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『方丈記』と『森の生活』、そしてマイルドヤンキー。

 鴨長明の『方丈記』を、まともに読みまして。そりゃ昔からタイトルは知っているし、書き出しの、川の流れがどうのこうので諸行無常的なことを言っている、ってのも知っていましたけど、ちゃんと読んだことは無かったんですよ。

 どんな話かっていうと、随筆(エッセイ)なんですけど、鎌倉時代の最初ごろ、今から800年ぐらい前に、鴨長明って人が小さな家に住んで、そこでの暮らしとか、世間のことを書いたやつ。
 で、その小さな家ってのが「方丈」でして、方ってのは正方形ってこと、丈ってのは長さの単位で3メートルぐらい。3メートル四方ですから、四畳半ぐらいですね。四畳半一間の小屋に住んでいた、ってことです。方丈記は現代語に訳せば「四畳半暮らし日記」です。

 で、似たような随筆として思い出すのが、デービッドソローの「森の生活」。

 でも、似たようであり違うなと思うのは、全体的な印象ですけど、鴨長明の方が世間のことを気にしている。ソローの方が自然寄り。で、その違いの根本にあるのが文化的な違いじゃなかろうか、ってのが、今日話したいことです。
 やっぱり、村のような農村共同体がベースにある中世日本と、移民が作った新大陸の町で、しかもその移民もガチのプロテスタントたちだという18世紀アメリカ。その違いが、この2つの随筆の「寂しさ」の違いになるのかな、と。

 鴨長明の方は、寂しさがあるんです。世間に交わりたいけど、鬱陶しいよな、心が乱されるよな、というような。で、その世間に煩わされるぐらいなら、四畳半の田舎暮らしの方がいいでしょ、という、逃げの先のミニマリスト的なやつです。
 対してソローは、むしろ自然の中に神を見出してやるぜ的な積極性が感じられる。これが正しい生活だ、という信念が強い。逃げの田舎暮らしと、攻めの田舎暮らし。

 攻めていけるってことのは、どこかで、その行動を支えてくれる母体が無いといけない。それが聖書なんだろうと思います。
 宗教とは、どれも「行動指針」です。どう行動するべきかというマニュアルなんです。最もその時代に普及している宗教は、宗教とは呼ばれずに「常識」と呼ばれるんですが。現代日本で言えば、自立しようとか、お金を稼ごうとか、そういう行動ですね。その宗教に理由があるわけでも無いんですが、ほとんどの人がその宗教を信じていれば、その宗教に合致した行動をとれば現世利益が得られるのも、また当然です。

 話を戻して、聖書という行動指針がベースにあるからこそ、ソローの暮らしには自信があるんじゃなかろうか。ただ、そうはいえ、程度の差であって、どちらも世間と交わりたいという感情はあると思います。ただ、社会があまりにもおかしいから、それだったら背を向けたほうがマシ、ってことです。
 そもそも、世間がどうでもいいと思っているやつは、文章なんて書きませんから。どうでも良くないと思っているから、文章に書いて人に伝えようとしているわけです。長明もソローも。

 程度の差ということですが、聖書という明文化された行動指針が有るか無いかという違いが、程度の差になっているんじゃないかと思う。日本は伝統的に「明文化された行動指針」が、ありません。
 じゃあ、何が行動指針かというと、ご存知の「空気」ですね。世間です。世間様に顔向けできないとか、そういうことが行動指針になります。で、この空気とか世間というのは、ちょこちょこ変わります。コロナでも「空気」がすごい勢いで変化しましたよね。それが日本の伝統的な行動指針です。

 じゃあ一方、アメリカの行動指針は何かというと「文章」です。そもそもアメリカを建国したプロテスタントは、カトリックが聖書とか無視していて堕落してんじゃねぇか、ってんでヨーロッパを飛び出した奴らですから。新約聖書をベースにした原理主義の新興宗教ですよ。
 で、新大陸での決まり事も、独立宣言として明文化するわけです。で、今もアメリカの行動基準は文章であり、それは「法律」です。だから弁護士がたくさんいるんですよ。裁判もたくさん起こるんですよ。

 だけど、法律ってのは所詮は固定化された言葉であり、抜け穴もたくさんあるから、「変な判決」が出ることもあるわけです。法律が変だから。で、その変な法律に従って判決すると、変なことになる。
 馬鹿が猫を電子レンジに入れてチンしたら猫が死んだから電子レンジ会社に賠償を求めてそれが通る、なんていうことが起こる。で、日本人の「常識」からすれば、それは変だということになるわけですが、それは行動指針が「空気」か「法律」かで違うんですから、そりゃおかしいんです。

 むしろアメリカ人から見れば、平気で法律を破っている日本人は奇妙に見えるはず。労働基準法を無視したサービス残業が当たり前、高速道路の制限速度も守らない、有給休暇も取らない。それは、法律よりも「空気」を重視しているから。行動基準が違うんです。行動基準が違うから、はたから見れば、変な行動をしているなと思うんです、お互いに。

