴」説をそのまま踏襲
【引用⑤】『日本の聖と賤-中世篇』(1987年6月刊、初出は1979年7月~1983年11月)第3章「伝統的祝福芸と被差別民衆」における沖浦和光の発言(265頁)
数年目に熊野古道の奥にある湯の峰温泉に行きましたら、小栗判官がここで病を治したという風呂がそのまま残っていました。いかにも中世的な、ドロを固めた小さな天然露天風呂でした。そのほかにも小栗に関するいろんな伝承や遺跡があちこちに保存されています。 ⇒ 意味不明
3,湯の峰温泉について
≪湯の峰温泉を有名にしている歴史的要素≫
(1)熊野御幸(熊野詣)の“湯垢離”場として ⇒ 不審
【写真⑤】『中右記』(宮内庁書陵部蔵)天仁2年11月1日条 ※『熊野-聖地への旅』より
【史料①】『中右記』天仁2年(1109)11月1日条
※『中右記』は藤原宗忠(中御門右大臣)の日記
未刻許行向湯峯、<御前西山也、> 坂行程十余町也、於湯屋浴之、谷底温湯寒水並出、誠希有之事、非神験者、豈有如此事哉、浴此湯人万病消除者、
(2)時衆(時宗)の痕跡
【写真⑥】和歌山県指定史跡「磨崖名号碑」(伝一遍上人名号碑)
【史料②】『紀伊続風土記』(総裁仁井田好古、天保10年(1839)幕府奉呈)
『紀伊続風土記 第3輯』(発行所巌南堂、1975年4月<第3刷>)(177頁)
○一遍上人名号石 多宝塔の北にあり
六字名号一遍法 十方依正一遍体
万行離念一遍証 人中上上妙好花
右四句の文を石面に鐫めり、一遍上人熊野権現の霊夢を蒙り、六十万人の字を句の頭に冠らせ決定往生の意を示すといふ、
【史料③】『西国三十三所名所図会』(暁鐘成著、嘉永6年<1853>刊)
『西国三十三所名所図会』(臨川書店、1991年4月)(240頁)
一遍上人名号石<湯峯川の端の向ひニあり、凡一丈余の磐石なり、土人これを爪書の名号と称す、事実詳ならず、>
石面ニ勒して曰高サ凡一丈 巾六尺余 文字ノ間長サ六尺許
奉法楽
名号の上ニ梵字三ツ有
熊野三所権現十万本卒都婆并百万遍念仏書写畢
南無阿弥陀仏
乃至法界衆成所願也 正平廿年八月十五日 勧進 仏子敬白
※正平20年=1365年
【史料④】『和漢三才図会』(寺島良安編、正徳3年<1713>刊)
谷川健一ほか編『日本庶民生活史料集成 第29巻 和漢三才図会(2)』(三一書房、1980年8月)(472頁)
一遍上人是に於て癩人に会ひて倡行(イザナ)ひ、温泉に入る。即ち平愈す。其休む所の地を児塚と名づく。(俗に以つて小栗判官と為すは誤なり。小栗の事は相州藤沢に詳かなり)
四句の文の大石有り。湯峯の入口に有り。
六字名号一遍法 十界依正一遍体
万行離念一遍証 人中上上妙好花
一遍上人権現の霊夢を蒙り、六十万人の字を頭に照し、決定往生の意を言外に示す。(上人の伝、相州藤沢の下に詳かなり)
(3)『をぐり』伝承の流布と「和泉式部熊野参詣伝承」による「癩者*」の来集
説教節『をぐり』(室木弥太郎校注『新潮日本古典集成 説教集』、新潮社1977年1月初版)
・父二条大納言兼家と常陸源氏の流れを汲む母が鞍馬の毘沙門天に祈って授かった有若(後の小栗判官)を主人公とする物語。
