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x教系統の〜に関するまとめ〜俺ら(katotoorera)の政治信条〜

 以下では、俺はx教系統の〜に関するまとめを提示する。ただし、俺は教系統の善悪については除外する。

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x系統の認識

 以下では、俺はx系統の認識を提示するつもりである。一般的には、ホモ・サピエンスの知覚は互いにほとんど同じであると感じられている。しかし、世界に対する認識や(善悪の)判断は互いに異なると感じられている。

そのため、認識や善悪に関する正当性の問題が生じる。つまり、どの認識が正しいのか、どの判断が正しいのか、そしてどの善悪が正しいのかという問題が生じる

 俺の認識 互いに異なるホモ・サピエンスは互いに異なる認識を持つ。

 互いに異なるホモ・サピエンスは互いに異なる認識を持つ。俺がホモ・サピエンスと呼ばれる個体を見ると、ホモ・サピエンスは世界に対するそれぞれの認識を持っていることを認識する。例えば、何がいじめと認識されるのか、何が名誉毀損と認識されるのかは個々のホモ・サピエンスによって異なる。

文明や宗教では、民族や人種に関する話は人種や文明や宗教における認識に非常に強く認識する。例えば、西洋文明では、ユダヤ教徒の白人がまるでユダヤ人のように人種的に認識(または信仰)されているように見える。けれども、宗教的に無関係な有色人のほとんどはユダヤ教徒の白人をユダヤ教を信仰してきた白人(人種形質的には白人)と認識している。

上記を一般化すると、誰が大和民族であるのか、誰が東洋小人種であるのか、誰がモンゴロイド人種であるのか、そして誰がホモ・サピエンスであるのかは人種や文明や宗教によって非常に強く影響されることになる。つまり、誰が大和民族であるのかはx系統の認識に依存する。または、誰がアイヌ民族(縄文民族)であるのかはx系統の認識に依存する。

 その他には、公平や平等に関する認識も互いに異なるように見える。何が平等であるのか、何が公平であるのかは人種や文明や宗教によって非常に強く影響されることになる。つまり、x系統の認識における平等やx系統の認識における公平が存在する。

 俺の認識 x系統の認識とは、x文明またはx宗教に所属する認識である。

 x系統の認識とは、x文明またはx宗教に所属する認識である。xには、文明や宗教が代入される。例えば、儒教系統の認識とは、東洋文明に所属する認識である。ヒンド系統の認識とは、インド文明に所属する認識である。

(西洋)キリスト教系統の認識とは、西洋文明に所属する認識である。(西洋)ユダヤ教系統の認識とは、西洋文明に所属する認識である。イスラム教系統の認識とは、中東文明に所属する認識である。

国家や社会、善悪がどこかの文明や宗教に所属していて、それらがx系統の国家、x系統の社会、そしてx系統の善悪であるように、認識もまたどこかの文明や宗教に所属していて、それらがx系統の認識である。

 俺の判断 俺は儒教系統の認識をもち、俺は儒教系統の認識を善と判断する。

 俺は儒教系統の認識をもち、俺は儒教系統の認識を善と判断する。しかし、現在では、東洋文明における儒教系統の認識が何であるのかは明確には決定されていない。この儒教系統の認識の主体は東洋文明における東洋人である。

彼らの認識が東洋文明では正しい認識である。東洋文明における儒教徒の東洋人が認識する認識が正しい認識である。東洋文明では、儒教徒の東洋人が何が平等であるのかを認識して、何が公平であるのかを認識する。さらに、儒教徒の東洋人が誰が大和民族であるのか、誰が東洋小人種であるのか、誰がモンゴロイド人種であるのか、そして誰がホモ・サピエンスであるのかを認識する。

x系統の責任

 大和民族は責任を他人に取らせることを好む民族である。しかし、責任は宗教に密接に関係する。ユダヤ教における責任とキリスト教における責任、仏教における責任と儒教における責任、そしてヒンドゥー教における責任は互いに異なるだろう。以下では、俺はx系統の責任を提示するつもりである。

 俺の儒教系統の認識 一般的に、責任とはx系統の責任である。

 一般的に、責任とはx系統の責任である。xには、宗教が代入される。つまり、宗教が異なる時、責任対する定義や認識、そして信仰が異なる。

つまり、キリスト教系統の責任は仏教系統の責任と異なる。同様に、仏教系統の責任は儒教系統の責任と異なる。一般的に、責任は(交通事故や社会的事故)応答義務と後始末義務であるように見える。

