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人類史上、最もバカな世代

 子供の頃、大人ってのはいろいろなことを知っているものだと思っていたんですが、大人になってみると、まぁ、そうでも無いなぁと思って。そりゃ、子供よりはいろいろと知っているかもしれないけど、大して変わらない。会社で働いていても、その、特定の会社での生き方を知っているだけであり、何でも知っているかというと、そんなことは無い。

 例えば、きちんと会社で働いて、育児もしっかり出来て、家事も出来て、人付き合いもそこそこ出来て、一般常識もある、義務教育ぐらいまでのことなら、ほぼほぼ分かる、なんていう人が男女問わずどのくらいいるかというと、マジで1%ぐらいじゃなかろうか、と思う。自分が「生きる」ということに必要な、ゼネラリスト的な能力を持ち合わせている人は、ほとんどいない。

 一方で、多くの人は、何か特定のことにすごく詳しかったりする。山登りに詳しいとか、電気関係に詳しいとか、仕事でも趣味でも、そこらへんの人には負けないというものを持っている人は、多い。人間は普通、ゼネラリストじゃなくてスペシャリストなんです。能力が偏っている。毎度言うように、これは、人間が「群れ」で暮らすために、そのような能力の偏りがあるのだと、僕は思っています。単独行動する生物なら、自分で何でも出来る、ゼネラリスト的になっていくはずですから。能力や好みが分かれているのは、群れの動物の特徴です。

 人間は1人では生きられない。ゼネラリストではなく、スペシャリストだからです。その、スペシャリストを束ねて協力させるのは、本来は「本能」であった。人とおしゃべりしたいとか、褒められたら嬉しいとか、人より勝りたいとか、何かにハマるとか、そういう自然の欲求は本能でして、その本能は、100人程度の群れを想定しています。ですから、本能に従うと、人間は「100分の1」ぐらいのスペシャリストになる。生活に必要なこと全てのうち、100分の1ぐらいに興味を持つと思う。

 ま、100というのも子供とか高齢者とかを含めて100と考えれば、実際は30分の1ぐらいの興味かもしれませんが。どういうことかというと、例えば、「木の実を集める」というのは100分の1ぐらいのサイズの行為です。狩猟採取社会において、木の実を集めるというのは100分の1ぐらいの仕事です。

 でも、木の実を集めるという仕事も、もっと細分化することができる。木の実がある場所を見つける、木の実を拾う、木の実を選別する、木の実を運ぶ、木の実を割る、木の実を保存する、などの行為に細分化すれば、これは1000分の1ぐらいの仕事になる。そして、1000分の1にすれば、それだけ知識が深くなる。そうやって、人間社会は知識を深めていったのだと思います。つまり、人間の知識を発展させるために必要だったのは、集団のサイズを大きくして、1人あたりの仕事の分野を細分化することです。

 本能で規定された集団のサイズは100ぐらいですから、それ以上のサイズになるためには、共同幻想が必要です。そして、仕事を交換するための媒体が必要です。それが宗教であり、お金です。宗教で結びつき、お金で価値交換する。そうやって、本能によらない協力体制を築くことができたわけです。

 一方で弊害もある。100分の1の仕事が、1000分の1や、もっと社会が「発展」して1万分の1になったとき、本来、「楽しさ」によってその仕事に没頭させていたものが、楽しくなくなります。範囲が狭すぎるからです。ということで、社会が発展すると、仕事はつまらなくなる。そして、人間は、深さという意味では知識を深めますが、個々の人間は「何も知らない」無能になっていく。車のハンドルのデザインはできるけど、卵焼きも作れないし、洗濯もできない、地図も読めない、という人間が生まれるわけです。

 社会がどの程度のサイズになり、結果、個人がどの程度「細分化」されたかというのは、時代によって揺らぎ、揺り戻しをしますが。大きな傾向として、社会は大きくなり、人は細分化していきます。現代は、人類史上で最も人間が細分化しています。ということは、人類史上、人間は最も無知で馬鹿になっているということでもあります。人類トータルとしての知恵や技術はすごくても、個人として見たときに、我々は古代の人よりも、よっぽど無能です。

 しかし、子供はそんなことを知りませんから、大人を見て、なんでも知っているように思うわけです。実際、本能が想定するような社会なら、そうなんですよ。大人は何でも知っている。少なくとも、その小さな社会で、生きるのに必要十分な知恵は持っている。だから、子供は憧れる。でも、現代はそうでは無いんだなぁと、自分が大人になって気づいた今日この頃。はい。またあした。

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