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家畜化が進んだ動物

 人間はさまざまな環境に適応できます。昨日、温度の話をしたけれども、零下の世界にも人間は生きているし、40度超の砂漠地帯にも人間は生きています。人間は、技術を駆使して生息域を広げられるわけですが、それは同時に、どんな環境であれ「それを当然」と思うようにも出来ているということです。そういう意味では、非常に飼育しやすい動物なんですね。温度や湿度や、群れの頭数にも、特に気を使う必要が無い。水辺にもいるし、山の上にもいる。地球上ほとんどの地域に生息域を広げている生物なんです。

 もし宇宙人が地球の動物をUFOで連れ去れって動物園を作ろうとしたときに、人間は、最も飼育しやすい動物になるでしょう。温度も湿度も、そんなに気にしなくていい。1匹でも1万匹でも生きている。おまけに、放っておけば周りの材料を使って自分たちで適当に巣を作る。繁殖力のとても強い動物です。

 宇宙人目線で見れば、人間というのは、いろいろな群れ(社会)を作るし、その中での行動も多様だし、繁殖力は強いし、面白いなと思うことでしょう(ま、宇宙人にすれば当然すぎて、つまらないかもしれませんが)。

 ただ、人間目線で見れば、人間社会は「多様」ではありません。人間は自分が生まれ落ちた世界を当然のことと思う。それが唯一の社会だと思っている。我々は当然のように日本語を話すし、社会の常識を当然のことと思うし、別に自分の文化を相対的に見ようともせず、外国のことは「変な文化」だと思う。

 これは、人間の初期設定で言えば、1人の人間に社会を変える力なんてのが付与されているわけはなく、ほとんどの人は社会を「当然」のことと思っていないと、社会は成り立たないのだから、当然と思うようになっているのです。

 その社会に生まれ落ちたということは、その社会はそれまで生き延びるという意味では成功しているわけですから、それを続けるのが安全です。ただ、環境が変化し、あまりにストレスが大きくなったりしたら、社会が変化する。たまたま、その時にリーダーの立場にいた個人が「社会を変えた」と、後世の人々に思われる。

 ちょっと話を逸らしますが、僕は個人が社会を変えるということは、ほとんど無いと思っています。そもそも、社会とは大多数の人間の行動のうねりです。

 個々人の行動の変化を、社会変化と言うだけであり、それが起きるためには、社会の大多数が、その社会を変えたいと思う、現状に不満を抱いている状態で無いといけない。そこにたまたま、きっかとしての、個人が登場することは、あります。でも、それは、歴史教科書に書かれているほど、大きな意味では無いと、僕は思っています。むしろ、社会が個人を看板として掲げるぐらいに思っている。

 話を戻して。現代日本のように、外国の価値観が入ってきたり、また、技術発展により環境が変化していったり、そういう世界では、常識も変われば、とある目的(例えば、お金を稼ぎたい)に対する最適解も変化していく。そして、それを全て理解できる個人など、いない。1万人の顔と名前を覚えられる人間がいないのと同じことです。なので、そんな不確定な現代社会での成功法則は、トライアンドエラーを繰り返すこと、そのPDCAサイクルを速く回すこと、になるわけです。それが可能なのは、失敗したところで死なない環境だからです。

 我々、大多数の普通の人間の行動様式は、常識と本能によって成り立っています。常識とは後天的に得る、文化的な行動様式。本能とは先天的に得る、生物的な行動様式。

 本能の行動様式は、僕が毎度言うように「100人の狩猟採取集団」という環境を想定し、そこでの最適解になっています。その100人狩猟採取も多様なものがありますから、文化的な行動様式は、それに適応するために、ある程度の自由度があるんだけど、今はそれを、本能が想定していないレベルのズレた環境に、はめ込むようになっている。

 学校のように、同い年の人間を30人ぐらい集めてずっと座らせているなんていうのは、これは、いかなる「100人の狩猟採取集団」であっても想定していない環境です。100人の中に、30人の同い年がいるわけありませんから。

