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人間、または人間観〜儒教系統の人間観〜

それぞれの宗教は特有の人間観を持ってきた。そして、それぞれの教徒は何が人間であるのかをその人間観に基づいて認識、または信仰してきた。

例えば、西欧白人の大部分は西欧キリスト教徒であり、彼らは西欧キリスト教系統の人間観を持ってきた。その人間観に基づいて、彼らは黒人奴隷やアボリジニの虐殺及び絶滅、そして彼らモンゴロイド人種(1人称では、俺らモンゴロイド人種)の虐殺及び絶滅を実行してきた。

そこで、その恩返しとして、彼は儒教系統の人間を次のように決める。

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1章 はじめに

【人称に関する現象】
彼は人称に関する現象を次のように把握する。

(1)意識は1人称で存在するが、意識は2人称及び3人称で存在しない。
(2)主体は1人称で存在するが、主体は2人称及び3人称で存在しない。
(3)xはa人称で存在するが、xはb人称で存在しないような何かがこの世界には存在する。

例えば、彼は他人の意識と他人の主体を外部から把握することができない。しかし、彼は他人も同じ肉体を持っているので、他人も自己と同じ意識や主体を持っているだろうと推論、または憶測してきた。彼はこの推論や憶測を必ずしも前提としない。つまり、彼は上記を人称現象と便宜的に呼び、彼はその現象を奇妙で新しい現象と認識する。つまり、彼は他人の意識や主体は彼視点では存在しない。

【表現する】
彼は表現するを次のように決める。

(1)表現するは行為である、かつそこである主体は1人称で存在する何かを他者に伝達する。

口語的には、表現するとは、ある主体が2人称や3人称ではわからない何かを他者に伝達することである。例えば、自己の認識や自己の判断は2人称や3人称ではわからない。だから、ある主体はその認識や判断を言葉で表現して、他者に伝達する。それが表現することである。

2章 儒教系統の人間観

【人間観に関する思考規範】
彼は人間観に関する思考規範を次のように信仰する。

(1)もしある主体が任意の人間観を持たないならば、その主体は任意の対象を人間と認識しない。

例えば、動物は任意の人間観を持っていない。この時、動物はこの世の全てを人間と認識しない。ある主体が自己の人間観を持たないことはその主体が誰も人間と認識しないことである。

【x教系統の人間】
彼はx教系統の人間を次のように信仰する。

(1)x教系統の人間はx教系統の人間性を持つ主体である。
(2)x教系統の人間はx教系統の人間性を設計者によって授けられた主体である。
(3)サピエンスは動物である。
(4)サピエンスはx教系統の人間でない。
(5)x教系統の人間はx教系統の人間競技に所属する、かつその競技を競技する主体である。

主体は3種類の何かにおける(3)である。日常的には、x教系統の人間はx教系統の人間性を持つサピエンスやそれに類似するヒトである。より日常的には、x教系統の人間はx教徒である。なお、サピエンスと人間は区別される。(5)は人間の日常的な意味である。

【西欧文明系統の人間観】
彼は西欧文明系統の人間観を次のように認識する。

(1)西欧文明における人間は、基本的には、西欧キリスト教系統の人間である。
(2)もしある主体が人間であるならば、その主体は自由意志を持つ。
(3)西欧文明における人間観は牧畜民族的である。

西欧文明では、奴隷の存在が前提とされている。それは牧畜では、野生動物でなく、家畜の存在が前提とされていることに似ている。また、奴隷は自由でないので、自由であることが人間とそうでないものを区別している。家畜も自由でない。ここに、キリスト教系統の人間観が乗っている。

(4)西欧文明における人間観は動物か人間かのどちらかである。

西欧文明における人間観では、人間は動物でない。そのため、性欲それ自体が動物的であると否定される。そこでは、ある主体が人間であることと動物であることは同時には成り立たない。

【儒教系統の人間】
彼は儒教系統の人間を次のように信仰する。

(1)新儒教系統の人間は新儒教系統の人間性を持つ主体である。
(2)儒教系統の人間は機械性を持つ肉体とサピエンス(モンゴロイド人種)系統の動物性を持つ感覚と儒教系統の人間性を持つ主体との組みである。

比喩的には、設計者が新儒教系統の人間性をサピエンスに導入して、人間を設計する、または人間を泥からでなくサピエンスから創造する。機械性は物質性でも良い。ある種系統の動物性はサピエンスである。つまり、儒教系統の人間は物質的なものと動物的なものと人間的なものの組みである。動物性と人間性は対立せずに、組となる。

【儒教系統の人間の本質】
彼は儒教系統の人間の本質を次のように信仰する。

(1)儒教系統の目的力を持つ主体は儒教系統の人間を動物から区別する。
(2)儒教系統の目的意志を持つ主体は儒教系統の人間を動物から区別する。

目的は人間を動物から強く区別する。人間を動物から区別するのは自由でなく、目的である。ただし、肉食動物の狩は目的的である。人間の運動は最も目的的である。だから、。なお、東洋文明における儒教では、自由は人間を動物から区別しない。なぜなら、彼は野生動物の運動は自動的でなく、非自動的、つまり自由であると認識する。

(3)x教系統の善悪を持つ主体はx教系統の人間を動物から区別する。
(4)x教系統の認識を持つ主体はx教系統の人間を動物から区別する。
(5)x教系統の自由力を持つ主体はx教系統の人間を動物から区別しない。
(6)x教系統の自由意志を持つ主体はx教系統の人間を動物から区別しない。