大和民族は他人に責任を取らせることを非常に好む。けれども、彼らは責任の概念を理解していない。彼らの本音では、彼らは他人を土下座させて、歪な性欲及び快感を感じたいのだろう。

 俺の儒教系統の認識 もしある主体が責任の所在(位置)を主張するならば、その主体はどの宗教系統の責任であるのかを表現する必要がある。

 もしある主体が責任の所在(位置)を主張するならば、その主体はどの宗教系統の責任であるのかを表現する必要がある。その主体は「キリスト教系統の責任が誰々に存在する」と言葉で表現する必要がある。

口語的には、次である。主体は「俺は宗教xを信仰する」と述べる。次に、その主体は「現象αに関して、キリスト教系統の責任が誰々に存在する。」と述べる。このとき、責任に対する主張が初めて成立する。

 俺の儒教系統の認識 俺らは責任を儒教系統から把握する。

 俺らは責任を儒教系統から把握する。。つまり、俺らは儒教系統の責任のみを取り扱う。正確には、俺らは儒教系統の責任のみを取り扱い、儒教系統の責任のみを果たす。

例えば、儒教における責任を(交通事故や社会的事故)応答義務と後始末義務と仮定する。その時、俺らは東洋文明における礼に反した結果として生じた社会的事故に対する応答義務と後始末義務のみを実行する。

なお、俺らは責任を応答義務と後始末義務に分ける。応答義務は社会的な事故からのひき逃げ防止である。後始末義務は社会的事故の後片付けを実行するためである。個人的には、さらに、俺は予防義務を付加したい。けれども、現時点では、責任が何であるのかは完全には決まっていない。東洋文明における責任は義務に近いように見える。

x系統の問題

 日本国の報道機関や謎の政治団体は本来問題でないものを問題化させて炎上を誘導する。例えば、俺らは政治家の漢字の読み間違いは本当に問題であるのかを疑問に思う。俺らは日本国の報道機関や謎の政治団体は支持率を単に下げて足を引っ張りたいだけでないかと勘ぐる。

以下では、俺らはこの問題を解決する手法を提示する。結論では、問題を指摘する側はx系統の問題であることを彼ら自身の言葉で表現する必要がある。

 俺の認識 もしある主体が問題を指摘するならば、その主体はある現象がどの宗教の系統から見て問題であるのかをその主体自身の言葉で表現する必要がある。

 もしある主体が問題を指摘するならば、その主体はある現象がどの宗教の系統から見て問題であるのかをその主体自身の言葉で表現する必要がある。つまり、その主体は「この現象はキリスト教の善悪から見て問題である」と言葉で表現する必要がある。

例えば、ハンド行為はサッカーから見て問題であるが、バレーから見て問題でない。同様に、ある行為はキリスト教から見て問題であるが、儒教から見て問題でない。つまり、何が問題であるのかは宗教や文明によって互いに異なる。なお、x系統のxには、宗教が代入される。

俺の認識 もしある主体がある現象がどの宗教の系統から見て問題であるのかをその主体自身の言葉で表現することができないならば、その問題は問題でない。

 もしある主体がある現象がどの宗教の系統から見て問題であるのかをその主体自身の言葉で表現することができないならば、その問題は問題でない。だから、俺らはその指摘に対処する必要はない。当然、その主体が問題を指摘するとき、その主体は主体自身の宗教a及びそのa系統の善悪を表現する必要がある。

口語的には、次である。主体は「俺は宗教xを信仰する」と述べる。次に、その主体は「現在、現象αが存在して、そのαは宗教x系統(の善悪)から見て問題である」と述べる。このとき、問題に対する指摘が初めて成立する。

 俺の認識 俺らは現象を儒教系統から把握する。

 俺らは現象を儒教系統から把握する。つまり、俺らは儒教系統の問題のみに対処する。正確には、俺らは儒教系統の善悪に関する問題のみに対処する。

例えば、差別はキリスト教系統に関する問題である。しかし、差別は儒教系統から見た問題でない。だから、俺らは差別問題を(儒教系統の)問題と認識しない。

x系統の富について

岸田文雄は日本型資本主義を提唱している。けれども、俺は岸田文雄の富の規範を知らない。もっと言うと、俺は岸田文雄の宗教も知らない。

だから、俺は岸田文雄が日本国の富をどの宗教系統の富の規範で管理・統治するのか疑問に思っていきた。以下では、俺はこの種の疑問を解決するための俺の政治信条を提示する。

