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人生の構造:自由な中間点と価値基盤

人生にはゴールはありません。

もしゴールだと思っていることがあったとして、そのゴールまでたどり着いたら、残りの人生はどうなるのか、ということを考えると、そのゴールも人生の中の1つの通過点に過ぎないことが分かります。

では最終的な死がゴールなのでしょうか。それは時間の流れという意味での終着点ではありますが、私たちが目指して進んでいく先という意味でのゴールとは異なります。私たちは死を目指して生きているわけではないからです。

このように考えると、人生にはゴールはないということが明らかになってきます。

この記事では、このゴールのない人生について、その構造をどのように解釈できるかということを考えていきます。そこから見えてくるのは、あらゆる目標や価値は、ゴールのない人生における中間点として位置づけられるという視点です。そして、目標や価値が中間点でしかないのであれば、私たちには価値観を決めたり変更したりする自由があるという事になります。

■中間点の連続としての人生

一方で、私たちは日々、様々な事に悩みながら、どうすれば良いかを考えながら、生きています。これは大げさに言えば人生における選択肢の中から、日々、どれを選ぶかを意志決定していることになります。

判断基準に基づいて、その基準に照らして最適なものを選ぶことが、通常の意志決定のイメージです。何らかの目的や目標があり、それに沿うように判断しているようにも思えます。しかし、人生にゴールが無いとすれば、私たちが悩んで考えて意志決定している時、何を目指しているのかという疑問が沸きます。

その時、私たちは人生の通過点のような、ゴールではないけれども中間的な目標を立てて、そこに向かって最善の選択をするために、悩んで考えているという解釈をすることができそうです。

その中間点が達成されれば、私たちは次の中間点を探します。そして、ゴールはありませんが、常に中間点を追いかけている姿が、私たちの人生の姿のようなのです。

ゴールは存在しないとしても、この中間点を目指し続けることが、人生そのものです。

■中間点のループ

中間点には様々な種類のものがあります。典型的なものは生存のための中間点です。お腹が空いたままでは死んでしまいますので、食べ物を手に入れる事は1つの中間点になります。その食べ物を手に入れるために、現代人の多くは働いています。働いてお金を稼ぐことも、1つの中間点です。

ここには、中間点のループが存在することが分かります。食事を取る事で空腹を満たすという中間点を達成することで、労働が可能になります。そして労働してお金を獲得するという中間点に到達することで、食料を手に入れる事ができます。この中間点のループが、人生の大きな部分を形成しています。

■到達し得ない中間点

一方で、到達し得ない中間点というものもあります。あまりに高い目標であったり、何かを越えれば達成できるというものでなく目指し続けること自体が目的となるようなものです。

例えば、世界一有名になるとか、芸術を極めるとか、できるだけ資産を増やす、といった目標です。人生にゴールがないことを前提に考えると、これらも中間点の一種ではありますが、生きている間に決して到達することのない永遠の中間点です。

■退屈という苦痛

また、全く同じことや、簡単に達成できることを繰り返していると、人間は退屈してしまいます。真の退屈は空腹に匹敵するほどの苦痛です。この苦痛を逃れるために、私たちは単純なことから逃れて、やや難しいことや刺激的な事を求める本能があります。

繰り返しの単純ループを繰り返すと、私たちはそれに慣れていく場合があります。その結果、退屈という苦痛に直面しますが、その苦痛を回避するために、より難易度の高いことや刺激のあることを求めます。

退屈による苦痛は、もしも、人生における全ての問題を解決し、一生困る事のない財産を所有してもなお、避けることができません。その意味で、退屈の苦痛は、人生にゴール地点が無いことを別の観点からも示しています。

■成長、自己実現、刺激

退屈の苦痛があることによって、私たちは成長する方向を目指す事があります。また、到達が遠くて難しい中間地点を選ぶ場合もあります。あるいは、刺激的な物事を目指すこともあります。

人生の価値は成長することや、基本的な欲求から自己実現までの段階を登っていくことにあるという考え方もあります。しかし、中間地点を目指し、退屈という苦痛から逃れることが人間の本能だとすれば、成長や自己実現は、その一形態に過ぎないという捉え方もできてしまいます。

単に退屈から逃れられるだけの刺激を求めて、成長や自己実現を目指さないことも、1つの人生のあり方です。

成長も自己実現も刺激も、変化を意味します。私たちはループ状に連なった中間点を目指してくるくると回ったり、永遠にたどり着けない中間点を目指したりしながら、退屈しないように変化を求めています。

この人生観は、自己の成長を求め続けている人も、自己実現ができた人も、毎日食べるために懸命に働いている人も、適度に働いてエンターテイメントを消費して過ごしている人も、すべての人を同じ目線で見つめます。

■価値観の非一貫性

人生が中間点を目指すことでしかないなら、私たちが重要で価値があると考えている対象もまた、絶対ではなく中間点ということになります。

ある価値の達成がゴールであれば、価値観が一貫している事が重要です。しかし価値が中間点であれば、価値観の一貫性は重要ではなくなります。中間点は手段であり、手段は状況に応じて柔軟に変更することができるためです。

