いまだ精神論が生き続けている理由
この文章を書くときに、いつも、youtubeで「集中 勉強」とか検索して、環境音楽的なものをBGMでかけているんですが。カフェの音、雨音、波の音、川のせせらぎ、鳥のさえずり、などなど。
このような音を聞いてリラックスするということは、人間の遺伝子は、そのような環境──たとえば砂浜とか、人が周りにいるとか──は、安全だから、リラックスして良いという判断をしている、ってことです。
人混みが安全とか、水の近くが良いというのは分かるとして、鳥の説明をします。鳥の鳴き声がする、というか、さえずるような鳥がいる場所って、森ではなくて、ひらけたところなんです。鬱蒼とした森よりは、ちょっと木が少なくて、広場みたいになったところに、小鳥は来ます。
それは、人間が安全と思う生息域とかぶっているんです。だから、鳥がさえずるような場所では、リラックスして良い、ということです。あと、先日、書いたけど、焚き火がはぜる音とかね。これもリラックスします。
逆に、人間が聞いて本能的に緊張感を高める音、というのもあります。嫌な音です。黒板を金属でキーっと削るような音、大抵の人は嫌でしょうけど、あれはサルが「敵が来たぞ!」と知らせる時の音と似ているそうです。だから、本能的に逃げたくなる。
サイレンの音とかも、おそらく元を辿れば、なんかの危機のサインだったりすると思います。その本当の原因はともかく、「聞いて不快になる音」だから、サイレンの音として採用しているのでしょう。
こういう、環境からの自動入力反応は、聴覚だけじゃなく、視覚でもあります。赤だと、居心地が悪くなるとか。
なので、回転率を高くしたい飲食店の椅子は、赤くするんですけど。居心地が無意識に悪くなるから、飯を食ったら、さっさと出たくなるんです。それで、回転率が上がる。陸上のトラックも、赤茶色から青にしたら、記録が伸びますし。そもそも、止まれというのは赤信号です。ま、そういうレベルの、サル時代、哺乳類時代、もっとさかのぼれば爬虫類とか魚類の時代から、本能的反応として埋め込まれているものがあります。
いわば、人間の反応なんてそんなものなのだから、どうにか「気持ち」を変えようとするよりも、その気持ちになるような「環境」を変えた方が良い。人間も含め、生物というのは、周いの環境の中でどのような反応をし、行動するかというシステムですから、行動を変えたければ環境を変えたら良いのです。青い陸上トラックで走れば記録が伸びるという程度の生物なのですから。
で、環境を変えないで行動を変えようとすることを、何というかというと、精神論と言います。では、なぜ日本では精神論がいまだに流行っているのか。
その大きな原因は、僕は「稲作」だと思っていて、稲作というのは他の食糧獲得手段──漁業や狩猟や小麦やトウモロコシや畜産──に比べても「土地の固定性」が高い。動けないんです。だって、稲作は水を水平に溜めるという、すごい工事をした田んぼで行うわけです。ただの地面じゃ無いんです。それに、水を引いてくる灌漑設備もある。替えが効かない。今年は違う場所でやろう、とか出来ない。
そして、稲というのは連作障害がありません。だから毎年、同じ場所で作れる。他の作物だと、そうはいかないから、場所を変える。歴史の教科書で、ヨーロッパの「三圃式農業」ってのを習ったと思いますが、ああいうように場所を変えないと無理なんです。稲作だけは、ずっと同じ場所でやり続けられるのです。
場所が変わらないということは、環境を変えられない、ということです。環境が変わらないのだから、行動を変えるためには、どうすればいいか。生物の行動様式(文化)というのは、環境入力と行動をつなぐ関数です。環境が変わらなければ関数を変えるしか無い。
f(x)=yのxが環境でfが文化、yが行動結果(生産)です。xが固定されているならfを変えるしか無いでしょう。で、fは本能によって規定されています。本能のf(思うがままに自由に行動すること)では、yが出ない環境ならば、頑張ってfを変えるわけです。f'にする。
fをf'にすることを「文化」であり、他の言い方をすれば、教育であり、文明の発展であり、究極的には精神論です。程度の差、ですが。
現代社会では、どんな文化もf(本能)からは離れているのですが、f'とfの差、f'-fの絶対値が大きければ大きいほど、大変です。僕の基準では、それが小さいのが良い文化で、大きいのは悪い文化です。精神論は、かなり大きい方です。
ちなみに、僕が毎度言う「村づくり」の生き方というのは、まず、現代社会で「出すべき」とされているyを変えることです。yは、身体的に幸福に生きられればいいじゃん、というぐらいのレベルで良しとする。そして、fは可能な限り本能のfに近い方が良い。そのほうが、学習とか努力の必要が無いからです。
先ほど言ったように、学習や努力、そして精神論というのは、fをf'に変えることですが、これは、遠ければ遠いほど大変。例えば、特攻隊なんていうのは、めちゃめちゃ本能fと離れているf'です。だから特攻隊は究極の精神論なわけです。
ここでもう一つのポイントというのは、環境であるxは時代とともに変わり続けている。技術発展や、交流によって変わります。
交流は、現代的に言えば、グローバル化です。技術発展は、100年前なら、xに田植え機とか自動車とかインターネットが無かった。今は、ある。
なので、現代の環境であるxを見極める。そして一方で、何が必要なのかというyを見極める。その間をつなぐ関数であるf'を可能な限りfに近づける。その結果、できたf''は、現代日本の文化であるf'とは違うものになるから、「新しい生き方」ということになる。
精神論の問題は、環境のxが変わっているのに、相変わらずf'を使い続けると、そりゃ出力のyは変わるだろう、って話です。日本の生産力が落ちているというのは、xが変わっているのに関数f'を変えないからyが下がり続けているという問題です。
でも一方で、yの出力が多ければいいという価値観は、資本主義です。目的がyの最大化です。そもそも、それが別に必要無いんですけどね。ただ、もしそれを目指すとしたら、yを最大化するためのf''にすることです。それは、現代的な文脈のデジタル化とか教育改革とかです。
僕は、その道が良いとは思わないのは、目的が違うから。僕が良いと思っているのは、f'をf(本能)に近づけることです。yを最大化することでは無い。yを無目的に最大化するのではなく、必要なだけで良い。
しかし、ある程度のy(生産)が無いと、環境を安定させられないから、必要ではあるんですよ。外国の脅威から守るとか、隕石から守るとか、そういうことには出力結果としてのyが必要であり、それが無いと、環境が変わる、つまりxが変わる。するとf'はfから遠ざかる。これは良くない。平時には無駄となるyも、環境安定のために必要です。
僕が思う「必要最小限のy」というのは、xを安定させるため、環境を安定させるためのものです。yの目的は、xの安定です。
それは現代的な文脈で言えば、環境主義でしょうね。環境はxですから、xの安定を求めるというのは「環境保護」になるのです。xが安定すれば、我々はfを変化させずにいられる。精神論の不要な、幸福な社会になるのではないかと思っています。
鳥がさえずり、穏やかな波音が聞こえるような。それが、ヒトが幸福でいられるfです。だって遺伝子改変しない限りfは不変ですから。fを基準にすべきです。またあした。
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