・18歳から21歳までの間に72人の妻を娶っては離縁を繰り返していた小栗は、ある時深泥池(みぞろがいけ)の大蛇が身を変じた美女と契りを結ぶ。これを聞いた父兼家は激怒し、母の懇願によって常陸国に配流の身となる。
・ある時、小栗は美貌の姫 照手の噂を聞き、商人に托して恋文を送ると照手はその文に感じ入り、二人は結ばれる。
・ところが、これに激怒した照手の父で武蔵と相模の両国郡代の横山殿は策をめぐらし小栗を毒殺し、照手を相模川に沈めるよう家来に命じる。(照手は生き延び、遊女に売られるが拒否し、近江青墓宿で水仕となる)
・毒を盛られて落命した小栗は、冥途で閻魔大王を裁判を受け、とばっちりで死した小栗の10人の家来(閻魔は非法の死であるので娑婆に戻そうとしていた)の懇願により、「「さらば小栗一人をもどせ」と、閻魔大王様の自筆の御判をおすゑある。「この者を藤沢のお上人の、めいたう聖の一の御弟子に遣し申す。熊野本宮湯の峰に御入れあってたまはれや。熊野本宮湯の峰に御入れあってたまはるものならば、浄土よりも薬の湯を上げべき」と、大王様の自筆の御判をおすゑある。」となり、この世に蘇生して藤沢の上人に託される。
・ところが蘇生した姿は醜く「餓鬼に似たぞ」とて、藤沢の上人は小栗を「餓鬼阿弥陀仏」と名付ける。
・閻魔大王の自筆文を見た上人は、文を木札に写して「この者を一引き引いたは千僧供養、二引き引いたは万僧供養」と書き加え、土車を作り餓鬼阿弥を乗せ、多くの人の力を借りながら苦労し、444日にして熊野本宮湯の峰温泉にいたる(途中、小栗とは知らず照手も車を引く)。
・「なにか愛洲の湯のことなれば、一七日御入りあれば、両眼が明き、二七日御入りあれば、耳が聞こえ、三七日御入りあれば、はや物をお申しあるが、以上七七日と申すには、六尺二分、豊かなる元の小栗殿とおなりあり。」
【写真⑦】『小栗判官絵』巻第十三(宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 伝岩佐又兵衛筆)
※『祈りの道~吉野・熊野・高野の名宝~』より
⇒ あるいはこの絵巻に描かれた湯船が「つぼ湯」を発想する根拠?
参考:【写真⑧】田辺市指定史跡「小栗判官車塚」(2018年12月撮影)
参考:【写真⑨】「小栗判官力石」と「まかずの稲」(同)
【史料⑤】和泉式部の熊野参詣-『風雅和歌集』(光厳院の勅選和歌集、1349年頃)
※『本宮町史 文化財編 古代中世資料編』より
もとよりもちりにまじはる神なれば 月のさはりもなにかくるしき
是は、和泉式部くまのへまうでたりけるに、さはりにて奉幣かなはざりけるに、
はれやらぬ身のうきくものたなびきて 月のさはりとなるぞかなしき、とよみてねたりける夜の夢に、つげさせ給ひけるとなむ
⇒ 『をぐり』では「癩者」快復の場 和泉式部伝承では「穢れ」を厭わぬ熊野の神
⇒ 癩病患者が各地より来集 有馬温泉には行基伝承に基づき癩者が訪れたように
※日本温泉文化研究会『温泉をよむ』(講談社現代新書、2011年1月)参照
余談) 湯の峰温泉には「伝承」を伝承で終わらせない極めて強い意志が存在している?
4,江戸時代に「つぼ湯」=小栗判官湯治場はあったのか?
