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可哀想の正体を考えてみた

先日、
ネットのニュースを見ていてふと気になったことがある。

そのニュースの概要はこんな感じ。

ある番組内でエピソード動画を見た後に、タレントさんがその動画に関するトークをしていた。
そこに進行役の女子アナがタレントさんのトークに付随する内容を被せて話したところ、タレントさんは話に割って入られたと腹を立て、「トークに割ってはいられるのが好きではない」と、その場で女子アナに指摘をして ムスッとした態度を取った。
この一連のやり取りの様子について、タレント側のパワハラではないか?指摘された女子アナが可哀想。という言及がSNSに寄せられた。

というようなものだった。
私はその番組も見ていないので、どんな状況だったのかは全く知らない。なので、タレントの言動がパワハラに当たるかどうかについては、何もコメントすることはない。


気になったのは、ネット上の反応として上がっていた「可哀想」というコメントについて だ。

確かに人前で指摘や叱責を受けると、メンツは潰れるし、恥ずかしい気持ちになることもあるし、辛い経験になり得ると考えると「可哀想」というのは、確かにという感じもする。


では、この指摘された女子アナは本当に可哀想だったのだろうか。
物事の受け取り方というのは、本当に千差万別で、ある人にとっては可哀想と思うことであっても、別の人にとっては有難いと感謝しているケースもある。熱意ある指導者からの助言とは往々にして厳しいことがある。即ち、ひょっとしたらこの女子アナはめちゃくちゃ感謝していた可能性だってある。
#目に映るもの”だけ”が真実とは限らない


また、
「わたし〇〇されて可哀想なんです」と、自分から可哀想を申告するケースも少ないように思う。

自分の置かれている状況や立場について、大変だとか、辛いとかっていうことを、自分から申告して相談するということはよくある。

けれど、「実は、、、わたし可哀想なんです」と切り出されても、なんとなく 微妙な感じがしてしまうのは私だけだろうか。
#共感力が足りない?


もし、
「可哀想」が自分で感じるものではないとするならば、
可哀想というのは、周りの人の心の中にある感情であり、それは即ち主観なのだということになる。


気になったので、辞書でも調べてみる。

かわい‐そう〔かはいさう〕【可▽哀相/可▽哀想】
[形動][文][ナリ]同情の気持ちが起こるさま。ふびんに思えるさま。「—な境遇」「彼ばかり責めては—だ」「お—に」
[補説] 「可哀相」「可哀想」は当て字。
weblio 辞書

なるほど。
やはり「可哀想」を感じるのは、本人というよりも周囲の人の同情心によるものなのですね。
#なんかスッキリした。


時々、人から可哀想だね と言われたことがきっかけで「そうか、自分は可哀想なのか」と不意に自覚してしまうことがある。

けど、つまるところ自分の状況や目の前の事象をどう捉えて、どう解釈するかは自分次第なのだから、周りの人からどれだけ可哀想と同情されたとて、自分がそう感じていないならば「実はそんなに大したことないけどね」と心の中でニヤニヤしてればいいし、逆に本当に辛い時であれば「そうなんです、辛くて大変なんです。」と切り出せば「可哀想」という言葉の代わりに助言やサポートの声が聞こえてくるか、可哀想ヤジウマみたいな人はスーっと引いていく。
#可哀想ヤジウマって…また適当な言葉を生み出してしまった。。


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というわけで、今日は「可哀想」についてゆるりと考えてみました。

優しい言葉のようで、使い方を間違えるとより大きな可哀想を呼んでしまいそうな言葉だと、自分の中で着地した感じです。

難しいな言葉って。

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