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一日中車の通らない交差点の信号は守るべきか?倫理とルールと正しさを考える。

また朝から変なことを考えていた。

正しさとは何か。

100人の日本人に「法律は守った方がいいですか?」と問えば、恐らく100人が守った方がいいと答えるだろう。

私だってそう思う。けれど同時に小さな疑問も感じている。

例えば、すごく田舎の1日に数台しか車が通らないような道に信号があったとして、信号が赤だという理由だけで、通りもしない車を待ってから、交差点を渡ることが、果たして正しいことなのか?と。

道路交通法に基づいて言うならば、それは正しい。信号が赤の状態で渡ってはいけない。そんなことは子供でも知っているルールである。

しかし、見渡す限り1台の車の姿も見えない道で、信号が赤だからという理由だけで、盲目的にそこで立ち止まって時間を費やすことにどれだけの意味があるのだろうか。

当然、そんなことを司法に問うてみたところで「それが法です。守ってください」という答えが返ってくるのは目に見えている。


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日本では飲酒が認められるのは20歳以上だ。成人年齢が18歳に引き下げられたけれど、飲酒の年齢は据え置きである。

先ほどの信号の例と同様に、20歳まではお酒を飲んではいけないというのは、子供でも知っているルールだ。

1人暮らしを始めた大学生が、家で誰の目もないからといって、飲酒をしてはいけない。四角四面に言うならばそういうことになっている。ただ、実質的には、20歳未満の人が自宅でしっぽりと嗜んでいたとて、それを厳密に取り締まる仕組みはない。

ただ、日本国内では20歳未満の人はお酒を飲んではいけないし、飲ませてもいけないというのは、もはや常識であるし、それを破った時の社会的な制裁というのは年々厳しくなってきている。


では、海外に出たときはどうだろうか?


日本とは違う別の国や民族を訪ねたときに、その訪問先の文化として、客を接待する際の最上のおもてなしとして、お酒がふるまわれたらどうだろう。歓迎の酒は少しでも口をつけるのがとても重要なマナーであり、それを断ることは関係性に少なからず悪い影響があるような場合、日本の方に反するという理由で固辞することはできるだろうが、果たしてそれが”適切”な対応なのだろうか?

これも法という観点から言うと、問答無用で正しい対応となる。

だがしかし、海外で20歳未満の日本人が多少の飲酒をしたところで、それを厳密に取り締まる仕組みはない。


車の通らない信号だろうが海外での飲酒だろうが、つまるところ、どのように対応するかというのは、その人の心持ち次第という事になる。

罪の文化と恥の文化という言葉もあるけれど、自分自身がどう感じるか。どちらを重視するか。

盲目的に法という誰かが定めたルールに沿って判断し行動すること自体は間違いではない。しかし、それだけでは時代が変わった時や環境が変わった時に臨機応変な対応が難しくなったり、時流に乗り遅れてしまうということはあるだろうし、ブラック校則の改変みたいな発想は出てこなくなってしまう。

もちろん、おかしな法だと感じるから という理由だけでそれを軽んじてしまえば、徐々に無秩序な状態へと進行してしまうし、それこそ個々人によって価値観、解釈、感じ方が違うから、些細ないさかいの種が不必要に増加してしまう。

国家というコミュニティに所属して生きざるを得ない以上、最低限守らざるをえないものがある。


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なんだか、ニワトリと卵みたいな話になってきたので、ちょっとここらで切り上げておこうかと思う。

ルールというものは万能ではない。グレーゾーンというものは存在するし、すべての個別事情に適応させることは不可能である。杓子情事に規律を作ってそれを守るという方法もあるけれど、ある程度は”よしなに”対応するという寛容な余地があった方が、色々と円滑にいきやすいと思う。これってアナログ世代の思考なのかもなぁ。


いらない告白ですが、私は車が待ったく通らないような道路の信号は確認した上で、その時の気分で判断をしますが、例外的に同じ交差点内に子供がいるときは、絶対に信号を守ります。だって、子供が基本的なルールを誤解してしまったら取り返しがつかないことになってしまうかもしれないし。

これはルールを重視した行動なのか、倫理を重視した行動なのか。












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