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【5月ミニ公演劇評】人間の条件主宰・ZR

 生活は汚れであると思う。鏡には水垢が、風呂場には赤カビが、シンクには曇りが、床面には細かなかすり傷がついてゆくように、生活の原資を得るため汗を流し、日々の労苦を乗り越えんと息を切らすうちに、愛は煤け、志は掠れ、若さは萎びてゆく。かつてはなめらかな玉のようだった二人の愛には僅かな空洞が透き通り、乾燥し、ひび割れ、粉を吹く。二人にできるのは、たまに外にでかけたりして散らばった粉をかき集め、ひびの中に注ぎ込むことぐらいである。その玉は真っ二つに割れてしまうこともあれば、なんとか残った核の安定を積もった破片の上に見出すこともある。

夫  (妻の手を取りたるまゝ)お前は、ほんとに、おれがいやになりやしないか。おれとかうしてゐるのが……。
夫  …百円足らずの金を、毎月、如何にして盛大に使ふか、さういふことにしか興味のないおれたちの生活が、つくづくいやになりやしないか。…(中略)…かういふ生活を続けて行くうちに、おれたちはどうなるかつていふことだらう。違ふか。それとも、お前が、娘時代に描いてゐた夢を、もう一度繰り返して見てゐるのか。
妻  あなたは馬鹿よ(笑はうとしてつい泣顔になる)

 劇団かつおぶしパラダイス『紙風船』の上演において、生活の実感に満ち満ちたこのテキストは、演劇という即物的な夢幻の世界の中に実在していた。八角形の舞台の上には愛おしく退屈でくだらない二人の生活があり、それを取り囲む円環状の動きの中に、二人の巡る空間あるいは旅、そして時間あるいは季節が動的に表現されていた。
 二人が生活を離れて江ノ島へ旅行するシーンは特筆に値するパフォーマンスだったように思う。到着駅を口にしながら手を取り歩調を合わせて片足立ちに飛び跳ねる二人の身体は、互いに対する愛しさを、思慕を、雄弁に語っていた。生演奏されるピアノの音は二人と観客の身体にぴたりと寄り添い、両者を隙間なくつなげていた。夫が江ノ島を指し示すと照明、音響、演技が一変して二人と観客の視線は共有され、海は突然に観客の目に飛び込んでくる。浜辺を二人が立ち行くシーンにおける二つの見立ても、衒いがなくなかなかに憎かった。妻はカーディガンを一枚脱いで少しの肌を晒すだけで白い砂浜を歩く裸婦となり、新聞紙に足を引っ掛ける音とそれに対する驚きは、妻の足に砕ける波の音とその冷たい感覚に即座に置換される。そのように巧妙に構成された二人の明るい虚構は、やはり先に生活=八角形の内側に戻ってしまった妻によって幕が引かれる。そして落下したテンションの先にあるのが上に引用した部分、つましくつまらぬ生活と、それがいつまでも続くであろうという絶望的な予感である。二人が描く円環運動が華やかに巡る季節をも表しているとすれば、その先にある静止した時間は終わりの見えぬ薄暗い現在の時間であり、すれ違いと諦めが滞っている。新聞紙は、もはや波の音を立てない。
 私がやや熱っぽくこのシーンを評価したのは、戯曲と上演の間の差分が実に豊かであり、それが戯曲と調和していたから(矛盾する面白さもあるだろうが)と言える。非常にうまくまとめられたスタッフワークはその差分の一つだろう。しかし、一方でそれ以外のシーンにおける演技・演出における差分については判然としない部分が多かった。言い換えるならば、戯曲を読んでぼんやりと想像する情景と実際の上演との間に差がなく、驚きもない、という感想である。全体として、二人の関係性がどのように変化するのかというのはとても見やすく整備されていた。しかし、それ自体は会話劇が成立するための前提となる剪定の作業であり、クリエイションの中心ではない。これはもちろん、なにか奇抜なことをやらなければならないという意味ではない。「自然な会話」というものを実現するために、いわゆる自然主義的な、ディテールに満ちた立体的な人物造形を行い人物の実在感を高めるというごく一般的な演劇の方法論を取ったとて、その到達点は役者と演出に応じて変わってゆき独特の実在感を生むだろうし、魅力的な実在の質感は観客の心を捉えて離さないだろう。これが差分になる。そして演劇をやる人ならば分かる通り、この質感を生む技術は一朝一夕に身につけられるものではないし、いわんやマニュアル化されていて一定のプロセスを経ればかならず演技が完成するというものでもない。また、唯一の正解があるものでもないし、定量的な評価基準もない。演技というもののこの曖昧さの中に役者と演出のクリエイティビティがある。もちろん、岩下のnoteにもあるようにこのような演技の曖昧な側面に甘えていては進展がないのは明らかなので、そのために先人が積み重ねてきたメソッドがあるし、これとは別の評価体系を作る新しい演劇もある。いずれにせよ、テキストと上演の差分が何なのかについて、役者と演出は常に感覚を研ぎ澄ませていなければならない。その差分の豊かさがそのまま上演の成果であるからだ。
 二つの役が空気とでもいうべきものを共有していないように見えるところが多かった。これは完全に印象批評であり個人の信条なので違うと言われればそうかもしれないと答えるしかないのだが、近しい人間はどこかしら似ているものだ。特に仲のいい夫婦となればなおさらである。もちろん性格も喋り方も異なるだろうが、どこかに共通するものがあるから一緒にいられるのだと思う。そしてそれは戯曲の言葉の中に説明されるものだけでは不十分であり、舞台の上に実在していなければ説得力を持たないだろう。豊かな差異やディテールは、二人が共有するベースの上にあって初めて関係性を活写するものになる。
 劇団かつおぶしパラダイスは実践を通じてより大きな実践を目指していく。そのプロセスの踏み方には個人的に大変大きな敬意を持っている。当然プロセスはプロセスなので直接的に舞台の上に見えることはない。しかし、プロセスなしには結果は生まれないというのも当然の事実だ。これに注目せずして豊かな結果を継続的に生むことはできない。今後の活動にも注目し、たくさんのことを学ばせてもらいたいと思っている。

 私ZRが主宰する人間の条件も、8月中旬に実験的な公演を行う予定です。音楽を一次テキストとして、その根本のイメージを役者と演出で共有しながら新しい芝居を作ろうと考えています。そちらもぜひご注目いただければ幸いです。

▷5月ミニ公演の配信予約はこちら!(配信時期は6月末以降を予定しております。)

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