見出し画像

キリスト教×法衣店コラボのモノづくりにチャレンジする(1)

 京都・西洞院通七条上ル。ちょうど西本願寺と東本願寺に挟まれたエリアにある、直七法衣店さん(以下、ナオシチさん)。真宗系の仏教宗派で用いられる法衣(僧侶の衣装)を中心に製造販売されているお店だが、四代目当主の川勝顕悟さんは伝統的なお商売の枠にとらわれずに、仏教やキリスト教を含む諸宗教など信仰の世界を現代に伝える講座「直七大学」をはじめたり、国内キリスト教人口の少なさ=国内市場の小ささのために業者も少なく、選択肢が少なかったキリスト教祭服の分野にチャレンジされたりと、意欲的な方である。

 実はナオシチさんが取り組まれる以前から、キリスト教祭服の分野では、和装に用いられる織地(西陣織など)や刺繍、組紐などが用いられることもあり、それをウリにする業者も少ないながらあった。しかし、キリスト教祭服は基本的に洋服の体系に連なるもの。また、教派によっては色々とルールも存在する。和装の素材や技術を用いた祭服も、それに則って制作されるわけだが、個人的にはもう少し踏み込んで「日本化」する道もあるんじゃないかと思っていた。

キリスト教=欧米の宗教?

 一般に日本では、キリスト教は「欧米の宗教」だと思われてきた。事実、日本宣教の経緯を辿ればその通りだし、キリスト教の成立も西暦の紀元後すぐ〜4世紀ごろまでの地中海世界で起こったことであり、祭服もその地域の伝統的な祭司、官僚、貴族の衣装・服制に起源をもつものが多い。もちろん、その後の歴史の中でいくらかの変化を遂げているが、服装の技術体系からみれば、基本的に洋服の歴史的な変遷・発展の中におさまると考えてよいだろう。

 しかし、もう少し目を広く見開いて、欧米以外にキリスト教が伝わっていった世界各地をみてみると、もう少し多様なあり方がみられることだろう。地域の伝統的な祭祀のシンボルと組み合わされた十字架(ケルトの円環と組み合わされたケルト十字が有名ですね)、各地の民族の容貌や衣装をまとったイエス像や聖母子像。キリスト教が伝わって歴史の長い地域や、信徒数の多い地域では、祭服にも地域や民族の服飾の要素が生かされているケースも少なくない。考えてもみれば、幕末に日本にキリスト教が「再」宣教(安土桃山時代の宣教が最初、という考え)されてたかだか160年余り。キリスト教が日本的な要素を取り込み、うまく消化して自分のものにするには、まだ時間が短いのかもしれない。

「素焼きの鉢植え」の例え

 以前、南米アルゼンチン出身の有名な賛美歌作家、パブロ・ソーサさん(メソジスト派牧師、1934-2020)のワークショップを受けたことがあった。賛美歌や教会音楽に関するものなので、実際に歌ったり、身体を使ったプログラムも多くあったが、欧米からキリスト教を宣教された地である南米の牧師であり、南米の民衆音楽や民衆の心情を汲んだ賛美歌を生み出している音楽家として、欧米的なキリスト教伝統と、宣教地の地域的・民族的なものとがどのように融合し、新たな稔りを迎えるのか、色々な事例や例えを用いて熱っぽく語られていた。

 その中でも印象的なのが「素焼きの鉢植え」の例えである。

 欧米など、キリスト教世界から新たな地に持ち込まれた(宣教)キリスト教は、いわば「素焼きの鉢植え」である。欧米で焼かれた素焼きの鉢に、欧米の土を入れ、そこに若芽としてキリスト教信仰が植っている。素焼きの鉢植えであるキリスト教は、まずはその地の水や空気を受けて芽を伸ばし始めるが、養分の土は欧米のものであり、素焼きの鉢に囲われて、大地に置かれていても、まだ新たな地と触れ合うことはない。しかし、時が経つに連れ、素焼きの鉢にヒビが入り、劣化して、新たな地の土と混じり合う。鉢の中の土もそう。そしていつしか、若芽は新しい地に力強く根を張って、その地の養分に育まれて成育していく・・・そのようなものだというのである。この例えからすれば、日本のキリスト教はまだ、素焼きの鉢をきれいに保ったままなのかもしれないし、そこにヒビが入るのを恐れているのかもしれない。

素焼きの鉢を割るにはー 日本の「見立て」という文化

 今回、ナオシチさんとのモノづくりにチャレンジするにあたり、単に和装や法衣の素材でこれまで通りのキリスト教祭服をつくるんじゃ、意味がないと思っていた。「素焼きの鉢植え」の例えに則れば、素焼きの鉢を思い切って割ってみせる、せめて小さくてもヒビを入れることになれば・・・と思っていた。一方で、教会現場や信仰生活と全くかけ離れた、使えないものを作っても仕方がない(ナオシチさんだって商売になりませんしね)。そのような条件を満たすために、どんなアプローチができるだろうと思い巡らせていた。そんな時、ハッと思い当たったのが、日本の「見立て」という文化のことである。

 茶の湯に少しでも触れた方はご存知だと思うが、茶の湯で用いる茶わんなどの道具は、もともと茶の湯のために誂えられたものではなかったものも少なくない。もともと別の目的や実用的な理由で作られた用具のうちに、素朴な形状の美しさや、用の美を見出し、茶の湯の用途や文脈になぞらえてそれを用いる(井戸茶碗などが代表的ですね)。日本の伝統的な文化・芸術の世界では、そういうことがしばしば行われ、それを「見立て」というのだが、そんなことを今回のモノづくりでもできないか、と思ったのである。日本の伝統的な文化や信仰のために作られた「モノ」に何かを見出し、それをキリスト教の文脈で解釈、編集して、新たな命を吹き込んで世に送り出す。そんなことができないかと・・・。

 ということで、ずいぶんウンチクが長くなりましたが、いよいよ次の記事でキリスト教×法衣店コラボの新たなプロダクトをご紹介します。お楽しみに♪

(続きの記事はこちらから→「キリスト教×法衣店コラボのモノづくりにチャレンジする(2) 」)

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?