決定行為と平民(大衆、チンピラ)と貴族〜俺ら(katotoorera)の政治信条〜
以下では、筆者は決定行為と平民(大衆、チンピラ)について述べるつもりである。平民(大衆、チンピラ)には、決定能力がない。貴族と平民では、意志が異なる。決定するという行為には、意志が必要である。
画像:https://unsplash.com/ja/写真/JG35CpZLfVs
1.0 平民(大衆、チンピラ)
1.1(儒教系統の認識)
平民(大衆、チンピラ)は物事を決定することができない。
平民(大衆、チンピラ)は物事を決定することができない。彼らは物事を説明するだけである。
例えば、彼らは日本国をキリスト教系統の国家と決定するのかを表現することができない。なぜなら、その決定は自然界には埋め込まれていない。そのため、彼らは「君は日本国をキリスト教系国家と決定するのか」という質問に回答することができない。
彼らは日本国のあり方をただ説明するだけである。彼らが日本国がキリスト教系統の国家であるのか、そうでないのかを説明することができる。しかし、彼らはそれを決定することができない。
2.0 貴族
2.1(儒教系統の思考規範)
もしある主体が貴族であるならば、その主体は物事を決定する能力を持つ。
もしある主体が貴族であるならば、その主体は物事を決定する能力を持つ。もしある主体が貴族であるならば、その主体は物事を決定する能力を発現する。または、もしある主体が貴族であるならば、その主体は物事を決定することができる。
対偶をとると、もしある主体が物事を決定する能力を持たないならば、その主体は貴族でない。ここでの貴族は統治者階級、または創造主階級である。
例えば、貴族は「俺は日本国を神道・儒教系国家と決定する」と彼らの言葉で表現する。そして、平民は貴族の決定に沿って、「日本国は神道・儒教系統の国家」と国家であると、他者に説明することができる。
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