≪江戸時代の湯の峰温泉の浴場-地誌などから≫
【史料⑥】『三熊野参詣道中日記』(著者不詳、延享4年<1747>成)
神道大系編纂会編『神道大系 文学編五 参詣記』(神道大系編纂会、1984年3月)(4-387頁)
(四月)十一日 (○中略)
湯峯ニ宿候、谷合也、家多在之、二重ノ塔、薬師堂、地主神社<王子権現>別当有之、金剛寺と云由、湯舟四ヶ処、留湯<弐三百文之間ニ而入ルヽ由、>・女湯・男湯、又川端ニ非人類入湯在之、川之はた中よりも湧出ル、熱キ事甚シ、野菜ヲゆてゝ、暫之内ゆたり候、<自然薯やすく買候而、ゆて給候、>川之端より三四間計筒ヲ立、上迄わき上り候ヲとゆへ取、又山より水ヲとゆへ仕かけ、うめ候湯舟へ瀧の様ニ落候ヲ、病処へ直ニ請候人も候、少熱過候、予も背中へ請見申候処、甚熱ク難請候、
【史料⑦】『熊野詣紀行』(林信章著、寛政10年<1798>)
(藤井寿一「資料紹介・林信章『熊野詣紀行』(抄)」<『熊野』№132・133、紀南文化財研究会、2007年12月>)
湯の峯 湯川え二里半、かきはら二軒茶屋え廿丁
今四月四日、天気よく此地の清水屋方止宿、壱人弐匁五分旅宿也
此地は湯の峯といへとも、まことに深山幽谷とて狭き谷間の川の東西両むかひに人家立、なべて入湯の人の宿を世の業とする也。川の東むかいハ薬師堂・湯舟等あり。川の西むかいには二重の塔などあり (○中略)
湯舟を小屋のうちにかまへたる所三所並ぶ。東ハとめ湯、中と西ハ入込湯也。とめ湯といふは、壱人壱廻にて湯料四匁三分也。宿々に鍵ありて、入見とする時其鍵をもちゆき、余人を入れず。津の国有馬の幕湯といふ、事かハれとも、意同じ。湯女ハなし。入込湯ハ一人の湯料一日に鳥目六銅なり。旅人の一夜とまりハ一人鳥目三銅なり。外に非人湯といふ所あり。是は無銭にて非人の類ひ或ハ難病人入べき湯なり
【史料⑧】『紀伊続風土記』(総裁仁井田好古、天保10年(1839)幕府奉呈)
『紀伊続風土記 第3輯』(発行所巌南堂、1975年4月<第3刷>)(177頁)
湯峯村 由能美禰 (○中略)
○温泉
湯峯温泉又本宮の湯といふ、浴室一宇三槽ありて、留湯・男湯・女湯といふ、三に分る槽、各方二間許、外に乞食湯一処あり、湯八方一町の内数箇所に涌き出つ、其最熱泉の涌く所三箇所あり、其内浴室に取る処二箇所なり、一は東光寺の後より出つ、極熱にして触るへからす、其傍冷泉涌出るあり、各長筧(トユ)を以て是を取り、下に至りて二の筧を合せて一となし、温熱の加減を調適して浴室の槽中に注ク事、懸泉の如し、是を留湯といふ、一は澗底より沸騰る熱泉なり、注管を其中に立つ、沸勢盛なるを以て、直に管中に入りて上る事二丈許、上に長筧ありて是を受く、又傍に一の長筧冷泉を引くあり、二の筧を合せて一となし、冷熱を調適して浴室中に注く事前の如し、又分れて二となる、一は男湯とし、一は女湯とす、
【史料⑨】『西国三十三所名所図会』(暁鐘成著、嘉永6年<1853>刊)
『西国三十三所名所図会』(臨川書店、1991年4月)(240頁)
車嶺(くるまたうげ)<湯峯街道なり、右の傍ニ車塚とて小祠あり、伝云、往昔小栗判官 助重異病ニよつて本宮の温泉に浴し平復の後、乗来りし車をここに納めし所なりと、故に車峠と名づくとそ、>
