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【5月ミニ公演劇評】小林大晃

劇団かつおぶしパラダイス『紙風船』の感想を書きます!
この作品は、かつパラの実験公演と題された公演で、駒場演劇の当たり前を崩すこと、その上でドラマを組み立てることを目標に作られているものです。ただし、僕はまったくそうした情報を仕入れずにポッと行ってしまったものですから、この感想では、僕が初見で思ったことをありのまま書き連ねていきたいです。

既成作品上演の意義

私自身、綺畸現役のころは必ずオリジナルの脚本の公演しかやったことがないのですが、今までずっと、駒場で既成の、そしてできれば古典作品を見たいと思っていたところでした。まずそれをやってくれたことに対して、「よくやってくれました!」と言いたいです。蓋し、演劇において既成作品を、それも古典を上演するというのは、新作をやることと同じくらいかそれ以上にスリリングなことでしょう。既成作品の上演とオリジナル作品の上演の間にある最大の違いは、無批判に頼れる到達目標がないことです。新作においては、作家の頭の中にあるイメージがその劇の到達目標といえるでしょう。そうしたイメージは劇作の営為を通じて特別な地位を持っており、それを実現させるための手段とはレベルが違うものとされます。それに対して、既成作品にはそのような到達目標が存在しません。もっとも、この時はテクストそのものが特別な地位を持っているといえそうですが、少なくとも劇の到達目標ではありません(もし古典テクストが劇の到達目標たりえるならば、舞台の上に古典を印刷したテクストを置いて、それを観客が自ら読むことが最高の演劇の形となるに違いありません)。よって、既成作品を上演する時には、そうした到達目標(=演出イメージ)から設定しなければいけません。これを図にまとめると次のようになるでしょう。

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ここで重要なのは、演出イメージの立ち位置の違いです。演出イメージとは、演出の意識の中にある私秘的なイメージです。これは私秘的である以上、明晰に言葉にすることができなくても、当人にとっては間違いなく存在しています。しかし、その実際の内実は当人以外の誰にもアクセスができません。このことは、劇作を硬直させる危険性を孕みます。すなわち、そのイメージを超えたものを作ることができないという危険につきまとわれるのです。なぜなら、劇作の営為の源泉が、究極的には誰にも批判不可能なもの、すなわち、私秘的なイメージに置かれてしまうからです。これと対照的に、既成作品の場合演出イメージは、公共的なテクストに対面してそこから作り出されるものです。この場合、テクストの新たな解釈を見つけることによって、劇の新たな側面を見出すことができます。さらに重要なのは、この解釈にあたって座組みのもつ権威は平等だということです。テクストが劇作の源泉にあるのであれば、テクストの解釈がその源泉から生み出される第一のものです。そしてこの解釈はテクストとの整合性にのみ即して精査され、「解釈したのが誰か」に影響されません。テクストを介することで、演出と役者とスタッフワークが、同じレベルから作品へのコミット権を獲得するのです。これらの点から、既成作品の上演の方が逆説的にクリエイティブな作業だと私がいう理由が推量されると思います。このような既成作品の上演がこれまでの駒場演劇シーンで滅多になされてこなかったのは大きな損失であると思われます。このかつパラの公演が、ひとつのモデルケースとなり、今後の駒場演劇における既成作品上演への志向を高めることを期待します。

同一のテクスト、異なる時代

今回の劇で僕が個人的に一番面白かったのは、役者の二人がちょうどいい具合に、時代の離れたテクストを自分のものにできていなかったことです。1925年に書かれた『紙風船』はもう丸一世紀も前の作品です。よって、時代背景(特にジェンダーに関する認識)、そして言葉がそもそも違います。ちょっと青空文庫から引用してみましょう。

夫 かういふ場合の処置なんていふことを、新聞で懸賞募集でもして見たら、面白いだらうな。
妻  あたし出すの。
夫  (新聞に見入りながら、興味がなさゝうに)何んて出す。
妻  問題はなんて云ふの。
夫  問題か……問題はね、結婚後一年の日曜日を如何に過すか……。
妻  それぢや、わからないわ。
夫  わからないことはないさ。ぢや、お前云つて見ろ。
妻  日曜日に妻が退屈しない方法。
夫  そして、夫も迷惑しない方法……。
妻  いゝわ。

