歴史を偶然と見るか、必然と見るか

 歴史を偶然の積み重ねとして見るか、必然の流れとして見るか。僕は、前は「偶然の積み重ね」と思っていたんですけれども、最近は、必然なのかな、というか、必然と思った方が良いな、と思っています。どっちにしろ、正しい見方なんていうものはなくて、どう見るか、ということですから。

 例えば、長い狩猟採取時代のうちに、人間の言語はバラバラに分かれていく。ま、超古代文明があったとかいう話は置いておきますよ。定説として、狩猟採取だったとしましょう。

 で、どこかで農業が始まると、人口が増えるから、周囲を巻き込んで併合していって、言語も統一に向かう。集団の人口規模が大きくなると、さまざまな技術が生まれる。そのうち貨幣が生まれ、産業革命が生まれる。という流れを「必然」として見ることも出来る。

 これは、大きな流れの話であって、小さなことは知りませんよ。大きな流れは当たる確率が高くなる。明日の天気は分からないけど、来年の1月15日ごろは寒いだろうな、っていうのは分かる。人間のような、(虚構を使って)集団を拡大できる生物が生まれたら、そのうちこうなるよね、という大きな流れはある。局所的に文明が後退することなんて、いくらでもありますけど、大きな流れとしては「必然の歴史」があると思っても良いんじゃないか、と、最近、思っています。


 さて、問題はこれからどうなるか、ということでして。今まで拡大路線で来たのが、地球環境という天井にぶち当たった。このまま増え続ける、発展し続けるわけにいかないんです。環境の制限があるから。で。過去を振り返った歴史の「必然」というのは、現代社会ありきで言うわけです。我々はスマホがあってタワマンもある世界に住んでいる、そこに至る「必然」です。必然というのは、逆算なんです。因果関係ではなく、ゴールありきなんです。このゴールにどう至るのか、という話です。

 大航海時代に西廻り航路に挑んだ人たちが、その先にスマホを描いていたかというと、そんなことは無い。当事者には分からない。という意味で、偶然の積み重ねではあるのですが、現代社会が生まれたという結論からすれば必然になるということです。

 ということは、未来を予想する時に、今までこうだったから、という、過去と現代の延長線上にある未来を描くのは、コロンブスがスマホを想像できないようなものでして。ま、せいぜい数十年先ぐらいは良いとしても、数百年先となると全く違ったものになるんだと思います。

 未来ってのは予測するものではなくて、作るものでして。こういう未来像がある、そこに至る「必然」として、このようなことを今、しなければいけない、ということなわけです。歴史を必然と見る見方を、未来に伸ばすと、そうなるんです。問題は、どういう未来像を想像するか、ということです。一歩一歩を積み重ねた先にゴールがあるのではなく、最初にゴールがあり、そこに至る道のりがあるということです。

 で、その設定は自由なんですよ。人類が滅びていると思ってもいいし、マトリックス的なディストピアと思う人もいるでしょうし。

 ま、僕はいつも言っているように、100人単位を核としたコミュニティを基盤とした社会になっているべきだ、と思っています。だってそれが一番、人間が幸福に生きられる設定なので。そこに至るのに、じゃあ、いつごろ「お金」が意味をなさなくなるのだろうとか、いつごろ国家が無くなるかとか、核兵器はどう管理されているかとか、逆算するわけです。

 今まで、そうやって色々な発明もされてきたんじゃないでしょうか、知らんけど。流行り言葉を使ってみましたよ。ま、大きな歴史という例を挙げましたが、個人でもそうですよ。

 今の延長線上で、近視眼的に行くと、偶然性が高い人生になります。一方、最終目標を定めていると、偶然性が減ります。そりゃそうで、道に迷った時に、なんとなく心地良さそうな方に曲がってばっかりいたら、道に迷うでしょう。そんな感じ。ざっくりでも遠くの高層ビルとか太陽を目印に、近くのことは気にしないで進むのが迷わないコツ。またあした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?