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具体的な幸福

 ここ2週間ほど、道路を作っております。ひとり公共事業のつもりで、やっていますが。もう数十年、耕作放棄された棚田、というか、棚田状になっている薮を開拓しているんですが、一応、数十年前には棚田をやっていたわけで、その頃にも、トラクターぐらいは入る道があるんですよ。田んぼには、必ずあります。知らない人が見ると、こんなところ機械は使えないでしょう、と思うようなところも、ほぼ100%、機械は入ります。トラクターってのは、ビビるぐらい狭くて急な道でも進んでいきますから。

 ということで、トラクターが入る道があり、その道も、風情があるといえなくもない。その道沿いに石垣を積んでおり、きれいに草を刈れば、それなりの、数十年前の風情になるのでしょう。ただ、自動車は入らない。ですので、トラクターが入る道を潰して、自動車が入るようにしているわけです。スクラップ&ビルドです。ビルドはいいんですけど、その前段階のスクラップは心が痛みます。だって、どなたかが手作業で積み上げた石垣を、ユンボでぶち壊していくんですからね。一応、それなりの感情が心をよぎりますよ。

 でも、こういうことをやらないといけないんだな、と思うわけです。街もそうです。昔の街並みというのは、歩きとか馬とかに最適化されていた作りになっており、自動車を想定していないから、自動車だととても不便なんです。馬から自動車になった、という技術革新によって、街並みと道路が変わるわけです。世界に遅ればせながら、僕もそういうことをやっているわけです。

 かといって、一方で、デジタルに四角く効率が最も良いようにやれば良いか、というと、そうでも無い。山の傾斜、水の流れ、日当たり、そういう具体的な条件を踏まえた上で、できるだけ良いものを作ろう、ということなんです。0か100かではなくて、その土地それぞれで、それなりに一番良いものを作っていこう、という取り組みです。メインの道は、どんな車でも通れるように作って、でも、こっちの道は軽トラだけでも良いか、とかの妥協もするわけです。

 こういうことって、あらゆることに通じるなと思っていて。多くの人は、抽象的に考え過ぎるんです。一般論にしたがるんです。大人ならこうしなきゃとか、男性ならこうしなきゃとかも、そうですね。でも本当は、具体なんです、というか、自分の周りのことは具体的じゃないですか。特定の人との関係が「人間関係」であって、一般的な話じゃないんです。では、なぜ世にはびこるものは一般論になるかというと、そりゃ、万人が読むものだから一般的にならざるを得ないわけです。

 人生相談を新聞だとかネットだとかテレビだとかでしようと思ったら、一般論になるわけです。だって、そいつを知らないんだもの。でも、そいつをよく知っている人であれば、その相談を受けて、違う答えが出るわけです。あなたと、その相手との関係であれば、こうだよね、と。でも、そんな話はほとんどの人に関係無いでしょう。だから新聞だとかで目にするわけもない。

 それもまた、自動車という技術革新と同じように、活版印刷、大量出版、新聞報道ネットワーク、テレビ、インターネット、というもので変わっていったのです。本当なら、自分のことを知らないような人に相談したって、何もならないんですよ。だって、知らないんだから。カウンセラーでも精神科医でも、あなたのことを知らないんですから、役に立つ確率は低いんです。せいぜい、対処療法的な薬を出して気分が楽になりましたね、という先延ばしをするだけですから。

 我々の人生の行動指針となるべきものは、ことごとく、具体的であるべきであって、その具体的な話のベースになるのは人間関係です。その人のことを、よく知らないと何も言えない。で、その人のことをよく知っている人がいないから、ネットになるわけです。道もそうです。具体的な話なんです。この山の、この土地での話でしか無い。一般論では無い。その具体的な道筋を、どうつけるかというだけなんです。

 そして、具体的な道筋の精度を上げるためには、経験が必要、だからこそ昔から人生相談を受けるのは長屋のご隠居なわけです。近所で、自分のことを知っている人の中で、最も経験がある人が、相談相手になって指南するわけです。現代社会で、年寄りはお荷物扱いされ、社会の負担だと言われているのは、社会が一般化しているからです。情報化社会というのは、社会を一般化することです。でも、そんなことの先に幸福は無いと思います。具体的な暮らしの中でしか、幸福は見出せないと思っています。またあした。

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