そう考えると、感情のように変化が大きなものであれ、欲求のように増大するものであれ、思想や信念のように追求するものであれ、全て価値は人生の中間点であり、手段に過ぎないという考え方もできることになります。

■価値基盤の柔軟性と能動性

感情や欲求、思想や信念が動かせないとすれば、それは価値基盤が固定されていることになります。一方で、それらを状況により調整できる場合は、価値基盤が受動的な柔軟性を持っていることになります。さらに、価値基盤を自在に操れるなら、能動的な価値基盤を持っていることになります。

表面的には区別が難しいですが、価値基盤の硬直性、柔軟性、能動性は、人によって異なります。

私たちは、子供の頃には感情や欲求の影響が強かったはずです。抵抗できない感情や欲求を受け入れて、それを前提に思考したり行動するしかありませんでした。これは価値基盤に感情や欲求しかなく、それが硬直性を持っているという状態です。

成長するに連れて、周囲の大人や社会からの教育や社会化により、その社会における思想を教わりながら、自分の中に信念が確立していきます。この姿は、感情や欲求だけでなく、思想や信念も価値基盤に組み込まれていくことを意味します。

ここで、人によって、価値基盤が硬直的であるか、受動的な柔軟性を持つか、能動性を持つかが変わってきます。

物理的な身体で言えば、私たちは手足を能動に動かして、意図した行動ができます。能動的な価値基盤を持つ場合、この物理的な身体と同様に、価値観を能動的に動かして、意図した方向に思考や意志を動かすことができるという事です。

■自分で決めるしかない

この記事では、まず人生の構造的な制約を整理しました。

人生には最終的なゴールはないため、私たちは中間点を決めてそこへ向かうことを繰り返すしかないという事と、私たちは退屈という苦痛を課せられており、変化や刺激を追求せざるを得ない本能を持っているという事です。

その上で、中間点を決める際の価値基盤という考え方も整理しました。

本質的に、意志を持っている私たちは、価値基盤を能動的に制御できるものにすることができます。制御できるということは、その能動性を放棄して受動的なものにしたり、さらに硬直化させたりすることもできます。

私たちは、この価値基盤と、構造的制約の中で、生きているという事になります。

価値基盤を能動的に制御し続けられるようにしておくか、受動的なものにしておくかや、硬直化させるかは、個人が自分で決めるしかありません。ただし、人間の成長段階はこの逆の順序を辿るため、制御可能であるという状態まで意志の力が成長していなければ、必然的に硬直的あるいは受動的になる事もあります。

そして価値基盤にどのような価値観を取り入れて重視するかも、個人が自分で決めるしかありません。ここでも、価値観の選択が出来るほどに意志の力が成長していなければ、他者から提示された価値観を受け入れざるを得ないという事もあります。なお、能動的な価値基盤を持っている場合、取り入れた様々な価値観を、どういった状況や場面で重視するかは、状況毎に自由に選択することができます。

このような価値基盤と価値観の中で個人は中間点を決めてそこに向かう事になります。この中間点を達成可能な近い所に置くのか、一生かけても到達できない遠い所に置くのかも、自分で決めるしかありません。ここでも、意志の力が成長していなければ、周囲から決められた中間点を受け入れることになるでしょう。

■さいごに

この記事では、人生について包括的に考えてきました。では、どうすれば良いのかという疑問が沸くかもしれません。

自分自身の人生を考えるのであれば、人生をより良くするためには、どうすれば良いかという観点から考える事になるでしょう。価値基盤を能動的にする方が良いのか、受動的であったり、硬直的であったりする方が良いのか、どの選択が自分の人生にとってより良いのだろうかということを考える必要があるという事です。また、どの価値観を重視するか、中間点をどこに置くかについても、同様に自分のより良い人生のためにどうすればよいかという観点で考える必要があります。

それは状況によって異なるでしょうし、個人の好みや美学のようなものによっても変わります。

もし、他者の人生について考えるのであれば、その他者の人生がより良くなるためにはどうすれば良いかという観点になります。私は多くの人が意志の力を持って、各自の意志で自分の人生について考えることができるようになる方が良いのではないかと思ってはいますが、それは個人の差にもよります。

意志の力が能動的な価値基盤を形成する段階に達することができない人や、自分では決めることが難しいという人がいると考えると、そうした人にどのような価値観を重視するように促すか、どういった中間点を目指すように促すか、というのは確かに一考に値します。

自分で決めるしかない状況は、ある人にとっては自由で開放的であると感じられるかもしれませんが、その決定の重さをプレッシャーに感じて苦しみを感じる人もいます。そうした人は、自分ではなく誰かが提案した価値観や中間点を信じることの方が、生きやすいと感じるでしょう。

こうした人を自分のために利用するのではなく、あくまでその人自身のために考えられているものであれば、人生哲学のようなものや、自己啓発のようなものは大いに参考になるでしょう。

一方で、これらの人生哲学や自己啓発のようなものを、自分の意志で決めることができる人に押し付けてもあまり意味はないでしょう。こうした人は、自分自身で答えを決められるはずですから。

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