また、善悪や人間も人間を動物から区別する。特に、人間はよりはっきりとした善悪と判断、そして認識をもち、それらを彼らの言葉で表現する。一方、動物は善悪を持たないので、善悪を判断せず、ぼんやりとした認識のみを持っている。さらに、動物は善悪や認識を表現しない。

【儒教系統の人間と自己認識】
彼は儒教系統の人間と自己認識を次のように信仰する。

(1)もしある主体が儒教系統の人間であるならば、その主体は自己認識能力を持つ。

例えば、動物とx教系統の人間との違いには、自己を認識するのか(self-aware)が存在する。動物は自己を認識していない。例えば、猿は彼ら自身を猿と認識しない。猿は自己を彼らの言葉で表現しない。一方、x教系統の人間は自己をサピエンスと認識している。そして、彼らはその自己を彼らの言葉で表現する。

(2)もしある主体が儒教系統の男性であるならば、その主体は人工及び自然に関する自己認識能力を持つ。

人工や自然に関する自己認識には、人種や民族や宗教や文明が存在する。例えば、その男性は自己の人種をモンゴロイド人種と認識する。その男性は自己の小人種を東洋小人種と認識する。その男性は自己の民族を大和民族と認識する。その男性は自己の宗教を儒教徒と認識する。その男性は自己の所属文明を東洋文明と認識する。

(3)もしある主体が彼らの正確な自己を彼らの言葉で表現するならば、その主体は自己認識能力を持つ。

例えば、「俺は俺自身をモンゴロイド人種と認識する。」が存在する。「俺は俺自身が東洋文明に所属していると認識する。」が存在する。表現の形式は「俺は俺のaをbと認識する。」と「俺は俺自身がbであると認識する。」である。

【儒教系統の人間と判断】
彼は儒教系統の人間と判断を次のように信仰する。

(1)もしある主体が儒教系統の人間であるならば、その主体は判断能力を持つ。

例えば、動物とx教系統の人間との違いには、善悪の判断を下せるのか(good and evil, judge)が存在する。動物は善悪を持たない。そして、動物は善悪の判断を下すことができない。一方、x教系統の人間はその系統の善悪を持ち、善悪の判断を下す。

(2)もしある主体が儒教系統の男性であるならば、その主体は判断能力を持つ。
(3)もしある主体が善悪の判断を彼らの言葉で表現するならば、その主体は判断能力を持つ。

例えば、「俺はナチスを悪いと儒教系統の善悪で判断する。」が存在する。「俺はアメリカ大陸の多様性を悪いと儒教系統の善悪で判断する。」が存在する。

【儒教系統の人間と人称】
彼は儒教系統の人間と人称を次のように信仰する。

(1)もしある主体が自己の意識を把握していると表現しないならば、彼はその主体は自己の意識を持っていないと信仰する。
(2)もしある主体が自己の主体を把握しているとを表現しないならば、彼はその主体の自己の主体を持っていないと信仰する。
(3)もしある主体が自己の意識を把握していると表現しないならば、彼はその主体の意識は儒教系統の社会、またはx教系統の社会に所属していないと信仰する。
(4)もしある主体が自己の主体を把握していると表現しないならば、彼はその主体の主体は儒教系統の社会、またはx教系統の社会に所属していないと信仰する。

場合により、彼は上記の把握しているを存在しているに変える。ある主体の意識が儒教系統の社会に所属していないとは、その意識が儒教系統の社会には存在しないことである。主体も同様である。分析的には、たとえある主体が自己の意識や主体を表現しなかったとしても、彼らの反応を見ると、彼らは意識や主体を持っている可能性がある。しかし、自己の意識や主体の存在を表現しないならば、意識や主体は人間社会には存在しない。

これは次に似ている。たとえある主体が言論の自由や民主制について語り、西欧文明に所属しているように装うとしても、もしその主体が「俺は西欧文明に所属している。」と表現しないならば、第三者はその主体が西欧文明に所属していると認識する必要がない。その第三者は白人と対峙したくないが、西欧文明に関する責任を負いたくないので、文明的な所属を誤魔化すという匂わせに付き合う必要はない。

または、たとえある主体がアメリカ先住民と同じモンゴロイド人種であるとしても、もしその主体が「俺は俺の人種をモンゴロイド人種と認識する」と表現しないならば、白人はその主体がモンゴロイド人と認識する必要がない。実際、大和民族を含む東洋人は自己の人種を白人に伝達しないので、誰も彼らをアメリカ先住民と関連づけようとしない。アメリカ先住民と同じ、または近縁種のモンゴロイド人が存在しないものとなっている。

同様に、もしある主体が自己の意識や主体を把握しているならば、その主体は「俺は自己の主体を把握している。」と「俺は自己の意識を把握している。」と表現する。このとき、その主体と意識は儒教系統の社会、またはx教系統の社会に所属する。当然、自然科学を含む分析では、他者も意識や主体を持っている可能性が高いと結論づけられるだろう。ただ、人間社会では、この可能性は対峙及び責任回避のための文明的な所属の誤魔化しと同じである。彼らは意識や主体を持っているように振舞っているだけである。

(5)もしある主体が自己の認識と表現しないならば、彼はその主体は自己の認識を持っていないと信仰する。
(6)もしある主体が自己の判断を表現しないならば、彼はその主体の自己の判断を持っていないと信仰する。
(7)もしある主体が自己の意志を表現しないならば、彼はその主体は自己の意志を持っていないと信仰する。
(8)もしある主体が自己の目的を表現しないならば、彼はその主体の自己の目的を持っていないと信仰する。
(9)もしある主体が自己のxを表現しないならば、彼はその主体の自己のxを持っていないと信仰する。

考え方は上記と同様である。

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