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芋虫と蝶々は、子供と大人ではない

 「子供」と「大人」というのも、文化の一つであり、ただそう名づけているだけのものなのですが。そう思うのは、主観的に、自分の感覚って子供の頃と、大人になってからで、変わっていますか? 僕は変わっていないと思うんですよ。僕は今、43歳ですが、感覚的なものは子供の頃から変わっていない。経験を積んだり、知識が増えたりして、なので自信がついたり、行動の選択肢が広がることはあるけれども、主体としての自分が何か変化したとは思えない。そして恐ろしいことに、おそらく死ぬまで変わらないんだと思います。

 自分の子供の成長を見ていても、まぁ、三つ子の魂百まで、というか、三歳どころか生まれた時から性格は決まっているんだなと実感しています。で、それは毎度言うように、千差万別なものです。一人ひとりが違う。でも、それでは近代国家が成り立たないから、教育で同じにするわけです。で、その過程を経て、それなりに形作られた人格になった人を「大人」と言うのでしょう。大人も子供も文化的なもの(人為的な作り物)であるなら、それを人為で作るのは当然です。

 よく、風刺的な意味合いで、嫌なことも飲み込むのが大人だ、みたいな言い回しがありますよね。課長島耕作的な。で、今、僕が書いたような「大人」の定義であれば、それは正しいんです。子供のように自由に振る舞うのが大人ではなくて、自分を抑えて社会的に振る舞うのが大人である、と。ま、もちろんこれは定義の問題であって、僕は「大人」をそう定義づけない限り、「大人」というものは生まれないだろうと思っているので、そう定義しているだけです。「子供のような大人像」という逆説的な定義では、そもそも大人が生まれていないですから。

 芋虫が蝶になるように、子供が大人になるわけでは無い。むしろ人間の初期設定は、子供も大人もなく、生まれた時から死ぬまで続く自我同一性があるわけです。芋虫と蝶に、自我同一性は無いと思います。蝶が飛び回って大地を見て、ああ、芋虫の時はあそこにいたなぁ、とか思わないと、思う。知らんけど。でも、思わないと思う。だって、そんなことを思っても意味が無いから。蝶の役割である、食事を(芋虫とは違う)して、つがって、子孫を残して、という行動に芋虫時代の記憶は必要ありませんから。

 人間の場合は、そのような記憶の断絶は無く、ずっと同じ自分であるという自我同一性がある。もっとも、この副作用として「死ぬのが怖い」が出てきてしまいますが。自我同一性があるということは、死んだらどうなるんだという疑問は当然、付随してくる。ま、これが死の恐怖の根本だと思います。で、考えたいのは、なぜ自我同一性があるのか、ということです。

 おそらく、自我同一性を持ち、記憶を後世に伝えることが、人間(集団)の生存戦略だったからです。戦略が先で進化したのか、そう進化したからそう生きているのかは、卵と鶏問題ですが。ただ、自我同一性が無ければ、ノウハウを後世に伝える集団は作れない。ということで、人間はそのような特徴を持つわけですが。これまた毎度言うように、そのような人間の特徴が、現代社会の環境にフィットしているかというと、そうでもない。むしろ、そのような自我同一性が自分を滅ぼすことは、多々あるわけです。

 例えば、すごく辛い思いをして自殺してしまう。こんなのは自我同一性があるからで、昨日の失敗は、あれは自分がやったことじゃ無い、なんて思えたら死ぬことも無い。新たな気持ちで、新たな日を歩めば良い。こんな性格の人の方が、現代社会では成功するでしょう。でも、そんな性格のやつが成功できる環境を、人間のDNAは想定していない。生まれてから死ぬまで続く人間集団を想定しているんですから、互いの把握のために、自己同一性が必要なんです。そして、そういう形態を取り続けたら、自己同一性が低い人間は排除されたことでしょう。

 ということで、我々は記憶にとらわれ、この先の未来に不安を持ち、死んだらどうなると思ってしまうわけです。集団戦略を取るホモサピエンスの遺伝子の、自己同一性の副作用にハマっているわけです。そして今また、この自己同一性はシステムとしても、作られている。アカウントを作り、マイナンバーで紐付け、クレジットの信用情報はついてまわる。それは、自己同一性のシステムです。村社会の自己同一性から抜け出したと思ったら、グローバルな経済システムの中での自己同一性を求められるわけです。

 ま、人間はそういう動物。とはいえ、その一方で、芋虫が何もかも忘れて蝶になるような自由さにも憧れるわけです。異世界転生ものなんて、そういうことでしょう。また、なぜか自己同一性に反する「子供と大人」という文化を作り上げてしまったからこそ、子供時代は「楽しい」し、子供から大人に移り変わる高校生とかは、ドラマチックに映るわけです。裏の裏で表、みたいなことですけどね。なので、自己同一性のはびこる社会で、子供時代は自由の象徴と思われるわけです。で、もちろん、そんなことは無いんですけど。またあした。

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