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クリスマスと、持続可能な諸々のこと

 クリスマスですね。事の起こりを紐解くと、おそらく、昔から冬至を祝う祭りはあったわけで。北半球では冬至から日が長くなり始めますから、最も重要な祭日になるのは不思議では無い。で、キリスト教の聖ニコラウスと結びついて、クリスマスとサンタクロースの原型になっていったんだと思いますが。それがアメリカのマーケティングで赤い服を着たサンタクロースになって、日本に入ってきた時に変形して、カップルでの祝い事となって、そこから非婚化も相まって逆説的なクリぼっち、ということですが。

 そう思うと、クリスマスなんてせいぜい戦後からの風習なのに、もう、昔からずっとあるぐらいの思いを抱いてしまいます。人間の生存できる期間ってせいぜい数十年で、顔を合わせるのも、せいぜい祖父母の代まででしょう。そのぐらいの範囲で行われていることは、ずっと昔からあるように錯覚してしまう。その伝統が1000年、続いているのか、それとも100年なのかを、人間は区別できないなぁと実感します。100年と10年の違いは、分かるんですけどね。さらに、10年と1年の違いは、もっと分かる。

 100年以上のタイムスパンを、人間は実感できない。ということは、100年以上のタイムスパンでかかる問題解決を、実感により、つまり本能的に解決することは出来ないということです。でも現代では、そのような問題は山ほどある。軍事とか政治、また環境問題もそうです。そのような問題を、民主主義では投票によって解決しようとしている。そのためには、本能によらない、つまり「教育」をしっかりと行い、各自が適切な判断をしないといけない。で、そんなことがほぼ不可能だってことは、分かるでしょう。

 実現しようとすれば、教育にかけるコストを膨大にしないといけない。個人で言えば、世界の問題とか、国の問題とか、しっかり学んで判断できる状態を作らないといけない。でも、その上でやれることって、ただ1票を投じることだけなんですよ。それは、実質、自分の生活に大いなるリターンがあるわけではない。なので、そこは倫理によって、それをやらなければならない、と「教育」するしかない。ある意味、自己犠牲の精神が「理想の民主主義」には必要なわけです。

 しかしその一方で、資本主義というのは、利益を最大化するために動く。各自が利己的に動けば、市場原理がうまく働くという思想があります。で、資本主義と民主主義というのは、単位が「個人」ということで相性が良いのですけど、民主主義が良く働くためには、さっき言ったように、多大な教育コストを支払った上で、ほとんど影響を与えない投票をしないといけない。もちろん、投票システムを変えることで多少はマシになるかもしれませんが、まぁ、大差無いです。民主主義は、利他的な思想じゃないとうまく働かない。

 資本主義においては、市場経済の「神の見えざる手」みたいな幻想──ただの幻想ですので、本当は、んなことは無いと思いますが──が、ありますが、民主主義において、そのような幻想すら無いわけです。ヒトラーだって民主主義の結果、生まれているわけですから。まぁ、資本主義でブラックマンデーが起こるのと同じようなことでして。その歯止めをかけなければいけないんだけど、資本主義の歯止めは、まだ、福祉的なことでどうにかなるけど、民主主義を「絶対正義」にしてしまうと、なかなか歯止めが効かなくなる。

 話を冒頭に戻して、なんか感覚的にずっとあって当然のようなクリスマスという風習ですら、最近、始まったばかりのもので。そんな世界の中で、長期的な判断なんかできるわけがない。この矛盾をせめて自覚した上で、どうやったら持続可能になるか──持続可能というのは、人類が自滅して絶滅しないようにするということです──、そういう制度が組み立てられるか、という問題です。メリクリー。またあした。

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