小栗判官力石 [湯峯の此方三丁許手前ニあり、小栗助重病平復の後、力量を試みんため手ごろの石をもつて岩の面に押込しとそ、夫よりして小栗の力石ト云、今尚存す、]
不蒔稲(まかずのいね)右力石の下の方田圃の中にありて、標の札を立る、土人曰、小栗助重入湯のあいだ、藁心をもつて髪を結ひ、其しべを捨しに、是より自然と根を生し実のりしとぞ、今にいたりて蒔すして年々稲生し実のるゆへに号くといふ、車塚力石をよび此稲の故事ハ、正しく後人の妄説なるべし、小栗の事実も尚詳かならず、(○中略)
偖又温泉入浴の湯殿といへるは、凡桁行九間余、梁行二間余の堂造りにして、内にて是を三構に隔て、口を男湯といひ、次を女湯と云、奥の一間は留湯と称し、猥に浴する事を免さず、<伝て是を小栗判官の浴せし所と云、故に小ぐりの湯とも号せり、>常に鎖して出入を堅くせり、湯槽の大さは凡長一丈余、横巾九尺許にして、深さ二尺余あり、湯は梘をもつて湯槽の天より伝下すがゆへに、落来る温泉の勢ひ恰も瀑に彷彿たり、其外貴人の入浴所は別に補理て、宮の湯と号す、又川の辺りには桶湯といひて居風呂を並ふるあり、橋の辺りには非人湯ありて、貴賤老若心に任す、(○中略)
温泉入湯場入口<門あり、門の傍、入湯料受取場あり、留湯は一廻料一人に付銀壱両、入ごみ湯は、一人前一日に六銅づゝにて入次第也、>
○宮之湯<東光寺僧坊の左の谷間にあり、貴人の入湯し給ふ所なり、平人浴することを禁ず、>
○留湯<俗に小栗の湯といふ、本堂石階の下左の傍湯屋の奥にあり、すへて湯槽の外は一円に石をしき、溢れ出る湯の流れをよくす、>
○女之湯<留湯に隣る、湯槽の置所留湯とは少し異なれとも、大概は同と、右三所の湯は、僧坊の後の山より涌出る温泉を梘にて取て此に入る也、>
○男之湯<女湯の口に並ぶ、内の構右に同し、>
○桶湯<川岸にあり、居風呂を梘にて温泉を伝ふ、>
○非人湯<橋の詰にあり、乞食・難渋人の類ひ此に浴す、><○此三所の湯は、川中より涌出る温泉を立樋にて逆上らし、梘にてつたふ、凡て温泉の涌出する地は、川中に三ヶ所、僧坊の後山等にも有て、其熱湯なること米を煮、菜を燖くこと心のままなり、故に温泉のみは人浴すること能はす、谷水の梘ありて、是を合して浴す、加減は心に任せて自由也、>
【写真⑩-1・2】『西国三十三所名所図会』図版
【写真⑪】「本宮末社湯峰図」(江戸時代 岩瀬広隆筆ヵ)※『熊野本宮大社と熊野古道』より
⇒ この絵図は実景か?
【写真⑫】「本宮末社湯峯図」(明治時代) ※『熊野本宮大社と熊野古道』より
⇒ 「多宝塔」は明治36年(1903年)5月25日の大火で焼失とされる。
◎湯の峰温泉は明治22年(1889)8月の大水害と明治36年5月25日の湯の峰温泉の大火で被災。
【写真⑬】大火前の湯の峰温泉(『本宮町史 通史編』696頁)
⇒「本宮末社湯峰図」は正確か?
【写真⑪と⑬の比較】
⇒ 以上の地誌や絵図類から、江戸時代には小栗判官入湯場とされていた浴場が存在し「小栗の湯」などと呼ばれていたが、現在の「(小栗判官湯治場)つぼ湯」なる湯屋はこの時代には存在していなかった、と結論。
5,今見る「つぼ湯」はいつ出来たのか?