 俺の認識 任意の富はどこかの文明に所属する。

 任意の富はどこかの文明に所属する。または、任意の富はどこかの文明やどこかの宗教、またはどこかの国家やどこかのシステムに所属する。つまり、ある富がどこの文明にもどんなシステムにも所属しないことはない(と約束する)。

例えば、日本国の富は東洋文明か西洋文明、または中東文明に所属する。もし日本国の富が東洋文明に所属するならば、その富は東洋文明における富の規範で管理される。もし日本国の富が西洋文明に所属するならば、その富は西洋文明における富の規範で管理される。

俺はどこにも所属してない富を正当と認識しない、かつ正当と認めない。俺は富は宗教や文明の産物であると認識する。運動選手がどこかの競技に必ず所属するように、富もまたどこかの文明(宗教)に必ず所属する。

 俺の認識 x系統の富とは、x文明またはx宗教に所属する富である。

 x系統の富とは、x文明またはx宗教に所属する富である。xには、文明や宗教が代入される。例えば、儒教系統の富とは、東洋文明に所属する富である。仏教系統の富とは、東洋文明の補助に所属する富である。ヒンドゥー系統の富とは、インド文明に所属する富である。

(西洋)キリスト教系統の富とは、西洋文明に所属する富である。(西洋)ユダヤ教系統の富とは、西洋文明に所属する富である。イスラム教系統の富とは、中東文明に所属する富である。

国家や社会、善悪がどこかの文明や宗教に所属していて、それらがx系統の国家、x系統の社会、そしてx系統の善悪であるように、富もまたどこかの文明や宗教に所属していて、それらがx系統の富である。

 俺の認識 もしある富がx系統の富であるならば、その富はx系統の富の規範によって統治される。

 もしある富がx系統の富であるならば、その富はx系統の富の規範によって統治される。例えば、もしある富が儒教系統の富であるならば、その富は儒教系統の富の規範によって統治される。もしある富が仏教系統の富であるならば、その富は仏教系統の富の規範によって統治される。

もしある富がキリスト系統の富であるならば、その富はキリスト系統の富の規範によって統治される。もしある富がイスラム系統の富であるならば、その富はイスラム系統の富の規範によって統治される。もしある富がヒンドゥー教系統の富であるならば、その富はヒンドゥー教系統の富の規範によって統治される。

重要なことはある富がどの宗教における富の規範に沿って扱われているのかである。個人的には、もしある主体が富を扱う規範を持たないならば、その主体は富を所有するべきでない。

x系統の所有

 以下では、俺は所有を提示する。俺が白人を観察する時、異なる宗教は異なる系統の所有行為を授けるように感じた。所有行為に対する印象は、「主体 〜 富」であり、「〜」が所有を表現する。つまり、所有している状態は一種の関係である。

 俺の認識 x系統の所有とは、ある主体が富をx系統の規範に沿って所有する行為である。
 x系統の所有とは、ある主体が富をx系統の規範に沿って所有する行為である。xには、宗教や文明が代入される。例えば、儒教系統の所有とは、ある主体が富を儒教系統の規範に沿って所有する行為である。

その他には、キリスト系統の所有とは、ある主体が富をキリスト教系統の規範に沿って所有する行為である。ヒンドゥー系統の所有とは、ある主体が富をヒンドゥー教系統の規範に沿って所有する行為である。仏教系統の所有とは、ある主体が富を仏教系統の規範に沿って所有する行為である。
日常的には、ある主体が富を所有している状態とは、その主体がその富をその主体の意志で(自由に)運動させることができる状態である。

 俺の判断 東洋文明では、俺は儒教系統の所有を善と判断する。

 東洋文明では、俺は儒教系統の所有を善と判断する。つまり、東洋文明では、東洋人は富を儒教系統の規範に沿って所有する必要がある。または、東洋文明では、東洋人は富を仏教系統の規範に沿って所有する必要がある。あるいは、神道や道教やテングリ信仰などの民族信仰でも良い。

現時点では、俺は上記の正当化を考えていない。なぜなら、現時点では、俺は儒教系統の所有が何であるのかを詳細に提示することができない。けれども、俺は儒教系統の所有を東洋文明における礼に沿っている(沿礼)と審判するので、俺は儒教系統の所有を善と判断する。

東洋文明というシステムの目的が礼に沿った世界を実現することであると仮定するとき、その目的に沿った富の取り扱い(規範)が善である。そして、その目的に反する富の規範が悪である。

