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アリか? キリギリスか?

「アリとキリギリス」という童話がある。

アリとキリギリスのあらすじ
ある暑い夏の日、キリギリスは歌いながら得意のバイオリンを奏で、夏を謳歌していました。そこに食べ物を懸命に運ぶアリの行列が通りかかります。「暑い中、なぜ働いているんだろう」と思ったキリギリスはアリたちに尋ねました。すると、アリたちは「食料がなくなってしまう冬に備えて、食料を備蓄している」といいます。キリギリスにはそんなアリたちが信じられません。
「まだ夏なのに冬の準備なんて!」
 やがて秋が来てもキリギリスは楽しくバイオリンを弾いて歌い続け、対照にアリたちは冬の準備に余念がありません。そして、いよいよ冬が到来しました。
 食べ物が取れなくなり、夏、秋と遊び呆けていたキリギリスにはもちろん備蓄食料なんてありません。空腹と寒さで困窮しているキリギリスは、冬であるにもかかわらず暖かそうに暮らしている家を見つけます。その家をのぞき込み見たものは、キリギリスが音楽に興じている間も働き続けたアリたちの姿でした。やせ細り、餓死寸前のキリギリスは、アリたちに食べ物を分けてほしいと懇願します。しかし「夏に歌っていたなら、冬は踊ったらどうですか?」とアリたちは取り合ってくれません。
アリに見放されたキリギリスは、空腹を抱えたまま凍死してしまいました。

ダ・ヴィンチwebより

この物語は、アリのように将来のために一生懸命働いてしっかりと備えておくことの重要性が教訓として説かれているわけですが、実際のところどちらが大切なのか、これは難しい問いだなと感じる。

この物語では、冬を越せずに死んでしまうというキリギリスですが、”今”の一瞬を大切に、刹那的に生きるというのも、1つの生き方。

一方、アリのように将来の危機を乗り越えるために、毎日コツコツと頑張っていく(が、華やかな楽しさはない)というのも、1つの生き方。


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なんとなく感覚的に、日本人の多くはアリのような生き方をしているような気がする。もちろん、完全にアリというわけではなく、キリギリス要素もありつつも、傾向としてはアリ寄りという感じだろうが。

老後2,000万円問題的な話もそうだけれど、漠然とした将来不安に備えるために、今の楽しみを少し諦めたり先送りしているようなイメージ。

逆にキリギリス的な生き方をしている人というのは、周りからちょっと引かれつつも、うっすら憧れられているような、、、なんとなくそういうイメージ。


思うに”漠然とした将来不安”というのが、問題を複雑化しているのである。

例えば、10年後に”絶対に”1,000万円必要になる。1,000万円以上でも以下でもなく、きっかり1,000万円必要になることが100%の確率で分かっているのであれば、多くの人は1,000万円までは頑張って貯めるかもしれないけれど、今を犠牲にしてまでそれ以上を貯めようという人は限られるように思う。

これが”少なくとも1,000万円必要”くらいのアバウトさだったらどうだろうか。
1,000万円きっちりではなく、バッファをもった貯蓄を目指すことになる。今の楽しさを犠牲にする範囲が大きくなっても、将来の不安に備える人が多いような気がする。


しかし、不安の解消に努めたとして、幸福が得られるかどうかというのは、また別の話なのである。つまり目の前の確実な楽しみや幸福を手にするキリギリス的な生き方も強ち否定はできない。

結局のところ「何のために」という目的が定まっているかどうかが重要なのだろう。自分の人生軸とでもいえばいいのだろうか。自分がどのように生きたいのか、そのために守るべきものは何か、諦めるべきものは何か。逆に、絶対に諦められないものは何か。

そういった自分なりの軸や基準が定まっていれば、アリ的な生き方でもキリギリス的な生き方でも後悔の少ない人生が歩めるのではないかと思う。

まぁ、私はわりとキリギリス的な生き方をしてきた方なので、キリギリスの方を持ちがちなのかもしれないけれど。

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