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Mー1を見て場末の寄席を思い出す

 世間の話題に乗っかって、Mー1の話でも。毎年、見たり見なかったりですが、今年は久々にまともに見まして。で、競技になっているなぁ、と思いまして。まずね、僕は若かりし頃、もう20年も前になりますが、結構、東京の寄席に足しげく通っていたんですよ。新宿末広とか、池袋とか。そんで、まぁ芸人なんてろくなもんじゃねぇな、というのが感想ですよ。基本的につまらない。皆さん、テレビに出ている芸人を見てつまらないとか言っていますけど、劇場ってもっとやばいですからね。あそこでマックス面白い人がテレビに出るんですから。

 寄席だけじゃなくて、当時、渋谷にあったシアターDとかもずいぶん行きました。まぁ、基本的にどうしようもない。つまらない。でもね、何度も見ていると、それでいいんだなというか、そのダメさを受け入れるのが、お笑いという世界なんだと、僕は腑に落ちたんですよ。若い芸人なら、まぁ、つまらなくても若気の至りというか、しょうがないと思うところもありますよ。でも、ベテランの落語家とか、漫才師とかで、1年後も寸分たがわぬ、つまらないネタをしていたりするんですよ。そこに何の努力も向上心も見られない。

 落語とかお笑いがブームになる前ですから。まぁ、オンバトとかの影響で、シアターDなんかはちょっと盛り上がっていましたが、寄席は基本的にガラガラですよ。疲れ切ったサラリーマンとかが、涼みに来ているわけです、5人ぐらい。そこでつまらないネタをするわけです。このね、亜空間に迷い込んだような、新宿のど真ん中でここは一体何なんだという、それが寄席なんですよ。どうしようもない人がいて良い場所が、寄席なんです。と、僕は理解したんですよ。

 僕のお笑いの原体験って、そういうものなので、今のMー1には、まぁ時代は変わったものだというか、お笑いという概念が変わったものだ、と思うわけです。芸人なんてのは格好良いものでもないんです。「お笑いしか出来ない」と、逆説的にかっこいい感じに言うこともありますが、そうじゃないんです、お笑いすら出来ないんですよ。マジでダメなんです。でも、それでいいじゃん、と。舞台に出て、つまらない話をして、それが世間のカタギの暇つぶしになれば良いというものだと思うんです。

 お笑いが今のように、格好良いものになって、努力した先に夢を掴むみたいになっちゃうと、こんなもの、普通の社会じゃないですか。いや、そんだけ努力して真面目にやれるんだったら普通に働けよと思うわけです。そうじゃなくてね、どうしようもない人間が寄り集まって、傷を舐め合って、舞台に立って日銭をもらって、何となく生きていって、社会の片隅でどうにか市民権を得ていると自覚するような、その後ろめたさとね、暖かさがね、あって良いと思うわけです。

 まぁ今回のMー1を見ていて、皆さんセンスがよろしいし、格好いいし、素敵じゃないですか。で、一番素敵じゃないウエストランドが優勝するとかね、ああ、良かったなと思ったわけです。ウエストランドは客のいない浅草演芸場が似合うんですよ。あんなMー1の大舞台じゃなくて、場末の劇場で見たいですね。客席の9割がどん引いている中で、一人だけ馬鹿笑いしている中年男性の客がいるという風景が、ウエストランドには非常に似合うわけです。ロングコートダディは似合わないでしょう。

 ということでね、とっても良かったですよ、ウエストランド。ぜひこのままMー1チャンピオンという肩書きを持っても、テレビタレントとしては跳ねられず、20年後に客のいない東洋館で地獄みたいに客が引くネタをすればいいなと思いますよ。そして、それを見た疲れた客が、ああ、なんかいいなと思う、そういうのが芸人だと思うわけです。はい。またあした。

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