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ドラフトに見る日米文化の違い

 プロ野球のドラフト会議がありましたね。アメリカのメジャーリーグとの、ドラフトの違いは、人数が違う。日本は普通の指名が6名ぐらいで、育成を入れても普通は10名ぐらい。ま、ソフトバンクは20名ぐらい取りましたが。一方、アメリカは、数十名とか取りますからね。で、この違いは何だろう、という話です。

 結論から言えば、野球チームの選手を、共同体のメンバーと見ているか、雇われ選手と見ているか、という違いだと思います。

 まず、日本的な、共同体のメンバーとして見る見方は、ほとんどの日本人にとっては分かりやすいと思います。巨人に指名されるということは、巨人の一員となること、家族の一員になるわけです。ですから、他のチームに移籍するのは基本的に良くないことだし、ずっと一つのチームでやっていく生え抜きが好まれるわけです。
 
 家族になるのだから、逆に言えば、そいつが役に立たなくても簡単には切れない。どうにか面倒を見てやろう、と思うわけです。だから指名する人数も少ない。指名したからには、必ず、チームの一員として育て上げないといけないわけですから、おいそれと、誰でもいいから入れとは言えないわけです。ちなみに、大学入試が難しいのに卒業は簡単なのは、同じことです。共同体のメンバーになるのがハードルであって、その後は守るんです。

 ただ、戦力としてデジタルに見れば、単純にコストとリターンの比較になるわけです。アメリカはこの方式だし、ソフトバンクもその方式でしょう。育成指名なんかコストが安いんだから、ちょっとでも可能性があるのならガンガン指名してしまえ、ということです。その中から大選手になる人もいるかもしれないわけです。これは、野球の能力というものの見極めが難しいから、ある程度、偶然性に頼らざるを得ない。だから、下手な鉄砲、数打ちゃ当たるが正解なんです。

 興味深いのは、アメリカ的な、ほとんど生え抜きがいないような、2〜3年で選手がトレードで全取っ替えされてしまうようなチームもあるわけです。すると、アメリカのメジャーリーグのファンは、一体、何に対して愛着を持っているのだろうか。日本の場合は、属人的なんです。あの選手のファン、ということもある。アメリカのチームで言ったら、概念としての、チームがある。選手が変わろうと、そのチームはチームとして存在しているわけです。

 この、概念としての存在、例えば「オークランド・アスレチックス」という概念。それは何に由来するんだろうか、というのが興味深い、というか、僕も含めた日本人には分からない。例えば、巨人と阪神の選手を全取っ替えしたら、それは巨人なのか、阪神なのか、ということです。そりゃ違うよ、という人がほとんどでしょうが、アメリカのメジャーはそれに近いことをやっているわけです。

 ひょっとしたら、地域が強固なのかもしれない。想像ですよ、アメリカで生活したこと無いし。ただ、欧米の文化として、町を城壁で囲って地域共同体を作るというのは、何百年とあるわけです。その中で、地域自治が行われてきた。なので、土台として、町というものが強いのではないか。町という概念ですよ。だから、オークランド・アスレチックスなんです。オークランドという町なんです。でも日本は、読売ジャイアンツでしょう。ヤクルトスワローズでしょう。オリックスでしょう。企業ですからね。町が弱いのかもしれない。

 巨人ファンが全て読売(企業としての)ファンなわけでは、ありません。となると、自分がどこに感情移入するかとなると、選手じゃないですか。人間に感情移入するしかないでしょう。だから贔屓の選手が移籍すると、ショックです。そして二軍の選手も一生懸命、追いかけて、親のごとく成長を見守るわけです。一方で、おらが町が「雇った」選手が、よその町が「雇った」選手と戦っている。そのような選手に対する愛着は、少ないです。もちろんゼロじゃないですよ。程度の問題です。

 そのような文化的な違いがあるから、ドラフト人数も、多くなるのだろうな、と。傭兵ですから。七人の侍ですよ。侍を雇って、村のために戦ってもらうわけです。そう考えると、七人の侍が海外で受ける理由も分かる。村という共同体、その共同体に属さない侍、その哀愁です。七人の侍のラストシーンの、侍の墓を前に、農民たちが楽しげに田植えをする。メジャーのドラフトを見てそんなことを思った次第。またあした。

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