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かつおぶしの缶詰#5

役者の小林です。note担当が回ってきて、年貢の納め時な気分で書いています。

5月からずっとかつパラはログを大切にしていて、稽古場・公演・ワークショップの映像、演出の指針をまとめたテキスト、稽古ごとの感想をSlackに書くなど、至るところに記録が溢れています。このnoteもそうです。できる限り多くのものが言語化され、記録され、解体され、のちに何かの材料になる(こともある)。
それは面白い試みであるとともに、こわいことでもあり、個人的にはしんどいこともあり、メンバーそれぞれの思想や価値観が凝縮されたテキストメッセージを読んでいると頭が痛くなることも多いです。(かつパラのnoteを読んでいて頭が痛くなった人、私以外にも絶対いると思います。)

偏見込みの勝手な予想ですが、議論や理論や方法論が好きなのは、駒場演劇特有の傾向なのではと思います。なるほど面白いなと思うこともたくさんあるけれど、こんなに頭ばっかり動かして、結局それは本当に舞台上に乗っているのかな、観客は楽しんでいるのかなと不安になることも多いです。
これは去年私が3年生になって、専門の勉強は楽しいけれどこれって結局机上の空論で、なんの意味があるんだろうかと悩んでいたことに近いです。

そういう意味で、5月公演からかつパラが掲げている「駒小を庭にする」のスローガンは気に入っています。駒場の役者ではない私や、音楽家のあんりーぬさんを呼んで、駒場演劇を外に開く試み。その劇場に東大生しか入れないのは滑稽な気もしますが、5月公演を演劇に馴染みのある人にもない人にも観てもらえたのは大きな意味があるように思います。
こんなふうに文句を垂れたり外の客を呼んだりと、私は外部因子としての役割をある程度果たしているかなとも思いつつ、7月公演に関してはもっと自分なりに作品を咀嚼し組み立てていきたいのに、まだ自分のやれることをうまく掴めずじたばたしているところです。

さて、冒頭部は理論に偏りがちな東大生批判みたいになってしまいましたが、私自身がむしろどちらかというと何を語るにも言語を媒介にして考えないと済まないタチであるし、創作者や鑑賞者が作品のどの部分を抽出して語るのかを見るのは、その人が何を大切にして生きているのかがありありと現れてしまうので好きです。
大学に入って少し演劇から遠のいていた私ですが、今年度に入ってからはほとんど毎月違うところで違うジャンルの芝居をやっています。現代口語の高校演劇だったり日本の古典だったり海外古典だったり、7月のかつパラもまた違うものになります。
いろんなところに顔を出しては、演技体がずれていると批判を受け、タイプの異なる演出家が大切にしているものを観察するのは、私にとってとても実りある経験になっていると思います。(私視点の観察結果を公の場で書き綴るのは、非常に身勝手かつ暴力的なことだと思うので、ここでは控えざるを得ませんが…。)
既存の団体で醸成されたカルチャーを引継ぎ、それを良しとしてくれる観客に甘んじることもできますが、いろんな場所をかき乱してかき乱されて、何をどうすれば納得できるのか悩みながら、人間の核みたいなものをぶつけ合って進んでいけたらと思っています。

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