バラエティ番組見てて、「大事な人ってどうやって作んねん」って思った。
昨晩、テレビを見ていたら、都道府県別で様々なテーマでランキング付けをする番組をやっていた。
テーマは、平成で輩出したアスリート、美味しいお土産がある県、などなどだった。出身都道府県別に分かれて芸能人がひな壇に座り、各々の出身地の優れた点をプレゼンしあうのだ。
そしてなぜか生放送だった。都道府県の順位づけには視聴者の投票があったためだろう。
一般的には、このような県民同士のギャップや対抗意識に面白みを感じることで楽しく観覧することができるように思うが、正直に言って、ぼくには、そのような自県や他県を区別することを重要視したことがないし、競争意識も持ったことがない。
例えば、ぼくは東京都23区の下町生まれだが、23区内で競争意識を持ったことがない。高校に上がった時は、さすがに他区の人間と過ごすことになるが、そもそも友達を「他区の人間」として意識したことがない。
そんなことに意味がないとかではなく、そもそも意識して接したことがないので、友達同士が区民間の意識差トークで盛り上がっている時はいつもなんとなく話を合わせていた。
もちろん、ぼくからはその類のトークはしない。
というのもあり、前述したような、自分の領域の人とその他の人とを分ける構造には違和感を感じる、それをわざわざ作り出すことにはいささか不快感も感じたりする。どうにも、平和的じゃないから、と感じる。単なる競争意識ではなく、排他的で攻撃的な匂いがするのだ。
競争意識はなんとなくわかる。そこに面白みを感じるのもわかる。自分と、隣に同じような人がいて、ギャップを感じて、一緒に笑い合うことは非常に楽しい。そこから学びを得られることもある。
この時には、ぼくたちの間の関係は非常にポジティブなのだと思う。平和で向上意識を感じる。
しかし、そこに優劣をつける感覚が入ると、一気に冷めてしまう。
どっちかが優れていて、どっちかが劣っている。劣っている方は、優れている方にへこへこしたり、あるいは下克上を狙ったりしなければいけない空気が流れる。
このような縦の関係は、熱量を生む一方、格差を生む。排他的にも思える競争についていけない人は劣等感に苛まれ、自分のテリトリー以外のものを信用しなくなってしまうんじゃないかな、と思う。
自分と他人を生まれた場所で区別することに、そこまでの意味はあるのだろうか? と思う。
ないとは思わない。同郷意識はそれなりに強い意味を持っていると思う。
しかし、同郷であっても、昔からの知り合いであっても、最近知り合った人の方がより親密に感じるケースを、最近はとても多くある気がする。
時間よりも、場所よりも、もっと別な理由で人とは親密になれる気がする。
それはなんだろう、なんだろう、と考えていると、いつも知識の限界を迎えてしまったり、半ば放置してしまったりする。
人を想うことができて、その優しい想いを感じることができて、それを想いで返してあげたら十分なのかもしれないなあ、と考えています。
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