 ですから、そういう、想定外の環境ではストレスがかかる。学校が嫌なのは、人間として当然です。ただ、相対的に、子供は家庭にいてもつまらないし、怒られるし、なら学校の方が「マシ」だと思って、学校が好きだとか言っているだけです。あのような環境を面白いと本能的に思えるわけがありません。

 ただ、人間のすごいのは、そのぐらいヤバい環境でも適応してしまうほどの適応力を持っている、ということです。30匹の個体を集めて、身体的拘束もなく、命令に従って静止させておくことができるのなんて、全生物の中で人間ぐらいじゃないですか。

 人間に似ているニホンザルなんかだったら、日光猿軍団で訓練して、似たようなことはできるかもしれませんが、あれでもせいぜい数分間でしょう。45分の授業を6コマやるとか、厳しいでしょう。人間は、それができちゃう。たまにできない子供がいると、特別支援学級に入れられますが。

 で、我々はそのような、本能的には苦痛なヤバい環境でも、当然と思ってしまうほどの、優秀な家畜に成り得るポテンシャルがあるのです。「家畜化できる動物」というのも、これは本能によって決まっていて、品種改良も何千年も続けているわけです。シマウマがなぜ家畜にならないかというと、シマウマは本能が強固であり、人工環境である「家畜飼育」に適応できないからです。大人しくない、ということです。

 基本的に家畜というのは、群れを形成する動物じゃなければ、できません。群れを形成するということは、少なからず、自分の行動を他者に依存しているということです。群れに合わせて動くということは、視覚なり聴覚なり嗅覚なりの感覚器官に入ってきた、他個体の情報発信を取得し、自分の行動を決定するということです。そこをハッキングして、人間は家畜を育てるわけです。で、大人しい個体同士を掛け合わせて、より大人しい家畜化した個体を作り出していきます。大人しいというのは、人工環境への適応度です。

 群れを作り、また、周囲から情報を取得し、環境適応性が高いということで、人間は最も家畜化しやすい動物です。だから我々は、会社のために過労死もできるし、借金を返すために自殺もできる。自分の生命をも犠牲にするという、生存本能を超えるほどの、後天的な行動様式も可能なのです。こんな動物は、他にはいません。

 見た目だけだったら、人間より犬の方が家畜化は進んでいますけどね。チワワとドーベルマンも、同じ「犬」です、生物的には同種です。掛け合わせて子供も生まれるし、その生まれた子供も生殖能力があります。

 ま、犬は人間より何倍も世代サイクルが早いので、家畜化の歴史は人間より浅い1万年ちょっとでも、世代サイクルが10倍ぐらいあるとすれば、人間の10万年ぐらいの家畜化の歴史があるということです。そして、人為的に掛け合わせを進めるので、より家畜化も進みます。んで、見た目はあんな感じになっています。

 人間は犬ほど、見た目の家畜化はありませんが、行動様式の根本たる思想的な家畜化というのは進行していますし、より深く根強くなっていると思います。さっきから家畜化と言っていて、普通は、その言葉を嫌な意味で取るかもしれませんが、これは良い悪いの前に、自然状態では生きられないのだから、ある程度の家畜化はしょうがないし、家畜化を言い換えれば、人工環境の中で生きるということは、群れを形成する動物である人間にとっては、当然のことです。ただ、ストレスの少ない環境と、多い環境があるというだけの違いです。

 我々は、物心ついた時には母国語を話し、その母国語に内包される価値観も当然のことと思い、思っている以上に、人工環境の影響を受けています。というか、人工環境(言語も人工環境)無くしては、ものを考えることすら、できない。その囚われの中で、いかに自由度を上げて本能を充足させるか、というのが、文化を、そして我々の家畜化を、より「マシ」にしていくことだと思います。

 現代日本のように、教育と実社会のズレも強くなり、SNSという新しい人間関係への適応も求められ、無意味な労働時間は増え、暑い中でもマスクを外せず、ここまでストレスが高くなってくると、そろそろ革命の兆しが見えてくるなと思います。ほとんどの人が満足している時に、社会は変わるわけがないし、変わる意味もない。ほとんどの人が不満だから、社会は変わる。そして、その時に、たまたま祭り上げられた個人が、後世の歴史教科書に載るのでしょう。またあした。

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