僕はこの会話を見るだけでセピア色のイメージが浮かんできます。とにかく、これほど言葉と文化が隔たっているため、役者はテクストを完全には自分のものにすることにできていなかったように思われます。しかし、それを逆に僕は面白いと感じました。というのは、そのズレによって、岸田の脚本の普遍性が浮かび上がってきているように感じたからです。具体的にいえば、小林の演じる妻はこの脚本を読んだときに感じる妻とはまったく性格が異なりました。この脚本の妻は「三歩下がってついて行く」「女の仕事は家のこと」という印象を受けますが、小林の演じる妻からはそれよりももっと元気そうで、自由そうで、自分のやりたいことがわかっているイメージを受けました(ちなみに、夫のテクストと岩下の演技の間のずれは妻と小林のずれに比して相当少ないものに感じました。これはこれでひとつの面白い気づきです)。そして、ここからが興味深いのですが、このずれにもかかわらず、岸田の脚本の要点は、全く弱まらずに、現在この劇を見る僕たちに突き刺さってきたのです。また脚本から引用し、具体的に見てみましょう。

妻  をかしなものね。よその奥さんたちは、旦那さんがお留守だと、気楽
つてよろこんでゐるの。だけど、あたし、それが不思議だつたの。
夫  それや、不思議なのが当り前さ。
妻  それが今日、やつと不思議でなくなつたの。
夫  え。
妻  男つていふものは、やつぱり、朝出て、晩帰つて来るやうに出来てゐるのね。
夫  (苦笑する)
妻  男つていふものは、家にゐることを、どうしてさう恩に着せるんでせう。女は、それがたまらないのね。
夫  何も恩に着せるわけぢやないさ。
妻  だから、行く処があつたら、さつさと行つて頂戴。その方が、ずつと気持がいゝわ。
夫  (また椅子にかけて、新聞を読み始める)
妻  あたし、日曜がおそろしいの。
夫  おれもおそろしい。

この脚本のこの会話自体を見れば、当時の女性の置かれていた抑圧的状況、すなわち、社交的関係を広く持つことの難しさや、夫に対して「こうあるべき」とされた振る舞い方のうちで生きる女性像に基づいて書かれているように読めます。すると、これを読んだ段階ではどうしても、セピア色の、奥ゆかしくも時々毒気のある、そうした妻の姿が目に浮かんできます。しかし、実際はそうでなくてもこのシーンは成立するのです。私にはこの妻はより自分を持っているように見えました。夫に対して、原理的には対等の関係で要求をしうる立場にあることを実際に知っているようにも見えました。しかし、このシーンはそれでも変わらず成立するのです。これは驚くべきことです。岸田の脚本が時代を越える普遍性を持つことが、この上演によって新たに見つけられたのですから。かつパラの『紙風船』は、妻のキャラクターの雰囲気の違いにも関わらず、男女のずれの描写について非常に高い説得力を持っていました(実際、これを見て僕は痛く反省しました)。いや、もはや「男女のずれ」という言い方は適切ではないかもしれません。ここに表現されているのは、ごく親しい間柄の人間たちの間にもあるずれとそのままならなさだと思います。『紙風船』には一世紀を通じて、言語の変化によっても文化の変化によって変わらない、人間関係のままならなさが表現されていたことが、かつパラの今回の公演で発見されたのです。ここに確かに、この『紙風船』という戯曲をこの時代に、かつパラという劇団がやったことの意義があったと、私には思われるのです。

最後になりますが、次のことを述べて終わりたいと思います。今回のかつパラの公演はもちろんかつパラ内部の皆さんにとって意義深いものであったと思われます。しかしむしろ僕は、この作品に、駒場の演劇シーンにおいて古典を上演することの意義を指し示してくれるものとしての意義を見出したいと思います。ここから、より多くの劇団が古典作品に取り組んだならば、演劇カルチャーはより豊かになっていくことと思います。

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