 社会というのは、大体が変なんです。どの社会にしても、おかしいんです。現存するほぼ全ての社会は、人間の本能よりはサイズがでっかくなっていますから、すべからく、おかしいのです。
 で、そのおかしな社会と、人間の本能というのは、ズレます。だから、社会で生きるのは大変だし、苦しくなる。もちろん、これにも個人差があって、そんなに大変じゃ無い人から、すごく大変な人までいるんだけど、長明やソローはすごく大変だったんでしょうね。だから社会からちょっと離れて、自然の中で暮らすことを選択した。

 当たり前ですが、自然の中で暮らすのも大変なんですよ。家だって自分で建てなきゃいけない。だって、人に頼むのならば、大工さんにお金を払うことになる。そのお金を稼ぐためには、社会と関わることになる。
 結局、社会と関わらないといけない。社会の「おかしな」奴らと関わらないといけない。それをするぐらいなら、大変だけど、自分でやった方がマシ。という選択なんだと思います。社会で暮らす大変さと、森で暮らす大変さを天秤にかけて、後者の方がマシだと思ったわけです。

 ただ、お二人ともそれまでの人生で、それなりの「常識的な行動指針」を学んでいます。だから、長明は世間のことが気になるし、ソローは神のことが気になる。で、この違いというのが視線の違いに現れていて、長明は世間が気になるのなら、どうしても、世間に目を向けなきゃならないんです。だから、世間(社会)の記述が多い。
 でもソローの神というのは、ひょっとしたら森にいるかもしれない。自然も神がクリエイトしたものであり、その中に神のメッセージはあるかもしれない。だから自然の記述が多い。

 ソローは、森や畑の中に神(という行動指針)を見出せるかもしれない、という姿勢がある。ただ、程度の差であるから、長明もそのような視点はありますよ。
 仏教でも、全ての生き物が仏であるみたいな概念はありますから。程度の差です。長明の方が比較的、世間に行動指針を求めているなと感じる一方で、ソローは、世間をそれほど気にしていないという程度の差です。

 さて、ちょっと考えを伸ばしてみて。長明やソローは、社会から離れてソロプレイをしていたのですが、これを集団で行うとどうなるのか。
 ソローが集団になれば、アーミッシュです。聖書という行動指針を基準に生きる集団です。
 じゃあ、長明的な生き方をしている日本人集団というのは、あるのか。僕は、それは「地元大好きマイルドヤンキー」だと思うんです。世間の常識である、金銭的な価値とか出世とか、そういうものに背を向けて、地元という小さなエリアの中で仲間を作って楽しく生きるというライフスタイル。

 マイルドヤンキー的な、今が楽しければいいじゃん的な生き方って、方丈記の言う諸行無常に通じるものがあると思う。四畳半暮らしでいいじゃんというのは、田舎の実家住みでいいじゃん、団地でいいじゃん、というのと似ています。そこに気の合う仲間がいて楽しくやれればいいじゃん、という思想です。世間でいろいろ騒いでいるけど知らねーよ、ニュースも総理大臣も関係ねぇよ、という生き方です。

 日本人の基準は「世間」ですが、その世間のサイズを、日本からググッと縮めて、自分の目の届く範囲ぐらいにしたのが、地元大好きマイルドヤンキーです。
 余談だけど、ヤンキーってのはそもそもはアメリカの北部の人たちを指す言葉で、だから「ニューヨーク・ヤンキース」なんですが。地域密着の言葉ですよね。それが転じて、日本語(関西弁)のヤンキーになるわけですが、それも地元と結びついている。で、ファッションとしてヤンキースの帽子とか流行していますが、これも地元大好き感がありますよね。

 ヤンキー(不良)というのは、公的な行動指針、つまり学校に従わない人たちです。ヤンキーは意外と親孝行したりしますが、親孝行ってのは私的なんですよ。
 「公的」に言えば、働いて税金を納めて、その税金が回り回って親が利用する介護事業者に入って、親は老人福祉施設で暮らす、みたいなのが「公的」です。
 で、そんなの関係ねぇ、ってのがヤンキーです。だからヤンキーは母ちゃんが好きだし、友達が大切。で、意味の分からない学校の話とか嫌い。だって、生活に関係無いから。そういう公的な行動を取らない人を「不良」と呼んでいるのです。

 ヤンキーというのは「私的」なんです。公的では無い。行動基準が、身の回りの集団ですから、私的に見えます。その象徴がNYマークの帽子というのが、なんとも面白い。
 NYメッツじゃダメなんですよ。メッツはメトロポリタン、大都会という意味で、地元なんか関係ありませんから。このグローバル化の時代に、地元に根付いて、仲間のために生きるということは、反逆的です。その不良の象徴としてのNYキャップ。
 意識的では無いだろうけど、だからこそ正解になっているのが、とても面白い。またあした。

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