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他人がいないと「自分探し」なんて出来ない

 「自分探し」なるものについて、最近、考えが変わってきて。結論から言えば、集団内での相対的な役割が「自分」だということです。そもそも、他の人がいなければ、自分が得意も不得意も無いんですよ。あくまで、他の人と比べたときに、得意かどうかということなんです。だから、自分の内面をいくらほじくっても、得意なことは見つからない。

 以前、どこかで書いたと思いますが、僕は人が得意不得意とか才能を見つけるにあたって「経験」が圧倒的に足りない、と思っていたんですよ。たとえば「農業が得意」というのは、範囲が広すぎるんです。トマトは得意だけど米は苦手、という人もいる。トマトは得意だけどミニトマトは苦手、という人もいる。そのぐらい人間の才能や好みというのは細分化されています。

 そしてほとんどの人は、学校の勉強とか、一般的なスポーツとか、習い事とか、そのぐらいのことしか、やったことが無い。トマトを育てたこともないし、キノコを探したこともないし、鶏の羽をむしったこともない。世の中にあるほとんどのことを経験していないんです。だから、得意かどうかなんて分からない。

 そして、人間の本能が数万年、変わっていないことを踏まえると、おそらく、自然環境に関係した「才能」が眠っている確率が高い。そして現代の都市化した社会では、ほとんどの人は、それらの環境に出会うことが無いわけです。

 ということで、まず、自然を主として色々な経験をすることが大切じゃないか、と思っていたんですが。最近、思うのは、人間関係を作って、同じ目的を持つ仲間ができてくると、その中での役割分担というのは自然に生まれるな、ということ。部活のチームでも、ムードメーカーとか、キャプテンとか、自然に出来てくるでしょう。あれは、その集団の中での役割、ということです。それは、周りの人がいなければ、生まれることはありません。1人でムードメーカーもキャプテンも有り得ませんから。

 そして、集団にも、いろいろな集団があります。でも現代日本人で言えば、経験する集団というのは、ほとんどが学校のクラスとか、会社とかです。同い年であり、属性の近い人たちが集まったグループ。その中での立ち位置になるわけです。たとえば、保育園児から高齢者まで、男女も混じった集団で、さぁ、自分の立ち位置はどのあたりか、なんていうのは経験していないわけです。ただ、そのような集団の方が自然なんですよね。同い年の、似たもの同士が集まる集団というのは、とても不自然な環境なんです。

 雑多な人間が集まった「自然な環境」の中で、さぁ、どのような役割が出てくるのか。これもまた、キノコ探しや、鶏の羽むしりのように、環境なんです。人間関係という環境です。そこで出てくる才能も、ある。でも、現代日本人は、そのような環境に対応していないから、才能があっても気づかない。例えば、中学生の相手がすごく上手い才能がある大人がいても、そんなのは、発揮できないでしょう。気づかないんですよ。そういう集団が無いから。

 最初に、集団内での相対的な役割が「自分」である、と言いましたが、この「集団」がそもそも、ほとんどの場合は、ずれているんです。クラスの中でのスクールカースト、みたいな話になるわけです。違うんですよ。そもそもクラスというのは、異常な集団なんですから。そうじゃ無い。自然な環境であれば、自ずと、役割は決まるんです。例えば、若者であれば、若者というだけで役割になる。それがアイデンティティになるのだから、自分は何者だろうかなんて悩むことも無い。若者に決まっているんです。

 同質な集団というのは、そのような、基本的なアイデンティティを奪い去ってしまう。自分が子供であること、若者であること、大人であることを、男であり、女であることを忘れてしまう。別にLGBT批判じゃ無いですよ。ただ、女の人がいてこそ、男であるというアイデンティティが生まれる。逆もそうです。年寄りがいてこそ若者であり、子供がいてこそ大人である。相対的ですから。そうやって、自分は何者であるかというのを作っていくんです。はい。またあした。

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