 俺の認識 無宗教であるとは、ある主体がx系統の所有を持っていない状態である。

 無宗教であるとは、ある主体がx系統の所有を持っていない状態である。言い換えると、その主体が自己の富を取り扱う富の規範を持っていないことである。つまり、無宗教であるとは、その主体が動物的であることである。

だから、たとえ俺がその主体が触れているものを獲得するとしても、その行為は強奪でない。なぜなら、その主体には所有行為それ自体が存在していない。所有行為や強奪が成立するためには、その主体が宗教、つまりx系統の富の規範やx系統の所有を持っている必要がある。

無宗教であることは熊であることと同じである。人間が熊が触れた対象に触れると、その熊はその対象を人間によって奪われるかもしれないと感じて、人間を敵と認識して、襲ってくる。しかし、熊は自己の宗教を持たないので、x系統の所有を持たない。たとえ人間がその対象を熊から取り上げるとしても、その行為は窃盗行為にならないように、たとえ俺が無宗教の動物から何かを取り上げるとしても、その行為は窃盗行為にならない。

x系統の約束(契約)

俺の認識 異なる人種や文明や宗教は異なる約束観(契約観)を持っている。

 異なる人種や文明や宗教は異なる約束観(契約観)を持っている。例えば、ロシアは国際条約を守らないと批判されているが、おそらくロシアは西洋と異なる約束観を持っているからであるだろう。当然、国際条約それ自体がキリスト教の西洋文明系統の約束観(契約観)である。

異なる人種や文明や宗教は異なる約束観(契約観)を持っているので、俺らは異教徒と約束を結ぶ時、俺らは相手の宗教、つまり相手がどの宗教系統の約束観(契約観)を持っているのかを知る必要がある。そして、俺らは自己の宗教系統の約束観(契約観)を相手へと伝達する必要がある。

 俺の認識 x系統の約束(契約)とは、x文明またはx宗教に所属する約束(契約)である。

 x系統の約束(契約)とは、x文明またはx宗教に所属する約束(契約)である。例えば、儒教系統の約束(契約)とは、東洋文明に所属する約束(契約)である。ヒンドゥー系統の約束(契約)とは、インド文明に所属する約束(契約)である。

(西洋)キリスト教系統の約束(契約)とは、西洋文明に所属する約束(契約)である。(西洋)ユダヤ教系統の約束(契約)とは、西洋文明に所属する約束(契約)である。イスラム教系統の約束(契約)とは、中東文明に所属する約束(契約)である。

国家や社会、善悪がどこかの文明や宗教に所属していて、それらがx系統の国家、x系統の社会、そしてx系統の善悪であるように、約束(契約)もまたどこかの文明や宗教に所属していて、それらがx系統の約束(契約)である。

 俺の判断 俺は儒教系統の約束(契約)をもち、俺は儒教系統の約束(契約)を善と判断する。

 俺は儒教系統の約束(契約)をもち、俺は儒教系統の約束(契約)を善と判断する。しかし、現在では、東洋文明における儒教系統の約束(契約)が何であるのかは明確には決定されていない。

西洋と東洋における異なる約束観としては次である。西洋では、約束は自由意志による合意に基づく。そこでは、ある物事が自由意志によって認められるのかが重要になるように見える。

それに対して、東洋では、相互的な認識が非常に重視される。合意はその後である。たとえ合意が成立するとしても、もし共通認識が形成されないならば、その契約は無効であると感じられるように見える。

 西洋と東洋の違いは二重国籍の中に現れる。東洋人は二重国籍を機会不平等と認識するのかを優先する。それに対して、西洋人は二重国籍を(無理やり)認めさせようとする、たとえそれが機会不平等であるとしても。東洋人は合意をあまり重視せずに、共通した認識の形成を優先する。

また、創造主との契約のためか、西洋人は無意味な法律を延々と守り続ける。彼らは法の意味を考えずに、彼らは法律に対する違反のみを考える。そこには、法の意味や法律に対する認識や自己の判断は介入しないように見える。

x系統の約束(契約)とx系統の意志

 俺の認識 約束(約束する)とは、ある人間ともう一方の人間が共通した存在や状態や運動をその人間の意志で必ず実現する(ことを誓う)行為である。

 約束(約束する)とは、ある人間ともう一方の人間が共通した存在や状態や運動を人間の意志で必ず実現する(ことを誓う)行為である。つまり、何かを実現することを誓う行為である。期日までにx円を返す約束とは、借り手がそのお金を期日までに返すことを借りての意志で実現する(ことを誓う)行為である。