【写真②】「つぼ湯」の位置の再確認
≪古写真による検証≫
【写真⑭】『熊野百景写真帖』(『温泉日本 古い温泉町を見て、今の温泉町を訪ねよう』)
【引用⑥】『熊野百景写真帖』について(『熊野本宮大社と熊野古道』資料解説)
明治33年(1900)年5月、当時の皇太子(後の大正天皇)の成婚を祝して、新宮在住の写真家・久保昌雄によって撮影・献上された写真帖で、新宮から本宮・湯峯・瀞峡までを一帖に、那智から太地・古座・串本までを一帖に収め、合計で100葉の写真を収載している。
⇒ 明治33年頃においても「つぼ湯」の存在は確認できない。
【写真⑮】「小栗湯」(『絵葉書と鳥瞰図でみる日本の温泉 西日本篇』より)
この写真中に「国立公園」の標柱が見えることから、湯の峰温泉を含む地域が「吉野熊野国立公園」に指定された昭和11年(1936)以降(10月1日に指定記念祭開催)に撮影されたものであることが判る。⇒ 「小栗湯」という共同浴場が所在
⇒ 「小栗湯」の名称は公衆浴場の名として昭和11年以降も存続していた。
≪文字資料による検証≫
⇒ 湯の峰温泉では、大火(明治36年)以前から温泉場改良に着手。
⇒ ハンセン病患者との混浴をやめ、同病者の隔離浴室と宿舎建設などを構想。排除へ。
昭和10年2月1日付『熊野新報』に「数年前より癩患者の来集を厳禁して以来全く清浄な温泉地帯と化し…」(『本宮町史 通史編』840頁)
⇒ その間の経緯については、兵頭晶子氏報告、及び矢野治世美論文・宮前千雅子論文、『本宮町史』等参照。
【史料⑩】昭和10年7月22日付「温泉使用権譲渡仮契約書」(湯峰区から四村への温泉権譲渡に関する契約事項)
⇒『本宮町史 近現代史料編』に拠る限り、この文書が「壺湯」の初出。
(○前略)
第七条 現在ノ浴場及壺湯、湯筒ハ之ヲ存置スルコト
【史料⑪】「温泉経営・売却方針に関する村会協議会(決議録)」(昭和11年4月8日~)
(昭和11年)四月八日村会議員協議会決定事項
一温泉経営に干する件
壺湯ノ料金左ノ方法ニ依リ徴収スルコト
イ 内湯設置旅館ノ宿泊人又ハ其ノ他ノ旅館ノ宿泊人ニシテ壺湯ノミニ入浴スル者及ヒ通リ客ヨリ壱回五銭、壱日十銭ノ浴場使用料ヲ徴収スルコト
右使用料ノ徴収ハ浴場使用券ヲ発行シ之ヲ整理ス、使用券ハ左記ノ者ヲ以テ販売セシムル如ク取扱フコト
[欄外]「和田ゑい氏ニ嘱託済」 和田ゑい氏
ロ壺湯ニ番人ヲ置キ左ノ事務ニ従事セシム
浴場ヲ掃除シ之カ取締リヲナシ及使用券ヲ受取リ之ヲ役場(ヘ)提出スルコト
ハ番人ハ左ノ者ニ依頼スルコト (○中略)
昭和拾壱年八月十二日午前九時 四村会協議会開催 (○中略)
五 伊奈輝一郎ヨリ発案 (○中略)
東屋内湯ニ対スル給湯ハ壺湯ノ所ニテ湯ノ花採取ニ使用セル三ツノ湧出口ヨリ給湯スルコト、給湯ニ付湧出口工作及作業ハ温泉監督委員辻本嘉平湯の峯区長山根幸雄村長ト参名実地調査ノ上適当ナル工作ヲ施スコト、但シ工作費用ハ東屋ノ負担トス (○中略)
昭和拾壱年八月十八日 湯峯温泉新協定案作製委員会 (○中略)
一公衆浴場入浴料金及壺湯入浴料金ハ一回制度ト改ムルコト
二公衆浴場及壺湯ハ現形ノ儘ナルベク年限ヲ附シ他人ニ経営セシムルコト
三公衆浴場ノ二階ヲ利用シテ収入ノ途ヲ講ズルコト
⇒ 昭和10年頃には「壺湯」と称する浴場が「公衆浴場」(小栗湯)とは別に所在していた。
つまり…
■「つぼ湯(壺湯)」の設置は、国立公園の指定(昭和11年)に向けての動きや、ハンセン病患者排除が終わった(昭和10年)ことを機に、観光振興等を目的として新たに整備された(作られた)ものと考えるのが妥当。⇒ 昭和10年前後の動きに鍵が…。
【写真⑯】『熊野詣 三山信仰と文化』(淡交社版) 1967年(昭和42)以前の「天然変色温泉 壺之湯」 昭和30年代ヵ
■さらに言えば、湯の峰温泉において歴史上「つぼ湯(壺湯)」又は「壺之湯」という名称を用いた湯屋の存在を見出すことは出来ない。
結論
