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【レビュー】『ワイルドツアー』映画の幸福な未来

「映画とは何か?」という問いが徐々に溶けていき、「それでもこれは映画なんだ」という答えがどこかから聞こえてくる。
そんな映画体験を三宅唱の新作『ワイルドツアー』は与えてくれる。
そして、そんな応答と共に『ワイルドツアー』が見せてくれたのは、未来のイメージである。

どんな未来か?
それは「映像を撮ること」が当たり前になった/誰でもできるようになった世界で、「映画」と名の付いた映像をどう生み出していくかを無邪気に語り合い、駆け回る少年少女の未来である。
どうしてもそんな未来を空想してしまう。映画にとって幸福な未来を夢想してしまう。

映画には映画の文法があるように、映画の語りにも文法がある。
どうやって言葉で映画を解きほぐしていくかは、映画の誕生とともに発展し、単位を何で語ればよいのかもわからないほどの途方もないテキストによって体系化されていった。
そして今もなお、体系化とそれを乗り越えようとする更新がひしめき合い、映画の語りは豊かな拡がりを止めずにいる。

作家主義的な語りもあるだろうし、俳優の演技にフォーカスを当てることも、照明や音響、美術といった映画の骨組みになる部分からの語り口もある。
映画が孕んでいるテーマでもよいし、ある映画がある時代においてどんな位置付けだったか/受容されていったかでも語ることはできる。
製作過程を事細かに見ていくことで生まれてくる語りもあるはずだ。

ことほど左様に、映画を語る文法は無数に存在する。
それなのに、いざ『ワイルドツアー』を語るとなると言葉が詰まる。
それは、三宅唱という映画作家が既存の語りを拒むような進化を作品ごとに遂げていることと不可分ではないだろう。

例えば、三宅唱の長編第一作『やくたたず』のタイトルを補助線に添えて、以降の三宅唱監督作品のキャラクターを「やくたたず」という文脈で語ることはできるかもしれない。
しかし、監督である三宅はそんな定型の作家論を吹き飛ばし、翻弄するかのような作品を発表しているし、インタビューなどで言葉を紡いでいる。
それは映画作家としての固着を拒否して、目の前の映画と戯れていくという意味において、真摯な振る舞いだろうし、そこにこそ監督三宅唱の魅力がある。

だが、それを措いたとしても、『ワイルドツアー』は語るのが困難なのだ。
『ワイルドツアー』という作品自体を言葉にしようとしても、『ワイルドツアー』が見せてくれた“幸福な未来のイメージ”についての言葉しか出てこない。
穏やかな興奮を隠し切れず、映画を見ながら不意にはにかんでしまった、というような他愛もない自分の反応を描写することしかできない。

『ワイルドツアー』は未来のイメージを与えてくれる。
「映画」というメディアのレーゾンデートルが揺らいでいる世界の中で、それはお伽噺のような夢物語かもしれない。
それでも、「あの幸福な未来は嘘じゃなかったんだ」と胸を張って言える世界を創り出すために、僕たちにはやらなければいけないことがあるはずだ。

『ワイルドツアー』
3月30日(土)よりユーロスペースほか全国順次ロードショー

Text by 菊地陽介

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