上記では、約束の実現には、人間の意志、つまり人間の力が必要とされた。約束を果たすためには、人間の意志が要求される。この時、俺は次のように考えることができる。もしx系統の約束が存在するならば、約束は意志によって実現されるので、x系統の意志も存在するだろう...と。

 俺の認識 x系統の約束はx系統の意志によって実現される。

 x系統の約束はx系統の意志によって実現される。例えば、儒教系統の約束は儒教系統の意志によって実現される。キリスト教系統の約束はキリスト教系統の意志によって実現される。イスラム教系統の約束はイスラム教系統の意志によって実現される。ユダヤ教系統の約束はユダヤ教系統の意志によって実現される。仏教系統の約束は仏教系統の意志によって実現される。

上記を解釈すると、意志が異なる、つまりa系統の意志とb系統の意志が存在するとき、約束の実現も互いに異なり、a系統の約束とb系統の約束が存在することになる。実際、人種や文明や宗教が異なるとき、契約や約束に対する価値観それ自体が互いに大きく異なるので、国家xは約束を守らないという国際的な問題が生じている。

例えば、日本国と韓国は国際条約に関する約束を守る、守らないという問題を抱えている。最近では、(文明的にも宗教的にも人種的にも等しいけれども...)フランスとオーストラリアが潜水艦に関する契約でもめていた。

 俺の認識 もしx系統の意志が存在するならば、x系統の力が存在する。

 もしx系統の意志が存在するならば、x系統の力が存在する。この流れは「x系統の力→x系統の意志→x系統の実現」である。正確には、意志は力の能力であるように見える。より正確には、意志とは、力が発現する前の潜在的な状態である。この場合、「x系統の意志→x系統の力→x系統の実現」となる。

上記の意志や力が父系による民族に関係するのかは不明である。けれども、もし意志や力が父系による民族に関係していたならば、非常に興味深い。なぜなら、その時、R系統の意志やR系統の力を考えることができる。この時、R系統の意志やR系統の力によるR系統の運動を考えることもできるだろう。

x系統の教育システムについて

 以下では、俺は教育システムについて述べる。大和民族は教育それ自体を認識していない。なぜなら、彼らは自己の教育システムがキリスト教系統であるのか、仏教系統であるのかすら認識していない。

 俺の認識 互いに異なる人種や宗教や文明は互いに異なる教育システムを持つ。

 互いに異なる人種や宗教や文明は互いに異なる教育システムを持つ。例えば、儒教における教育システムはキリスト教における教育システムと異なる。キリスト教における教育システムはイスラム教における教育システムと異なる。

具体的には、x系統の善悪とx系統の法体系とx系統の刑罰とx系統の富の規範とx系統の性規範が異なる。キリスト教では、男女平等が善であるかもしれないが、儒教ではそうでない。さらに、人種が異なる時、x系統の認識も異なる。つまり、教育システムが互いに異なる時、教育される内容それ自体が異なる。

 俺の認識 x系統の教育とは、x文明またはx宗教に所属する教育である。

 x系統の教育とは、x文明またはx宗教に所属する教育である。xには、文明や宗教が代入される。例えば、儒教系統の教育とは、東洋文明に所属する教育である。ヒンド系統の教育とは、インド文明に所属する教育である。

(西洋)キリスト教系統の教育とは、西洋文明に所属する教育である。(西洋)ユダヤ教系統の教育とは、西洋文明に所属する教育である。イスラム教系統の教育とは、中東文明に所属する教育である。

国家や社会、善悪がどこかの文明や宗教に所属していて、それらがx系統の国家、x系統の社会、x系統の認識、そしてx系統の善悪であるように、教育もまたどこかの文明や宗教に所属していて、それらがx系統の教育である。

俺の判断 俺は儒教系統の教育をもち、俺は儒教系統の教育を善と判断する。

俺は儒教系統の教育をもち、俺は儒教系統の教育を善と判断する。しかし、現在では、東洋文明における儒教系統の教育が何であるのかは明確には決定されていない。この儒教系統の教育の主体は東洋文明における東洋人である。彼らの教育が東洋文明では正しい教育である。

少なくとも、儒教系統の教育では、男女平等は善でない。儒教系統の教育では、礼が善である。さらに、自由主義や民主主義や国民国家は儒教系統の教育では教育される必要がない。なぜなら、それらは地中海文明系統の教育である、またはそれらはキリスト教系統の教育である。

ホモ・サピエンスの雌とx系統の女性(女)

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