⇒ よって現在の「つぼ湯」には、国指定史跡としての根拠はなく、ユネスコ世界文化遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産(を構成する史跡)たり得ない、と結論付けるほかない。
⇒ この時代であれば、まだ当時の様子を知る方が存命の可能性もあるが、国指定史跡、さらには世界文化遺産に登録された以上、例え事情を知る人物がいたとしても真相を明かすことはあるまい。
【本報告で引用又は参照した文献等】
≪論文・著書≫
・伊藤克己「江戸時代の温泉と「癩病」-適応・禁忌と泉質・湯性-」(日本温泉文化研究会編『湯治の文化誌 論集【温泉学Ⅱ】』、岩田書院、2010年6月)
・折口信夫「餓鬼阿弥蘇生譚」(『古代研究Ⅱ 民俗学篇2』、角川ソフィア文庫、株式会社KADOKAWA、2017年1月改訂初版)など
・小山靖憲『熊野古道』(岩波新書、岩波書店、2000年4月)
・五来重『熊野詣 三山信仰と文化』(淡交社、1967年11月)写真:三栗参平
のち本文のみ講談社学術文庫(講談社、2004年12月)
・高橋陽一「明治前期の温泉と政府-衛生問題・温泉論と旅先地域の動向-」(日本温泉文化研究会編『湯治の文化誌 論集【温泉学Ⅱ】、岩田書院、2010年6月)
・戸田芳実『歴史と古道 歩いて学ぶ中世史』(人文書院、1992年6月)
・生瀬克己「ハンセン病者の歴史と歴史家の役割」(沖浦和光/徳永進編『ハンセン病-排除・差別・隔離の歴史』、岩波書店、2001年11月)
・日本温泉文化研究会『温泉をよむ』(講談社現代新書、講談社、2011年1月)
・野間宏/沖浦和光『日本の聖と賤-中世篇』(人文書院、1985年7月)
・服部英雄『峠の歴史学 古道をたずねて』(朝日選書、朝日新聞社、2007年9月)
初出「いまひとすじの熊野道・小栗街道聞書」(九州大学大学院比較社会文化研究科紀要『比較社会文化』第1巻、1995年) なお、この論文はインターネットでも公開されている(2010年2月現在)。(URL省略、2019年2月6日現在公開中確認)
・兵頭晶子「民間治療場のトポグラフィー-「癩病」と「精神病」をめぐる、排除と包摂の日本近代-」(部落解放・人権研究所編『部落解放研究』第208号、部落解放・人権研究所、2018年3月)
・福西征子『語り継がれた偏見と差別-歴史のなかのハンセン病』(昭和堂、2017年3月)
・宮前千雅子「市町村における無らい県運動-和歌山県湯の峰温泉の動きから」(無らい県運動研究会編『ハンセン病絶対隔離政策と日本社会-無らい県運動の研究』、六花出版、2014年5月)
・矢野治世美「ハンセン病問題と和歌山県-近代の湯の峰温泉をめぐって」(『和歌山の差別と民衆 女性・部落史・ハンセン病問題』、阿吽社、2017年3月)
≪図録・自治体史・その他≫
・大阪市立美術館編(「紀伊山地の霊場と参詣道」世界遺産登録記念)『祈りの道~吉野・熊野・高野の名宝~』(毎日新聞社、2004年8月)
・和歌山県立博物館編(世界遺産登録記念特別展)『熊野本宮大社と熊野古道』(和歌山県立博物館、2007年10月)
・和歌山県立博物館編(世界遺産登録10周年記念特別展)『熊野-聖地への旅-』(和歌山県立博物館、2014年10月)
・木暮金太夫・中島松樹編『絵葉書と鳥瞰図でみる日本の温泉 西日本篇』(国書刊行会、1992年3月)
・木暮金太夫編『錦絵にみる日本の温泉』(国書刊行会、2003年7月)
・円尾敏郎編『温泉日本 古い温泉町を見て、今の温泉町を訪ねよう』(ワイズ出版、2007年7月)
・本宮町史編さん委員会編『本宮町史 近世史料編』(本宮町、1997年3月)
・本宮町史編さん委員会編『本宮町史 近現代史料編』(本宮町、2000年3月)
・本宮町史編さん委員会編『本宮町史 文化財編 古代中世資料編』(本宮町、2002年12月)
・本宮町史編さん委員会編『本宮町史 通史編』(本宮町、2004年3月)
・和歌山県『世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」 和歌山県保存管理計画(分冊3)』