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生産性に囚われる

 ヨーロッパで産業革命が起こったのは、生産性を向上させることで、私有財産を持つことができたからだ、という話があって。数百年前、中国の技術はヨーロッパよりもはるかに進んでいたのですが、その中国でなぜ産業革命が起こらなかったかというと、皇帝の権力が強すぎて、私有財産という概念が起こらなかった。少なくとも、生産性を向上させようという動機にはならなかった。ま、地理的な要因もあるでしょう。中国の方が平野部が広いですから。その分、権力が強大になります。

 さて、この「私有財産」という概念──これは概念なんですけど。私有財産という概念、というかルールがあるからこそ、我々は生産性を向上させようとする。それに加えて、人間の生きる時間というのは、有限です(有限だという共通理解がある)。その有限の時間を、どれだけ多くの成果に結びつけられるか。それを組み合わせた、成果÷時間が生産性です。もちろん、これも幻想なんですが、現代社会はほとんどの人が、それが正しいと思っているから、生産性向上させることが正しいこととなる。そういう社会です。

 生産性という概念に至るためには、成果を測れないといけない。行動を数値化しないことには、生産性は分からない。それがお金です。お金の役割の一つは、成果を数値化することです。ですので、本来は数値化し難いような色々なことも「経済効果」と言って、無理矢理、お金の枠組みにはめるんです。経済効果なんて測りようがないし、「東京オリンピックの経済効果は15兆円」とか中世の魔術と大して変わりはないと、僕は思っているんですけれども。数値化すると安心するわけです。そういう宗教ですから。

 成果を金銭で測ると同時に、その投資資源である時間も、測るわけです。これも以前、書いたと思うけれども、本来、時間というのは無くて、これまた人間の概念です。我々に記憶があって、また、エントロピーが増減するという概念があるから、時間があると思っているわけです。で、時間は概念ですから、これもどう測ろうと自由なんですが、これを世界共通ルールで、1秒単位で揃えて測るわけです。

 つまり、生産性の元となる成果(私有財産を金銭的価値に換算したもの)も幻想だし、時間も幻想だし、ということは成果÷時間の生産性なんていうものも幻想です。そりゃ、この社会のど真ん中で働いていらっしゃる企業のCEOとかが生産性を気にするのは当然で、サッカー選手が得点を気にするのと同じです。でも、そんな宗教に付き合う必要も無い。自分の生活が快適な程度のモノがあれば、それで良いわけです。

 でも、この宗教は強力ですから。江戸時代の踏み絵みたいなものでして、1日ゴロゴロと寝っ転がってスマホの動画とか見て過ごしたら「時間を無駄にした」と思ってしまうわけです。どうせだったら有意義に、新しい体験に結びつくようなことをするとか、本を読むとかすりゃよかったなと後悔するわけです。それは、時間を測り、成果を金銭で測っているからです。読書でもしていたら、それが将来の「お金」に結びついたかもしれないという幻想があるので、後悔するわけです。

 難しいのは、そうなると我々は「消費」を楽しめない、時間を過ごすことを楽しめない、ということです。この世界の「生産」が、時間をいかに高価に切り売りするかということになってしまうと、消費者の時も、常に我々の頭には、今、時間を無駄に過ごしているという後悔が付きまとってしまう。生産者と消費者が同じ人間であるからこそ、そんな切替は出来ない。一方で、純然たる消費者マインドを持っていたら、そもそも「働いたら負け」になります。できるだけ社会に寄生して生きていこうとする。

 これはこれで不幸だと思います。というのは、普通の人間というのは、人の役に立つこと、つまり生産も生きがいになるからです。生産だけのワーカホリックも、消費だけのニートも、どちらも不幸になってしまう。まぁ、この宗教から抜け出すにはどうしたら良いかと思いますが、特に思いつかない、どうしたら良いんでしょうね。生まれた時から、お金と時間の概念を与えなければ、そういう人間が出来上がるのかもしれませんが。どうにか、生産でも消費でもない、「生きる」ことに戻らないといけないと思っています。

 ま、できることはせめて、そういう概念はただの概念だよ、宗教だよと、せめて頭で解って、あまりそこにハマらないようにすることかなと思います。生産性とかね、なるたけ無視するように頑張りましょう。それに代わる、自分なりの心地よい価値観を見出し、時間を忘れて浸れることが幸福への道かと思います。またあした。

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