忽那賢志(kutsunasatoshi)による名誉毀損訴訟は正当であるのか?〜コロ助(@jBUb5sTfeod9bMM)〜
上記の利用者によると、忽那賢志は一般人(コロ助?)を名誉毀損か何かで訴えているらしい。俺は上記の利用者自身を信用していないので、上記の呟きそれ自体が誤情報(嘘)である可能性もある。しかし、もし本当であるならば、俺は忽那賢志の行為に強烈な違和感を覚える。
以下では、俺は上記の呟きを実際と便宜的に仮定して、俺の違和感を提示する。なお、俺は忽那賢志という人物を知らなかった。だから、俺は彼がなぜ批判されいるのかも知らない(人違いだったら、失礼)。
【忽那賢志】
【学問の自由と大学の自治】
(儒教系統の認識)
もし忽那賢志が一般人を名誉毀損で気軽に訴えるならば、大学の自治や学問の自由は不要である。
なぜなら、上記によると、忽那賢志は学者であり、大学の自治や学問の自由という恩恵を独占的に受けてきた。また、実質的には、学者は一般人や会社員と異なり、非常に自由に発言することを独占的に許されてきた。
にも関わらず、もし忽那賢志が批判されたという理由で訴えるならば、彼は大学の自治や学問の自由の恩恵を受けるべきでない。言論による反論でなく、裁判に持ち込むならば、学問の自由も大学の自治も不要であり、一般人や会社と同じにするべきである。
一部の医者は権利や名誉権という言葉を使用して、彼らの訴えを正当化している。しかし、大学教員の場合は別である。もし彼らが一般人と同じように権利を主張するならば、学問の自由も大学の自治という特権も廃止するべきである。そうでない場合、不公平及び非相互的な状態が生じる。
特に、ワクチンのような命にも関わる非常に繊細な話題に関して、医者、かつ学者の忽那賢志が一般人を名誉毀損で訴えることは強烈な違和感を人々に与えるだろう。大学の自治や学問の自由はワクチンのような非常に繊細な話題のためにあるように思える。
【医師免許】
(儒教系統の認識)
医者が一般人を"気軽に"訴えるのは不公平であるように感じる。
なぜなら、医者は医者免許で公的に保護されている。その背後には、政府が存在する。さらに、医者はおそらく医者の数を意図的に制限して、独占的な状態を作っている。だから、彼らは何があっても、食いっぱぐれないとよく理解している。
そのため、医者は安心して、一般人を非常に有利な状態で訴えているように思える。たとえ医者が裁判で負けるとしても、彼らは痛くもかゆくもないように思える。だから、医者の一部は彼ら自身の優位性を理解しているので、妙に好戦的であるように思える。
上記に対する違和感は、富裕層やすでに上がったお金持ちが一般人を名誉毀損で訴えまくっているような状況である。彼らは転職や会社や客を気にしなくて良いので、気に食わない人間を片っ端から訴えることができる。この状態も、上記と同様に、不公平及び非相互的であるように思える。
医者や弁護士も免許で独占的に保護されているので、彼らもまた大学教員と同じように実名で好き勝手に話しているように思える。彼らの発言や立ち振る舞いは会社員とは非常に異なる。ある意味、殿様商売。
【なぜ医者が無敵状態になったか?】
【原因】
(儒教系統の認識)
大和民族はちゃんとした貴族や統治者を嫌うので、極めて不公平で非相互的な状態を彼ら自身で導く。
上記の引用は5chであるが、平民(百姓)がこのような不公平で非相互的な状況を彼ら自身で作り出しているように思える。例えば、彼らはちゃんとした貴族や統治者を嫌う。彼らは統治や管理を反権力や独裁と言って拒絶する。
その結果、学校で教師が体罰という名の暴力を振るって、生徒や学生や苦しんだりする。教師が組みを管理できず、学級崩壊になったりする。今回の例では、医者や学者や富裕層が免許や自由や自治、お金で保護されながら、一方的に訴えてくる。その逆は難しくなっている。
もし彼らがその状態を嫌うならば、彼らは階層と階級を形成して、ちゃんとした貴族(統治者階級)やちゃんとした統治者を求めるべきである。医者も学者も貴族でなく運動選手に近いので、彼らは社会における公平や相互性を認識しない。
運動選手は自分に有利になるように、試合を組み立てる。それが公平であるのかを気にするのは、監督や審判や統治者の役割である。同様に、裁判が公平であるのか、相互的であるのかを気にするのは、貴族や統治者階級の役割であり、それは医者や学者でない。
【コロ助】
【発言内容】
(儒教系統の認識)
コロ助のどの発言が問題であるのかが不明である。
俺はコロ助の呟きを少し読んだが、問題があるような発言は見当たらなかった。彼は彼の発言を消去したかもしれない。にも関わらず、平民は「ざまあ」や「誹謗中傷を続けた成れの果て」と言っている。
上記のきょうはコロ助のどの発言が具体的に名誉毀損に該当するのかをあげられるのだろうか?コロ助は呟きを消去したのかもしれないが、彼は忽那賢志にそもそもあまり言及していないように思える。
上記の反応を見ると、平民の娯楽が処刑であったのがよくわかる。大和民族の一部はコロ助が具体的にどんな発言をしたのかを知らないのに、訴えられて、謝罪している様子を見て、「ざまあ」と喜んでいる。
彼らは他人が叩かれるのを見たいだけに見える。彼らにとって、裁判は処刑か何かであるのだろう。彼らはコロ助が(おそらく不公平な)高額な金額を請求されて、困っているのを見て喜んでいる。彼の発言が100万円の損害を与えたのかを誰も気にしていない。
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